☆嘉納治五郎と仲良し☆曽祖父①柔道 | ☆同窓生の窓☆西一之江小&松江五中

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☆嘉納治五郎と仲良し☆曽祖父①柔道
私の曽祖父が、
『柔道の父』嘉納治五郎と仲が良く、
いつも一緒だったと、
今年になって知りました・・・。
嘉納治五郎のお墓が、
うちのお墓のすぐ近くで、
何度かお参りしたことがありますが、
仲良しだったとは、
知りませんでした。
まさかそういう関係だったとは、
思いも寄りませんでした。
 
曽祖父のことは不詳なことばかりでしたが、
曽祖父の孫にあたり、私の父の従兄弟の、
大鳥居和夫さんにお会いでき、
いろいろなことがわかってきました。。。
 
 
☆嘉納治五郎『柔道の父』
嘉納治五郎(1860~1938年)と言えば、
『柔道の父』と呼ばれ、
講道館柔道の創始者だったり、
『日本の体育の父』とも呼ばれて、
体育やスポーツの普及・発展に寄与し、
オリンピックの参加や招致に尽力しました。
貴族院議員にもなっています。
 
あまり知られていないのが、
東大を出て、教育関係にも造詣が深く、
学習院、筑波大学の前身校、
東洋大学の前身校などで、
教諭や校長などを務めています。
文部省官僚としても、
いくつもの委員を歴任しています。
東京外国語大学の前身校を出、
さらに東京大学文学部を卒業しています。
外国語や政治、経済、哲学、
他幅広く勉強しました。
 
生家の嘉納家は神戸灘の酒造・廻船業の名家で、
勝海舟の後援者でもありました。。
『嘉納三家』と言って、
灘五郷(灘の生一本)、菊正宗酒造、白鶴酒造があり、
灘中学校は、嘉納治五郎と、
この嘉納財閥によって設立されています。
 
2019年のNHK大河ドラマ
『いだてん〜東京オリムピック噺〜』
でも、
嘉納治五郎は中心的な存在でした・・・。
 
というようにスゴイ人なんですが、
そんな人と曽祖父の、
鈴木竹次郎(186?~1941年)が、
どうやって知り合ったのでしょうか。
曽祖父も柔道の有段者だったといいますから、
柔道で知り合ったと考えるのが、
妥当かと思います。
ただ、
知り合ってから柔道を始めたのか、
柔道をやっていて知り合ったのかは、
わかりません・・・。
年齢が近かったのも、
馬が合ったのかもしれません。
当時、神社などが、
柔術の普及の場になっていた所もあり、
湯島天神も使われていたという記録もあります。
亀戸天神でもそういうことがあったのか、
不明ですが、
曽祖父の二女が亀戸天神に嫁いでいますので、
もしかしたら関係があったのかもしれません。
その二女の長男が大鳥居和夫さんで、
話によると、
「嘉納治五郎とよくいっしょにいた・・・」
ということですから、
とても仲良しだったと思われます。。。
 
 
☆私と柔道
私が中1のとき、
幼馴染みの中山隆仁君から、
小松川警察の道場に柔道を習いに行くのだけど、
いっしょに行かないかという誘いをもらいました。
当時中山君は日大の中学の方に通っていて、
学校は別々でしたが、
お父さんのコネか何かで警察道場に行けるらしく、
1人ではさびしいので誘ってくれたのだと思います。
父の許可も出、柔道着を買ってもらいました。
当時、小松川警察署は荒川の西側、
小松川橋を渡ってすぐの所にあり、
距離がありましたので自転車で行っていました。
当時の小松川橋は鉄製で、今よりは低かったですが、
歩道は広くなく、自転車は走りづらかったと思います。
行きはまだ明るかったかもしれませんが、
帰りは暗くなって、照明があまりなかったのか、
暗い感じの小松川橋をかっ飛ばして走った、
そんな光景が目に浮かびます・・・。
定かではなくなってしまいましたが、
半年位だったか経って、
何かの都合で中山君が行けなくなってしまいました。
1人で通うことになり、
週に2回くらいだったかと思いますが、
私も1人では通いづらくなり、
どのくらい続いたか思い出せませんが、
1年も経たずやめてしまいました・・・。
 
中3になって、
体育の授業で柔道を習うことになりました。
ここで再び眠っていた柔道着が役に立ちました。
昨年、同級生の家巡りをしましたが、
当然ほとんど転居等していて会えませんでした。
そんな中、上町広一君に会うことができました。
1年と3年のとき同じクラスでした。
どっちの学年だったか、仲の良いときがあり、
時々遊びに行っていました。
軍人将棋や囲碁を教えてもらったのを覚えています。
55年も経っていましたので、
特別のことがないと覚えていないことが多いです。
私みたいに影の薄いのは、
覚えてくれていない人の方が多いです。
上町君は覚えてくれていたことがありました。
体育の授業での柔道の練習のことでした。
組み合いの練習のとき、
たまたま上町君と取り組むことがあり、
自由に技をかけ合うのですが、
警察道場の先輩の技を思い出し、
かけてしまいました。
『巴投げ』でした・・・。
同じ姿勢で取り組むのと違い、
急にでんぐり返るわけですから、
驚いたというのを覚えていたそうです・・・。
ただ、
だいぶ後になってからか、
中学では禁じ手になったことを知り、
戸惑いを覚えたものでした・・・。
わずかでしたが、
柔道をやる機会があったのは、
曽祖父と柔道の神様嘉納治五郎の、
おかげだったのでしょうか。。。
 
 
 
☆曽祖父・鈴木竹次郎
私の曽祖父、
鈴木竹次郎(186□?~1941年)は、
柔道をやっていて、
有段者だったとのことです。
しかし、
いつ頃から始めたとか、
どのくらいやっていたかとかはわかりません。
 
曽祖父は江東区亀戸と、
江戸川区平井の間の旧・中川で、
『渡し』をやっていました。
その近くに養魚池をつくり、
うなぎの養殖もやっていました。
鯉やフナ、ドジョウなどの川魚や、
スッポンなどの養殖も、
していたのではないかと思います。
そこに祖父・爲治が働くようになり、
実直さを買われ、
竹次郎さんの娘・みねと、
結婚することになります・・・。
 
『渡し』の仕事は徐々に発展し、
釣り道具を貸し出したり、
団子やお茶を出して、
茶店のようになっていきました。
その後、橋が架けられたりして、
茶店だけが残り、
団子などの和菓子店になって、
現在も続いています・・・。
親戚間では「あんこ屋」と呼ばれています。
亀戸9丁目の亀戸浅間神社内の何かの碑に、
たぶん寄付者の名前だと思いますが、
鈴木竹次郎の名前があったのを、
見たことがありました。
 
曽祖父の鈴木竹次郎は、
『東京大空襲』で戸籍が焼失し、
東陽町の城東(江東)区庁舎の方も、
大島の第二庁舎の予備の方も、
さらに都の方のも失われ、
生没年がわからなくなっていました。
 
当時、戸籍の保管形態は統一されてなく、
自治体によってまちまちで、
戸籍正本、除籍簿、一時的な寄留簿などは区の庁舎内で、
区によっては地下倉庫や、防空壕、
別棟の倉庫などに分けて保管していたようです。
『見出帳』という人名リストのようなものもあったようです。
また、副本は『東京区裁判所』などにあり、
八王子にあったようです。
城東(江東)区の場合は、
全戸数の半分の2万軒分の戸籍が消失し、
東京区裁判所の副本も失われたようです。
 
再製するには、
『見出帳』だけでも残っていれば助かりますが、
住民からの申請に頼るしかなく、
正確性に欠けていたようです。
曽祖父・鈴木竹次郎の場合は、
戸籍には箇所は違いますが、
「竹次郎」、「竹治郎」両方記載されています。
亀戸9丁目の浅間神社の寄進などの石碑には、
「武次郎」とかになっていたと思います。
娘のケイさんの手記では「竹二郎」となっていましたし、
孫にあたる久子さんは「竹次郎」と書いていました。
どれが正式な名前なのか、
定かではなくなっています・・・。
本名の他に、
通称として使っていたのもあったのかもしれません。
戸籍を再製するときも、
本名が使われたかどうか疑問です・・・。
私は「竹次郎」が有力だと思い、
主に使うようにしています・・・。
 
ところが、
大鳥居和夫さんから、
命日を知ることができました。
1860~70年の間に生まれたと考えられ、
1941年に亡くなったことがわかりました。
 
嘉納治五郎の生涯は、
1860~1938年で、
曽祖父・竹次郎より、
ちょっとだけ年上だったようです。
ほぼ同じ年代ですので、
馬が合ったのかもしれません。

曽祖父の鈴木竹次郎さんは、
顔が広かったようです。
二女のケイさんが昭和5年(1930年)に、
亀戸天神の息子に嫁いでいますが、
亀戸天神の親戚筋はそれなりの家系でしたので、
鈴木竹次郎さんも、
それなりの人だったのではないかと思います。
65歳位の頃になると思います。
息子の和夫さんの話では、
鈴木家は、
「佐野(栃木県佐野市)の庄屋(名主)だった」
と、ケイさんが言っていたとのこと。
亀戸天神との姻戚が先か、
嘉納治五郎と出会ったのが先か、
年齢的には、
たぶんいろいろ活動し、
嘉納治五郎に出会い、
誰か有力者からの紹介や、
推挙があって、
亀戸天神との姻戚に進んだと考えられます。
嘉納治五郎との出会いも、
有力者などからの紹介も考えられますし、
柔道を始めたのがきっかけだったとも、
考えられます。
いずれにしても仲介者が、
いたのではないかと思われます。
鈴木竹次郎さんは、
顔が広かったようで、
その輪も次々と広がって、
行ったのではないかと思われます。
そして亀戸天神との姻戚に、
結びついたと思われます。
 
日本で初めてうなぎの養殖を始めたのは、
服部倉治郎さんで、
江東区の千田で始め、
その後浜松で浜名湖を一大産地としています。
鈴木竹次郎さんも、
うなぎなどの養殖をやっていましたが、
同じ江東区で近い所でしたので、
服部倉治郎さんと何らかの接触が、
あったのではないかと思います。
服部倉治郎さんの弟秋山吉五郎さんも、
現在の浦安市役所の辺りで、
金魚の養殖をやっていて、
金魚の養殖で名を馳せた人です。
倉治郎・吉五郎兄弟は、
当時深川に住み区会議員を15年務めた、
渋沢栄一とも交友関係でしたので、
鈴木竹次郎さんも交流があった可能性があります。
渋沢栄一は嘉納治五郎とも交流があり、
そちらの流れからも、
鈴木竹次郎さんと渋沢栄一との、
交流の可能性が考えられます・・・。
 
鈴木竹次郎さんの長男の兼吉さんは、
北区王子に住んでいて、
関係はなかったと思いますが、
飛鳥山の渋沢栄一の邸宅も、
すぐ近くでした・・・。
鈴木竹次郎さんと渋沢栄一との、
交流があったとすれば、
鈴木竹次郎さんが長男の王子に、
時々行っていたということですから、
まんざらなことではなかったのかもしれません。
 
鈴木竹次郎さんの末っ子で二男の武雄さんが、
和菓子店を継いでいますが、
さらにその二女の孝子さんが継いでいます。
勝正義さんと結婚し勝姓になっています。
勝といえば勝海舟を想起します。
勝海舟は、本所の、
錦糸町駅の両国側にある江東橋の近くで、
生まれ育っていますので、
もしかしたら関係でもあったかと思いました。
しかし関係はないのではないかということです。
ただ勝という名字はそれほどないので、
どこかで繋がっている可能性はあります。
鈴木竹次郎さんと、
仲の良かったという嘉納治五郎ですが、
生家の嘉納家は神戸灘の酒造・廻船業の名家で、
勝海舟の後援者でしたので、
嘉納治五郎と勝海舟の繋がりもあったと思いますので、
鈴木竹次郎さんとの繋がりもあったかもしれません。
勝海舟は23歳頃まで本所にいて、
その後赤坂に移り、
ほぼ晩年まで過ごしていますが、
生家や実家が本所にありましたので、
時折帰ることもあったのではないかと思います。
そんなときに接点があったということは、
ちょっと難しいですかね・・・。
 
ちなみに、
鈴木竹次郎さんが亀戸に住んでいたとき、
亀戸天神の所のくず餅で有名な、
『船橋屋』が食品関係・商店の会長をしていて、
鈴木竹治郎さんも会員として、
つき合いがあったらしいとのこと・・・。
 
 
 
☆八王子へ疎開
終戦の年の1945年3月10日の、
『東京大空襲』は、
一夜で10万人以上が亡くなり、
広島・長崎の原爆と同じか、
それ以上の犠牲者になっています。
疎開せずに残っていた祖父や父は、
3000人が亡くなっていたという旧中川の、
ほとりまで行き、
死体だらけの中助かりました。
我が家は死者こそありませんでしたが、
家や貸家を全焼しています・・・。
 
そこで八王子の親戚の家に、
しばらく世話になったということですが、
やがて八王子の方も空襲が激しくなり、
東松山の方へ疎開したとのことです。


☆八王子の親戚
その八王子には、
後妻をもらった鈴木竹次郎さんが、
住んでいたということを、
これも最近、
大鳥居和夫さんから聞きました。
とすると、
八王子のどちらで世話になったのでしょう。
しかし竹次郎さんは、
1941年に亡くなっていますので、
後妻さんがどうしていたかによります。
たぶん祖父や父は、
元から住んでいた親戚の方に、
世話になったのだろうと思います。
 
 
☆桶屋
元から住んでいた親戚というのは、
和夫さんによると、
風呂などの桶屋をやっていて、
大きな店構えだったということです。
『鈴木桶店』とか言う、
名称だったのですかね・・・。
5年位前に、
父の政利から聞いたこととして、
「八王子は桶屋をやっていて、
 時々遊びに行っていた」
と記録してありましたが、
それと一致しました。
和夫さんも、
時々遊びに行っていたとのことでした。
 
 


☆桶屋のあった場所
桶屋のあった場所は、
八王子駅から北へ1Kmちょっとの所で、
浅川という川の少し手前だったようです。
和夫さんも何度か行っているとはいえ、
80年位前の子供の頃のことですので、
具体的な場所は思い出せないとのことです。
現在は、八王子駅からまっすぐ北上すると、
浅川大橋に直結していますが、
昔は浅川大橋はありませんでした。
話では西隣の暁橋の、
少し手前だったとのことです。
遊郭の近くだったということで、
調べてみると、
大門の跡や他より異常に広い道が、
見つかりました。
八王子には、駅に近い所に花街があり、
少し外れた浅川に近い所に、
遊郭があったということです。
桶屋の場所が、橋に近い所だったということから、
遊郭の道を越えて、
一つ目の道を右折した辺りではなかったかと思います。
当時の八王子としては、
外れの方の場所になるかもしれませんが、
実際はどうだったのでしょう。
店構えは立派だったということから、
悪い場所ではなかったように思えます。
作業場が必要ですので、
町中というわけにもいかないでしょうけど。
父や和夫さんが遊びに行っていたのは、
ほとんど戦前のことで、
戦争やら何やらあり、
戦後のつき合いがなくなってしまったようです。
桶屋自体、商売が続いていたのかさえ、
定かではありません・・・。
その後どうなったのか、
手がかりはありません。。。
 
桶屋のあったという場所を、
さかのぼって見てみると、
明治初期では浅川の堤になっていて、
家などのない、
原野のようになっています。
明治後期になり、
新地として遊郭が移転してくると、
その辺りだけ家が建ち、
原野も開拓され田畑になっています。
1930年になると、
人口が急激に増え、
町並みが新地の辺りまで繋がって、
桶屋があったと思われる道も、
形成されています。
この頃から桶屋を始めたのか、
以前からやっていて、
ここへ移転してきたのか、
たぶん、
移転してきたのではないかと思います。
とすると、
お店自体も、
新しかったのかもしれませんね。。。
ただ、
はるか昔のことですので、
和夫さんの記憶は定かではなく、
もう少し南側の駅寄りの所だったかもしれません。
宿場町として栄えた町並みが、
甲州街道沿いに広がっていましたから、
甲州街道から少し入った、
所だった可能性もあると思います。
そうすると、
古くからあった可能性があります。
はたしてどうだったのでしょう。。。
 
 
☆竹次郎さんの住居・駄菓子屋
桶屋の先の暁橋を渡った所に、
鈴木竹次郎さんは住んでいたということです。
小さい川の橋のたもとで、
駄菓子屋を営んでいたそうです。
駄菓子屋をやって、
それなりの人数の子供が、
買いに来るような所だったのでしょうか。
浅川を渡った所は、
そんなににぎやかでは、
なかったように思えますが・・・。
先妻のそめさんがいつ亡くなったかも、
戸籍が焼失したりしてわかりません。
後妻のかたは、年齢も、
名前さえわかりません。
1941年に竹次郎さんが亡くなってから、
どうしていたのかもわかりません。
その後の消息も、
わからなくなっています。。。