☆嘉納治五郎と仲良し☆曽祖父②由縁 | ☆同窓生の窓☆西一之江小&松江五中

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☆嘉納治五郎と仲良し☆曽祖父②由縁


☆清水次郎長の子分!?
八王子は、
風呂桶屋をやっていた親戚があり、
曽祖父の鈴木竹次郎さんも、
余生を過ごしていますので、
もしかしたら、
古くから住んでいたのではないかと思い、
「鈴木」の関連を調べてみました・・・。
 
すると、
鈴木綱五郎という人が検索で出てきました。
出生名は綱之助で、本名が綱五郎とのこと。
『関東綱五郎』や、
『大瀬の半五郎』とも呼ばれていたようです。
『大瀬の半五郎』って、聞いたことあるかもしれません。
あの清水次郎長の『清水二十八人衆』に数えられる、
『大瀬の半五郎』と同一人物であるとされるようです。
侠客の仲間だったようです。。。
 
鈴木綱五郎は、
『八王子千人同心』を務める鈴木家に生まれていますが、
先祖は甲斐国で、
武田氏滅亡で八王子に移ったようです。
八王子と言っても外れで、高尾駅の近くの、
甲州街道(国道20号)に面した所に、
生家の大きな屋敷がありました。
綱五郎は18歳頃家を出、
転々した後、清水に流れ着いたとのこと。
次郎長とは年齢が近く、大政よりは10歳上だったようです。
ただ、鈴木綱五郎が大瀬の半五郎だったという確証もなく、
別人という説もあるようです。
が、その後、
京都で火薬商を営み、
成功を収めた時期もあったようですが
晩年は八王子に戻って暮らしたとのことです。
 
『千人同心』というのは、
江戸幕府の警護組織で、
譜代旗本と配下の武士から構成されていました。
甲州街道、日光街道、蝦夷地などの警備と整備に務め、
八王子を中心に配置されていたため、
『八王子千人同心』とも呼ばれていました。
大きな合戦があれば従軍し、
関ヶ原の戦いや大坂の陣、
幕末の長州征討などにも出陣しています。
その幕末には『八王子千人隊』と呼ばれていました。
1組100人が10組で1000人の構成で、
各組には1人ずつ組頭がいて、
1人の千人頭を筆頭としていました。
 
鈴木綱五郎は、
1822~1886年の生没ですので、
私の曽祖父・鈴木竹次郎さんの生没、
1860年代~1941年から考えると、
竹次郎さんが子供の頃に、
鈴木綱五郎は亡くなっています。
竹次郎さんが、
いつ頃から亀戸の方に住んでいたかは、
わかりませんが、
例え親戚関係であったとしても、
二人が会うことはなかったかと思います。
もし可能だったとすれば、
桶屋の方の鈴木家の者が、
鈴木綱五郎と会っていたかもしれません。
問題は、
親戚関係だったかどうかですが、
かなり微妙なところです・・・。
 
 
☆「鈴木」同士の繋がり
名字の、
鈴木・佐藤というのは、
1・2を争う最も多い名字ですが、
多いと言っても、
どちらも人口比2%未満ですので、
人口比で考えるとそれほど多くはありません。
逆に言うと、
同じ名字なら、代々の名字かにもよりますが、
どこかで繋がっている可能性も高いと考えられます。
そういう意味では、
桶屋の方の鈴木家が、
鈴木綱五郎の鈴木家と親戚関係だったという、
可能性もあるのではないかと思います。。。
結局、
鈴木綱五郎との関係は見つかりませんでしたが、
遠い親戚に、
八王子千人同心や、鈴木綱五郎に、
遠からず関係があるのではないかという、
推測や憶測、妄想をすることはできました。。。
 
 


☆ユーミンも八王子
ユーミン(松任谷由実・荒井由実)も、
八王子の出身で、
実家は現在も続く『荒井呉服店』ですね。
八王子は今や大きい都市ですが、
それにしても限られた地域ですので、
直接ユーミン自身とではなくても、
もしかしたら、
『荒井呉服店』と鈴木桶屋の間に、
何らかのやり取りがあったかもしれませんね。
風呂桶を買うことはそうありませんが、
荒井呉服店が鈴木桶屋で風呂桶を買っていたり、
鈴木桶屋が荒井呉服店で呉服を買っていたり、
お祭りや行事などで交流があったとか、
想像に尽きないですね・・・。


 
 
☆栃木県佐野出身!?
『八王子』という地名の他に、
『佐野』という地名も出てきました・・・。
佐野といえば足利尊氏の出身地、
足利市の隣りで、
『佐野厄除け大師』が有名ですね。
近年では、
『佐野ラーメン』が有名らしいですけど、
その佐野にも縁があったようです・・・。
 
父の従兄弟の大鳥居和夫さんから、
今年になって聞いた話ですが、
和夫さんの母親のケイさんが、
「鈴木家は佐野の名主の出身だった」
と、言っていたとのことです。
ケイさんは私の祖母の妹でもあり、
鈴木竹次郎さんの次女になります。
 
佐野の出身だったとすると、
八王子の親戚は古くからいたわけではないのか、
それとも、
八王子の方にも以前から親戚があったのか、
それも結論は出せません・・・。
 
名主だったとすると、
元は武士だった可能性もあります。。。
 
 
☆「佐藤」・「鈴木」という名字
佐藤と鈴木という名字は、
1・2を争うくらいもっとも多い名字ですが、
佐野は佐藤姓発祥の地と言われています。
平将門の乱を鎮めた藤原秀郷が、
佐野に居城していたことからとか、
子孫が佐野に住んでいたということから、
「佐野の藤原」が縮んで佐藤の起源になった、
という説が有力のようです・・・。
「藤」がつく名字は藤原氏の流れとされますが、
地名や役職から「伊藤」や「斉藤」などになったようです。
藤原秀郷の子孫は、
平泉の『奥州藤原氏』として、
三代の栄華を極めますが、
源頼朝の奥州征伐によって幕を閉じます・・・。
明治の名字義務令が出されたことにより、
東北の人々は奥州藤原氏ゆかりの「佐藤」を、
多く選んだと言われています・・・。
 
一方、鈴木姓は穂積氏が大元で、
紀伊国藤白(和歌山県海南市)が発祥の地とのこと。
穂積氏は、
奈良時代から熊野大社の神官や世話人を務め、
『熊野詣』を広めたり、神社設立のため、
東日本を中心とした全国へ広まったそうです。
鈴木姓は、
熊野速玉大社の禰宜・穂積国興の子基行が、
称したことに始まりました。
鈴木基行は、
12世紀頃に熊野から藤白に移り住み、
藤白神社(王子社)の神官を務め、
代々の社家となりました。
この鈴木姓の大元を『藤白鈴木氏』といい、
穂積姓はさらにその大元というわけです・・・。
 
 
☆穂積氏と鈴木氏
その昔、収穫された稲穂は、
乾燥や保存のため、円錐形に積み上げられ、
稲積(ニオ)と呼ばれていました。
「イナヅミ」、「スズキ」、「ボウシ」など、
多くの呼び方があり、
全国各地によって異なります。
韓国でも同様な慣行があり、
朝鮮半島からもたらされたとも考えられます。
近代では竹竿などを組んで、
稲穂を架けて塀のように干すようになりましたが、
稲積の方が容易なことから、
1500年以上もそういう方法が主流だったようです。
その間、
地域によっていろいろなバリエーションが生じ、
呼び方も多様になったようです・・・。
 
新嘗祭(にひなめさい)は、
天皇がその年に収穫された新穀などを供え、
神からの賜りものとして自らも食する儀式ですが、
稲積(ニオ)から新嘗祭に、
発展したとも考えられています・・・。
 
収穫を祝う祭事では、
円錐形に積み上げた稲積・穂積の頂上に、
わら帽子のようなものを被せたり、
棒を立てることもあったようです。
稲積自体を「スズキ」と呼ぶ地域もありますし、
この棒を「鈴木」と呼ぶこともあるそうです。
また、地方の神社建設前に、
一時的に大木に鈴をかけ信仰の対象とし、
「鈴木」と呼ぶようになったとも言われます。
 
私の娘が以前住んでいたのは、
鈴木さんという大家さんで、
昔なら「鈴木荘」とかなんでしょうけど、
「ベルツリー」と、
そのまま英語にしたアパートでした。
偶然、我が家の近くにも、
「ベルツリー」というアパートを、
散歩で発見して、
けっこうあるのだと思ったものでした。
 
 
☆鈴木と佐藤の関係
穂積を姓とする氏族は、
穂積朝臣以外にも、
桓武平氏北条氏流、桓武平氏千葉氏流などと、
藤原北家秀郷流もそうでした。
とすると、
藤原秀郷は佐藤の源流でもあるし、
鈴木にも繋がっていたわけです・・・。
 
また、
『佐野荘』(さののしょう)というのは、
佐野市にもあるのですが、
紀伊国にもありました。
頼朝のおばにあたる鳥居禅尼は、
熊野別当行範の妻で、
いくつかの荘園を持っていて、
その一つが紀伊国佐野荘でした。
鈴木と佐藤は関係があるようなないような、
いろいろ入り組んでいるのですね・・・。
 
 
 
☆三大怨霊!?
藤原秀郷は佐藤の源流でもあるし、
鈴木にも繋がっていましたが、
平将門を討ったことでも有名です。
 
菅原道真、平将門、崇徳天皇を、
『三大怨霊』というらしいです。
死後、天変地異や不慮の死などが重なり、
祟りや怨霊と思われるようになったようです。
 
菅原道真:845年8月1日~903年3月26日。
平将門 :903年? ~940年3月25日。
崇徳天皇:1119年7月7日~1164年9月14日。
と、900年以上前のことで、
科学的ではなかった時代ですので、
やむを得ないのかもしれません。
ここで面白いのは、平将門の生年です。
903年というのは定かではなく、
いくつも説があり、
10年以上食い違う説もあります。
ただ、903年とすると、
菅原道真が亡くなった年で、
生まれ変わりではないかという、
えにしまで想起させられます・・・。
私的には、
崇徳天皇が私と同じ7月7日生まれで、
833年差ですが、えにしを感じます・・・。
 
私の祖母の義兄が亀戸天神社の宮司で、
菅原道真の末裔になります。
その弟、私の祖母の義弟も、
神田明神の宮司になりましたが、
神田明神では平将門を祀っています。
菅原道真と平将門、
亀戸天神社と神田明神、
両者と両社が繋がっているのですね。
これもえにしというのでしょうか。。。
 
私の妻は筑波山の出身で、
筑波山や周辺は平将門に縁の深い所です。
私はそういう方向からも平将門に縁がありました。
豊作を祈る儀礼が盆踊りや社交の場のようになった、
『嬥歌』(かがい・歌垣・踏歌)は、
筑波山神社後方の嬥歌の地も有名で、
平将門も参加していたと言われています。
私はそういうことを知るようになり、
平将門をより意識するようになりました。
平将門の乱を鎮めようと、
成田山新勝寺で祈祷されたということで、
平将門を崇めたり慕う人は、
新勝寺には行かないようにしているようです。
私も意識したことがありましたが、
今はそれほどではありません。
仕事のついでに門前までは、
行ったことがありますが、
もう訪れる機会もないと思います・・・。
 
なお平将門は、
千葉県佐倉で生まれたとされますが、
生地も生年も定かではありません。
茨城県坂東市岩井を本拠地としていて、
亡くなったのはその辺りのようです。
千葉氏や相馬氏は将門の子孫と言われますが、
確証はなく、
家系を将門に結びつけたもののよう・・・。
 
 
 


☆お墓・・・
嘉納治五郎のお墓は、
都営霊園なのですが、
千葉県の松戸市『八柱霊園』にあります。
都営ですが、いろいろと有名な方も眠っています。
『青山霊園』なども都営ですが、
著名な方が多いようです。
嘉納治五郎のお墓は、
西門を入ってしばらく行った、
ロータリーの角にあります。
私の母方のお墓はすぐ手前にあり、
60年も行っていたのに、
嘉納治五郎のお墓を知らず、
素通りしていました・・・。
父方のお墓は南門に近い所にあり、
そちらとの移動で通っていた所でした。
かなり最近ようやく知ることができ、
お参りしました。
しかし、
父の従兄弟の大鳥居和夫さんから、
嘉納治五郎と曽祖父の鈴木竹次郎が、
仲が良かったと聞いたのは、
今年になってからで、
そうとは知らずにお参りしていたのでした。
秋のお彼岸には、
嘉納治五郎のお墓も、
気持ちを改めてお参りしてきました。
 


嘉納治五郎のお墓は、
普通の区画よりも大きく、
なぜか鳥居があります。
墓石も小さい円墳のような感じで、
独特です・・・。

これは神式で、
治五郎の父親の実家が、
神社だったことも、
関係があったのかもしれません。
そういうことから、
亀戸天神や神田明神などとも、
縁があったのかもしれません・・・。
オリンピックや世界大会などの前には、
柔道の選手団が墓参に来るとのこと。
『柔道の神様』ですからね。。。
 


 

 

その曽祖父の鈴木竹次郎は、
戸籍等も空襲で消失しわからなくなっていますが、
お墓の場所も未だわかっていません。
私の調査中なのですが、
同じ八柱霊園にあるのか、
八王子の方にあるのか、定かではありません
 
一方、
神田明神の宮司になった大鳥居五郎さんも、
同じ八柱霊園だったと、
これも今年になって大鳥居和夫さんから聞いた次第。
場所は確認していませんが、
同じ霊園だったのでした・・・。
ちなみに、
大鳥居五郎は戸籍上の名前ですが、
「吾郎」を使うようになっていたようです。
なお、
亀戸天神の大鳥居家のお墓は、
神社裏手に代々あるとのこと・・・。
 
 
 
☆由縁・・・
いろいろな人、
いろいろな名前、
いろいろな場所の
いろいろと絡み合った
曽祖父・鈴木竹次郎の
由縁・・・
 
顔も
生没も
不明なところの多かった
鈴木竹次郎さん・・・
 
今年は
こんな年齢になって
少し
わかったような
近づいたような
。。。
 
 
 
 
 
 
 
 
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