過保護、過干渉とこころの安全基地 | 非常識義母と絶縁した。子育て世代取扱説明書

非常識義母と絶縁した。子育て世代取扱説明書

過干渉・非常識・お姫様勘違い義母と、マザコン夫に追い詰めらた妻のブログ。絶縁したのは私だけ。
育児、ママ友、親戚付き合い等、子育て世代が避けては通れぬ問題にも言及。
伏線だらけの内容。回収するもしないもあなた次第。


沈黙を貫く犯人の児童。
当時を知る保護者は「結局、誰だったのか」と話題にはなるが、確信はない。

もちろん、 子どもたちも大人も
最初に虚言を吐き自作自演した子どもと、
我が子に無視を貫いた女の子を疑がった。

が、両者の親は我関せず。
否定も肯定もせず、反応なしを貫いた。

教員なのか、生徒なのかすらわからない犯行は結局、うやむやに終わる。

この時、痛烈に感じたこと。

✔加害に合わなければ、同じ空間にいても所詮、他人ごとでいられる。

✔「噂になりたくない」と被害者自らが火消しに走る、沈黙を貫くことがある 

✔教員と保護者の距離は縮まない


そして
「被害にあった親が積極的に動かないものは立ち消えする」

これは痛感した。

娘はPTSD発症し、
その際、根底に「もの隠しのいじめによる人間不信と恐怖」。ここが、様々なものへ派生したとの診断を受ける。
このトラウマを解かないと、盗撮の心の傷に近づけない。

卒業してしまえば済む。そんな次元ではなかった。

中学で盗撮被害にあい、
結果、中高一貫校だったのに外部受験を選んだ娘だが、
高校の今も、男性教諭を怖がる、無言でスマホやタブレットのカメラを向けられるのを極端に嫌がる、録音、録画されるすべてのものに拒絶する。

そして
「前を向け!」「いつまでも過去に縛られるな!」「忘れろ!」と、言葉を投げられる。

親が動けば
「過保護」「過干渉」と叫ばれる。


当事者になっても同じ言葉を我が子に言えるのだろうか。


私は、いじめも盗撮も、長男の耳を鉛筆で刺される被害も。

どれも「法律」は存在するのに、加害者を裁けないものが存在することにあがいている。

そしてここに強い不信がある。

学校が隠蔽したら、弁護士がいくら申し入れをしても応じない。
プライバシーと引き換えに全面対決したとて、年単位の時間を要す。
誰もそれをケアしてはくれない、自分との戦いになる。


完璧な証拠を揃えない限り、隙を与えない反論をしない限り、
相手は非を認めない。

非を認めたから反省するかと言えば
それは表面上だけであって本質は何も変わらない。

謝罪を受けたから許せるかと言えばそれもない。


そして、第三者による誹謗中傷が始まる

犯罪に捲き込まれたら自分が納得できるものなど決して望めない。
より、それに近いものを求めても
結局、当時の元気な我が子には戻らない。

加害者の家族は息をひそめて暮らすかと言えば一概にそうではない。

被害者の家族は、それぞれの立場で葛藤し、言い合いになることすらある。

私は、大前提として、
我が子に「どうしたいか」を問い、それを尊重している。

娘は加害教諭と、学校に徹底的に闘いたい。これを望んだ。
なので、その意思を汲んで動いた。

一方で、学校からの評価を親が気にして、子どもの気持ちを潰した親もいる。

何を選ぶも自己責任の中、
証拠と知識量がものを言う。

先回りし、相手を封じ込める。


誰も最初からこんなことを望んではいない。
だが、泣き寝入りがあまりにも当たり前になるのは後悔しか残らない。

逃げるが勝ちと言う人もいる。
考え方はそれぞれにあるが

被害者の子どもの声を無視しない。
それが過保護、過干渉と好き放題他人に言われようが、親の出来ることの1つと思う。