先日、佐々木秋放(しゅうほう)先生から、大きく元気な筆字で私の宛名が書かれた封筒が届いた。
90歳になられた先生のいけばな人生の集大成の作品集。
草月を愛し、IKEBANAを愛し、世界の人々とIKEBANAで交流してきた、いけばな人。佐々木秋放先生。
情熱を即、行動し活動される方です。
草月流 勅使原蒼風「花伝書」には、日本人には形式も好み、形式からのがれることも好むという、二重の性格がある。
ものを表裏とも両立させるという特徴がある。
「花で人間をいけるので、人間が花をいけるのではない。」
花は、美しいけれど、いけばなが美しいとはかぎらない。
花は、いけたら、花でなくなるのだ。
花は、いけたら、人になるのだ。
だから、おもしろいし、むずかしい。
私は秋放先生の、椿、小菊の一種生けが好きでした。
花展での懐かしい作品をいまこうして眺められるなんて、とても嬉しいです。
秋放先生のいけばな人としての素晴らしさは、何といっても高度な神業的技術です。
「花伝書」では、いけばなでは、「切る」技巧を多く使う。切って切ってつくる。
次に使う技巧は、「曲げる」 曲げるのは、曲線をつくる時だけではない。
直線をつくるのにも、曲げる技巧がいる。
根本にもうひとつ、「留める」技巧がいる。
手の技術。
人間の手の、血のかよった技術だからこそいいのだ。
手は習えるもの。
手はしこむことができる。
手ほどきという言葉もある。
手が動かない、手が馴れていない、手が狂っているなどいいはずがない。
手のことをしているうちに、心の問題になってくる。
夢中になって、目だけになってはいないか。いいかげんに見ない。
目だけになるよりも、もっと悪いのは、手だけになってしまうことだ。
こころは消えていないか。心の問題。
いけるときは、花に近寄っている。
全体を見ないで、部分のみ気にしている。
いけている位置で、美しいようにまとめている。
いけばなを眺める人は、いけた位置まで近寄らない。
離れて見ると、オヤオヤと思うような欠点を発見することがある。
美容の専学で表現の授業をしていた時、役に立った花伝書でした。
「世界に花あり、人あり」を実践されてきた秋放先生。
花でご自身の心を創作・表現してきた方。
喜寿に出された「瞬」は花をいけることは、嬉しい、楽しい、喜びの一瞬の連続との思いから。
私は先生から、人間として、女として、主婦として、妻として、母として、娘として、祖母として、日本人として等々の姿を見せていただいています。