志とは

将来への個人の希望であると同時に自己の生命の源に通じる道である。ゆえに一個人の希望は万人の喜びに通じる。


単に自分が金も持ちになりたい。名人になりたい。何の不自由なく気まま生きたい。それは実現するかもしれないし、到底至らぬ目標かもしれない。なぜなら生命の付加価値に過ぎないからだ。いわば付録であると思う。

大抵の人は、このオマケを目標に夢が実現した。夢に挫折したと言う。

しかし、根本は生きているという事の事実。生きているから知りたい事もあり、生きているから誰かを愛する。逆に生きているからさびしい時もあり、苦しい事もある。

つまりは生きているからこである。


この生きているという事実の根っこに水を与える事、肥料を与える事。生きていると言う事実の幹を太くする事。生きているという事の事実の枝に咲く花を咲かせる事。生きているという事実の葉っぱに太陽の光と空気を呼吸させること。

それが生命の源に通じるという事であり、そこに始めて全ての他者との関係に自己の生命が生かし生かされ、幻の如き夢ではなく、今ここにある喜びを得る。

その喜びに至る時、金銭であろうが、功名であろうが、望んで手に入らぬものはない。

充分に生きてこそのオマケなのだ。


朝をグタグタと起き、夜をダラダラと過ごして命が喜ぶはずがない。

肉や脂、砂糖や塩などを余計に食べて命が喜ぶはずがない。

携帯電話ばかりいじって、人の手と手を触れずに命が喜ぶはずがない。

脳みそばかり働かせて身体を使わずに眠れるはずがないではないか。

無添加、無農薬それもよいでしょう。けれど、腹八分目に季節の野菜や米を食べて、身体を動かせば多少の事を気にする必要はない。

ため息ついたら、次は人前で笑え。

腹が立ったら溜め込むな。その場で怒れ遠慮するな。

悲しい時には泣けばいい。泣いてすがれる人を掴んでおけ。


命の喜ぶ事をどんどんすれば、他人も、他の生き物も、本当に繋がっている、共に生きている事が腹で分かる。

だから、他の命の喜ぶ事もどんどんする。それが志ではないか。

私はそういう志の持てる人を武道を通じて育てたい。それは自分もそうありたいからだ。


生命は美しい。

生命を美しいと観る事が出来る人。それがこの武道を志す人なのだ。



佐世保 温故知新の合気道 合気新道

佐世保 温故知新の合気道 合気新道

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美しさは強さである。強いから美しいのではなく、美しいから強いのである。生命は美しい。生命を美しさと観る心が人の目指す道であり、この道は神に至る。

神とは善でもなく悪でもない、常に全である。個はひたすらに全を顕そうとする創造化育の源に通じ、それぞれの個性を持って未来に向かう。一切の過去は源に通じ、個性は無限を顕す希望である。その壮大な活動は自由と調和を矛盾無く表現する芸術家である。神とは生命と言う活動を通じて、自由と調和された力を矛盾なく描き続ける芸術家である。

ゆえに私達は生命を美と観る時、美は自由と調和を指し示す大なる羅針盤となることに気付く。

自由とは自己の個性を伸びやかに発揮し、無限の創造性と表現をもって喜びを探求する姿である。その個々の自由が他者の自由を奪い、争い合うのが人の世に見えるが、それは個々の利害から観た一面であり、実は常に源に相通じ、互いの個性は源を顕す多面を形成する無限な表現である。

そこには勝ち負けがない。常にあるのは勝利のみである。

人は事の善悪や一喜一憂する出来事に迷う時、海、山、川、草木、様々な生き物、空と雲、太陽と星、月の輝きに眼を向けるとよい。その美しさに心を取り戻すのだ。

小さな足元の草にさえ、人は大きな希望と勇気を偉大な愛を観る事が出来るだろう。

美は人の最大の武器である。



佐世保 温故知新の合気道 合気新道


佐世保 温故知新の合気道 合気新道

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しばらく、このブログの執筆を休憩しておりましたが、新しい題材をもって本の執筆のために草稿として、このブログを活用することにした。

タイトルは「美しき日本」 テーマは「美への探求としての武道」です。合気新道は佐世保を拠点として活動するNPO法人です。武道教室を企画運営を行っております。
主に合気道の指導を行っておりますが、NPO法人名でもある合気新道は新しい武道として、現代社会に一つの武道のテーマを投げかけたいと思っておりました。
そのテーマは何かという事に様々な角度から試行錯誤するなかで、ようやく「美」という事に歩を進める決心が出来ました。
その合気新道が掲げてゆく「美」とは何か、それを本として出版することをまず近い目標として、草稿を手がけます。


千年杉


佐世保 温故知新の合気道 合気新道


熊本県は南阿蘇より高千穂方面へ行くとに草部という地域に吉見神社があります。
この神社は鳥居より石段を下り、本殿に至るという下り石段の神社。
その本殿の脇に千年杉が見事な幹と枝振りで、まさに天に向かって突き立っている。
この千年杉は草部吉見神社のご神木。大きな縄が巻かれている幹は大人が手を繋いでも5人では抱えきれないほど太い。


佐世保 温故知新の合気道 合気新道

千年と一口に言っても、どれほどの長さであろうか。長さというものは何かと比べる事で長短が測られる。
様々な比べる長さがあるだろう。その中で私が計れる物差しで一番身近なものは自分の生きた来た道のりだと思う。47年の長さ振り返ると様々な出来事があった。
瞬く一瞬でもあるようで、子供の頃を思い出せば遠き過去に思える。また、今という時点から1年先、10年先を思えば何がどうなるのか予想すら難しいが夢や希望は果てしない。
そうした様々な思いすら見上げれば一枝の長さにさえ飲み込まれるような、とてつもない大きな時をこの千年杉は抱いているように思う。
このとてつもない大きな幹をから緑の葉へ流れ放出される水の量は一体どれくらいであろう。幹の耳を当てると川のように水が流れる音が聞こえる。
千年も間にどれだけの水がこの道を辿って天に放出されたのだろう。私の見る事の出来る大きな幹と枝に対して、見えざる根は見える姿と同じように大地に深く広く足を伸ばし、
脈々と流れる地下水を吸い上げ続けてきたのだろう。その地下水もまた千年枯れることなく地下を流れている。その枝にどれだけ多くの鳥が羽を休めただろう。
その幹にどれだけ多く動物が身を寄せて雨風をしのいだのだろう。
多くの命と共に生きてきたであろう千年杉に手を当て、その微動に自分の呼吸を合わせてみると生命の記憶と言えるだろうか様々な響きが私の身体を通じて感情を揺さぶる。
この千年の時を顕す木を感じれば、一喜一憂する日常の一切があまりに儚い。人の観る善悪とは何とちっぽけであろうか。
生命は万物と常に一体になって時を紡ぎ、さらに今を未来へ絶え間なく息吹いている。
その姿は美しい。
美しさは強さなのだ。
強いから美しいのではない。美しいものが強いのだ。
美とは命の営みであり、命の営みを美と観るところに人の心が目指す先がある。
すなわち、美は神へ至る道である。

佐世保 温故知新の合気道 合気新道