佐世保 合気道 合気新道


指と意識


人間が意志で動かせる筋肉を随意筋という。呼吸は寝ているときも繰り返し、誕生から死に至るまで意志を持って動かさずとも動いている。しかし、横隔膜にしろ呼吸筋と呼ばれているものは心臓や内臓の筋肉組織と同じではなく、骨格を動かす随意筋の組織に属するという事だ。

心臓も生命の発生から死に至るまでオートコントロールで機能し続けるために耐久性に富んだ筋組織となっており、胃や腸なども耐久力に過ぐれた組織だ。

しかし、同じように生涯休み無く活動し続ける呼吸に関わる筋肉は手足と同じように、動かしつづければ疲労を伴う筋肉組織である。


呼吸は無意識にオートコントロールされると共に意識的にも変化させる事が可能でもある。それゆえに半随意とも呼ばれている。

呼吸を早くしたり遅くしたり、深くしたり浅くしたりする事がある程度可能だ。


無意識と意識の境にあるものが呼吸とも言える。

ゆえに、この呼吸をコントロールすることで、無意識下にあるトラウマ等の改善にも応用できるものとして禅であったり、瞑想であったり、ヨガや武道など様々な修行はもとよりスポーツでも呼吸法は重要なトレーニングでもある。


その呼吸をどの様に意識的にコントロールするか、様々な方法があるが私が注目するものは、指と声である。

密教でも指の形を変えて呪文を唱える方法があるようだが、これも一種の呼吸法であると私は考える。


指や言葉は人間が他の動物にない、最も進化した身体機能でもあると言える。脳が発達すると同時に手と言葉が発達して来た。つまり、人間の意志が最も表層に現れたものが、指と言葉という道具とも言える。

この道具は脳のアウトプットでもあるが、逆にこの指と言葉(発声)をもって、身体、生命の根源である呼吸活動に対して、意志的にデーターをインプットして、コントロールする。あるいは、忘れている動きや筋肉を呼び起こすツールになると考える。

次回から具体的な方法を書いてゆきたいと思います。



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呼吸と姿勢


生命の源は呼吸である。食べる事は数日でも耐える事が出来る。水さえも1日2日位なら我慢することも出来よう。しかし、呼吸を止めることは数分が限度である。

生まれた瞬間から死に至るまで休み無く人は肺を動かしている。

この肺は心臓や胃腸と違って自ら動くものではなく、肋骨や横隔膜を動かして膨張と収縮を繰り返す。

その運動は身体の全ての骨格筋が連動して活動を繰り返しているのだ。寝ているときも活動は休むことなく全身に及んでいる。
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この呼吸をするために全身が連携して活動するライン。これが身体の最も合理的な活動ラインであり、身体の統一された姿でもあると言えよう。

逆に言えば、身体の全ての骨格やそれを動かす筋肉、神経活動は呼吸をするために組み立てられ仕組みとも言えるのではないだろうか。


この呼吸と呼吸を安定的に動かすラインを姿勢として表現すると、身体運用の効率的な姿が表現される。それが姿勢の美しさであり強さである。

よく正しい姿勢にしなさいとか、美しい姿勢にしなさいと様々な芸事でも、健康運動でも言われているが、では正しい姿勢とは何か、美しい姿勢とは何かと言えば、そのような形があるのではなく、呼吸が効率的に安定的に行える身体各所の位置関係と運動の方向性であると私は定義する。

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生命の根源に結ぶとは、呼吸を主体者として身体を運用することである。この時に身体は最も強い力を発する。その姿を美しさと観る事で心が生命の根源と直結するのである。

心は意図ではなく、命の活動そのものになる。

これを空という。



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佐世保 合気道 合気新道 草稿4

この原稿より先に別な原稿が出版社のテーブルに乗った、現在はテーブルに乗っての検討段階なので、それが採用されるかどうかは分からない。採用されない場合もある。

ただ、ここに書く原稿の草稿はその先を観ている。従って、ここでの草稿作業は継続して進行してゆこう。

生命は呼吸によって成り立っている。

この呼吸活動は単に空気を吸って吐くという事だけではなく、食物を吸収して分解し、運動エネルギーに変化したり、細胞の代謝までを含めてた活動と考える。

この呼吸活動は自己と他者との交流でもあり、個と全体の交流でもある。

個とは何か、全体とは何かという事を細分化して観るか、つながりとして観るかで視点が大きく変る。

美という観点はつながりとして、個と全体を観る視点であると私は考える。

美しいと感じる心、美しさを発見する喜びはそのまま、個を通じて全体を観る眼そのものであると思う。

また全体を背景に個性を観るところに美の発見がある。

ゆえに生命を美と観る事とは生命活動を通じて、個性と全体の関係を認識する営みでもある。

我々は物事を分けて価値基準を分別している。

しかし、実態としての存在は分別できないものであり、関係性として捉える中に本当の価値基準を定めないと事実と判断の間に矛盾が生じる。

これが迷いである。

例えば、あの人は良い人だ、悪い人だと判断するのは、その人とそれを評価する人の利害にあって、その人の存在そのものが良し悪しを決定しているものではない。

例えば、自分を殺しに来た相手を敵にしない。という事が合気道の理念にある。

これは汝の敵を愛せよというイエスキリストの言葉にも見られる。

親鸞の言葉にも似たようなものがある。善人が救われるのに悪人が救われないはずがない。という言葉だ。

これは武道では活人剣である。

つまり利害関係を変化させることに主眼があり、そこが変化すると憎しみが愛に変る。

逆もまたあり、愛が憎しみに変ることもある。

憎しみの中で生きたいか?

愛に包まれて生きたいか?

選択は各々にある。

愛に包まれて生きたいのであれば、あらゆる関係を愛に変化させることだ。

殺しに来た相手を如何に愛の関係に変えることが出来るのか。

それはけして難しい事ではない。

相手は殺すことが目的ではなく、手段として選択しているからだ。

相手の目的は自分が生きる事

喜ぶこと

幸せになる事

それを実現する手段を別に見せればよいのだ。



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斬りかかって来る剣に対して、応戦して相手を殺そうとすれば、相手は更に生きるために殺すことを選択する。

また、相手に殺されては自分が無駄死だ。

相手の剣を奪ってしまう。

奪う方法は相手に投げ出させればよいのだ。

相手を殺さずとも自分が生きる道があることを示せばよい。

そんなことが出来るのか?

日本の武道はそれを追求して来ている。

打ち下ろす剣に踏み込んで、相手と一体になって、和合する事の喜びを瞬時に悟らせる。

喜びでない部分が抜け落ちる。

結果として剣が投げ捨てられる。

身が投げられる。

その技術が武道の中にあるのだ。

その具体的な方法が技を解読してゆけば観えてくるだろう。

そこを今後は具体的に描いてみたいと思う。


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例えば戦争。

相手に対する抑止力は武力の大きさではない。

相手がまず戦争よりも幸せを感じる道を示せばよいのだ。

貧しいから相手から奪おうとする。

ならば相手が豊かになる事を支援すればよい。

相手が豊かになる事を支援する時に支援する人を殺そうとするだろうか。

最初は利用してやろうという気持ちから始まってもよいのだ。

そうして行くうちに相手は協力したいという気持ちになるものだ。



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