佐世保 合気道 合気新道 草稿4

この原稿より先に別な原稿が出版社のテーブルに乗った、現在はテーブルに乗っての検討段階なので、それが採用されるかどうかは分からない。採用されない場合もある。

ただ、ここに書く原稿の草稿はその先を観ている。従って、ここでの草稿作業は継続して進行してゆこう。

生命は呼吸によって成り立っている。

この呼吸活動は単に空気を吸って吐くという事だけではなく、食物を吸収して分解し、運動エネルギーに変化したり、細胞の代謝までを含めてた活動と考える。

この呼吸活動は自己と他者との交流でもあり、個と全体の交流でもある。

個とは何か、全体とは何かという事を細分化して観るか、つながりとして観るかで視点が大きく変る。

美という観点はつながりとして、個と全体を観る視点であると私は考える。

美しいと感じる心、美しさを発見する喜びはそのまま、個を通じて全体を観る眼そのものであると思う。

また全体を背景に個性を観るところに美の発見がある。

ゆえに生命を美と観る事とは生命活動を通じて、個性と全体の関係を認識する営みでもある。

我々は物事を分けて価値基準を分別している。

しかし、実態としての存在は分別できないものであり、関係性として捉える中に本当の価値基準を定めないと事実と判断の間に矛盾が生じる。

これが迷いである。

例えば、あの人は良い人だ、悪い人だと判断するのは、その人とそれを評価する人の利害にあって、その人の存在そのものが良し悪しを決定しているものではない。

例えば、自分を殺しに来た相手を敵にしない。という事が合気道の理念にある。

これは汝の敵を愛せよというイエスキリストの言葉にも見られる。

親鸞の言葉にも似たようなものがある。善人が救われるのに悪人が救われないはずがない。という言葉だ。

これは武道では活人剣である。

つまり利害関係を変化させることに主眼があり、そこが変化すると憎しみが愛に変る。

逆もまたあり、愛が憎しみに変ることもある。

憎しみの中で生きたいか?

愛に包まれて生きたいか?

選択は各々にある。

愛に包まれて生きたいのであれば、あらゆる関係を愛に変化させることだ。

殺しに来た相手を如何に愛の関係に変えることが出来るのか。

それはけして難しい事ではない。

相手は殺すことが目的ではなく、手段として選択しているからだ。

相手の目的は自分が生きる事

喜ぶこと

幸せになる事

それを実現する手段を別に見せればよいのだ。



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斬りかかって来る剣に対して、応戦して相手を殺そうとすれば、相手は更に生きるために殺すことを選択する。

また、相手に殺されては自分が無駄死だ。

相手の剣を奪ってしまう。

奪う方法は相手に投げ出させればよいのだ。

相手を殺さずとも自分が生きる道があることを示せばよい。

そんなことが出来るのか?

日本の武道はそれを追求して来ている。

打ち下ろす剣に踏み込んで、相手と一体になって、和合する事の喜びを瞬時に悟らせる。

喜びでない部分が抜け落ちる。

結果として剣が投げ捨てられる。

身が投げられる。

その技術が武道の中にあるのだ。

その具体的な方法が技を解読してゆけば観えてくるだろう。

そこを今後は具体的に描いてみたいと思う。


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例えば戦争。

相手に対する抑止力は武力の大きさではない。

相手がまず戦争よりも幸せを感じる道を示せばよいのだ。

貧しいから相手から奪おうとする。

ならば相手が豊かになる事を支援すればよい。

相手が豊かになる事を支援する時に支援する人を殺そうとするだろうか。

最初は利用してやろうという気持ちから始まってもよいのだ。

そうして行くうちに相手は協力したいという気持ちになるものだ。



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