受身を取る時に大事な事は前と後に隙間無くという事です。


合気道の稽古では受けと技を掛けるの役割分担による型稽古です。


ですから、よくあるのが、自分は受ける方だからと

ボーっと手を取りに行く

がら空きで打ち込み行く

そういう人もあります。


型稽古の主役は受けと技を掛ける取りの両方が主役なのです。

受けを稽古しているのですから、守りががら空きで手を取ったり

突いたり、打ったりという事自体が稽古を放棄している事のなります。


投げられた後も同じです。

投げられて、ボーっと立っていたりしては受けの稽古の意味がないのです。


また、稽古の時に技に掛かるまいと頑張り合いをする人もおります。

しかし、自分と同じ位の力の人同士なら頑張りあいも出来るでしょうが、

はるかに力の強い人に対して頑張り合いをする事は出来ません。

押し合い、へし合いしている事で鍛錬だいう人は

プロレスラーや力士と稽古をするとよいでしょう。


しかし、合気道の何を学んでいるかというと技なんです。

技術を工夫し探求しているのですから、

力の方向、拍子、ライン、姿勢、呼吸、間合いを大切に稽古すべきなのです。

当然、受けは力の方向、拍子、ライン、姿勢、呼吸、間合いの稽古として受身をするのです。


自分より技術が下の人には自分が受ける事で下の人に正しい技術を伝え

自分より技術が上の人には自分が受ける事で技術の正しさを学ぶのです。


正しい技術とは受けと取りの間に心も身体も呼吸も隙間を作らずという事なのです。


佐世保 温故知新の合気道 合気新道

人間は生きているのではなく、生かされている存在です。

全ての命は、他の生命を食することなく生きる事はできません。

その事を考えると

一方では弱肉強食という考え方があり

一方では感謝という考え方があります。


どちらが正しいという事ではなく

どちらもあるという事であると思います。


ただ、およそ生きし生けるもの天地の恵み受けざるものは無し

なのであります。


根本を辿れば

この地球という大きな命が無ければ

生命は存在しないものです。

つまり、天地の恵み受けざるは無し

こそが、合気新道の本当の受身と言えます。


私は子供の頃に食べ物の好き嫌いが激しく母親を大変困らせたものです。

なぜ、あれだけ食べ物に好き嫌いがあったのか、その理由は本当のところ分かりません。

ただ、玉葱などは見るだけで、嘔吐する程に嫌いでした。


しかし、次第に成長するに従い、ある程度コントロールする事が出来るようになりました。

玉葱ごときに負けてたまるか!と無理やり飲み込むことから始まり、

これは玉葱ではなく、ラッキョであると想像力を働かせて飲み込んだり、

考えない、思わない、ただ黙々と食べるという事に徹したり

いたしました。


大人になってからは、そうした事で嫌いな食べ物も食べなくてならない場面では全て食べられる様になっておりまいた。


しかし、正直に言えば、苦手なものは、やはり苦手なのです。

今でも苦手なものがあります。


けれど、そうした中で私はある事に気がつきました。

好き嫌いはあってもよい。

そのこと自体が悪いのではなく

食べる事を大切にすればよいのだという事です。


目の前にある命を頂くのですから、これを無駄にしない事、

どの様にしたら無駄にしなくて良いのかを考え

それを行うという事です。


たとえば、苦手なものであっても、自分で料理して美味しく食べる工夫も出来ます。

また、その食材が自分の身体にどの様に働くのかを知る事も食べ物を愛する事につながります。

そして、その食べ物がどの様に出来、どの様に運ばれて来たのかを知ることも大切です。

また、食べ物と社会の状況、世界の状況、その事を学ぶ事で食べ物を見る眼が変わります。


今、私の食事は玄米と野菜が中心です。

それは玄米と野菜、味噌、塩があれば健康で稽古も出来る身体でいられるに充分だからです。

自分の足るを学ぶ事が毎日の食事で得られるのです。


何よりも、この天地の恵みを受けざるは無し

の意味は、自己の足るを知ることであります。


武道の受身でも

自己の足るを知るは大切な事でこれが出来ないと本当の受身も技も出来ません。

自己の足るを知れば、力の差も身体の大小も、速さも全て、自己との関わりの中で消化して一体になるものであると思います。

武道ではこれを見切りと言います。


見切りとは間を空けることではなく

間を埋めることなのです。


食べ物の好き嫌いは自分と食べ物の間が空いていることなのです。

食べ物がない世界では好き嫌いなど言う暇がないから間が無いのです。

ものの溢れる世界では選べるから間が空くのです。


本当に腹をすかせれば、好き嫌いは無くなります。

単純なことです。


それを一歩進んで、足るを知り、天地の恵み受けざるは無しと踏込むと

一切が恵みとして自他共存共栄の門が開かれます。

その門を押し開けて、この生命の根本である地球を皆共に大切にしようという道が

合気道開祖の心意気でもあると思います。



稽古の時に自分と同じくらいの力量の人か少し上の人と稽古をしたがる人が多いでしょう。


私も稽古をし始めた頃はそうでした。


かなり力量の高い人とは稽古しても緊張し

また、子供や入門したての人とは物足りなく


自分と気の合う人や自分より少し先輩と稽古をする傾向にありました。


こうして、現在稽古を指導するようになって、門人の稽古を観ているとやはり、そういう傾向があります。

これは悪いことではなく、誰でもそういう様に思うものです。


けれど、それでは自分の力は中々つかず、上達する事は難しいのです。

自分と気が合うという事、また自分と同じくらいという事を基準にすれば自分の基準を超える事を目標とした稽古が出来ない事は当然なのです。


そこで、積極的に誰に対しても受けを取るのだと稽古の意識を変えると稽古の内容がガラリと変わってきます。

自分が技を上達させるのだという意識があると自分の技を掛けやすい人といういう事になります。


当然、自分よりはるかに力量の高い人は避けますし、

初心者や子供相手では物足りないと思うものです。

しかし、受けをとるのだと思うと

師範や実力の高い人の受けから学ぶ事も観え

初心者や子供の受けを取る事で技の正しさを見極める心が生まれます。


さて、私達は神社や寺などで祈る事もあるでしょう。

その時に受験合格や商売繁盛、家内安全と祈ります。

しかし、果たしてはるか彼方の神様や仏様に心が通じるでしょうか。


小銭を放り込んで手をパンパンと打てば心が通じるでしょうか。

沢山のお金をお包みして神主様にお祓いをしてもらえば心が通じるでしょうか。

私はありあえないと思います。


では、神仏に向かい合って耳を澄ませば、眼を凝らせば、神様の声が聞こえて来るでしょうか。

祝詞やお経を読んでいれば神仏が悩みに答えてくれるでしょうか。

私は全くないと思います。


神仏の受けを取る。

そういう気持ちで祈るという事が神仏に心を通じるという事であると思います。

神仏の受けを取るとは、

今自分が抱えている課題や問題に対して、解決する方法を探すのではなく

ひたすら受けを取るなかで、自ずと上達するものであると思うのです。


上達とは逃げ方が上手くなるとか、

課題や問題に対する対処の方法を見つけたり、解決するテクニックが上手くなるという事ではありません。

受け止める力や幅が広がるという事です。

受け止める力や幅はどれだけ真ん中に自分を置けるかということです。


対処的に目の前の問題を解決するのではなく

体質そのものを鍛え上げる事にあります。


病気になると薬や注射に頼ります。

それで治ることもあります。

しかし治っても、その人の身体は強くなっていないのです。

病気になったならば、それを克服する身体を創りだして行く事で体質が変わって行くのです。


祈るとは魂を鍛え上げることであり、鍛え上げるとは叩き上げて行く事でもあります。

叩き上げて、磨き上げられた日本刀のように

魂を創り上げてゆくことです。


心とは喜怒哀楽の様に表に顕れる働きですが

魂は心を支える土台でもあり

心を満たした器でもあります。


喜怒哀楽をあるがままに満たす器であり、

心の働きを安定あせる土台です。


神仏の手を合わせて祈るとは、

神仏の受けを取る事

神仏の受けを取るとは

自分を取り巻く一切に対して受けを取る事です。


その事を私達は稽古の中で

積極的に他人の受けを取ることで学んでいるのです。


どんなに沢山の技を学んでも

どんなに相手を斬る、投げる、抑える、叩く、蹴る技を学んでも、

受けを取れない人間は

それを使う事が出来ないでしょう。


子供から、

初心者から、

自分よりはるかに力量の高い人にも

等しく受け積極的にとる人は

たった一つしか技を覚えてなくても、素晴らしい働き、活用をする事が出来る

生きた技を産み出すものです。