稽古の時に自分と同じくらいの力量の人か少し上の人と稽古をしたがる人が多いでしょう。
私も稽古をし始めた頃はそうでした。
かなり力量の高い人とは稽古しても緊張し
また、子供や入門したての人とは物足りなく
自分と気の合う人や自分より少し先輩と稽古をする傾向にありました。
こうして、現在稽古を指導するようになって、門人の稽古を観ているとやはり、そういう傾向があります。
これは悪いことではなく、誰でもそういう様に思うものです。
けれど、それでは自分の力は中々つかず、上達する事は難しいのです。
自分と気が合うという事、また自分と同じくらいという事を基準にすれば自分の基準を超える事を目標とした稽古が出来ない事は当然なのです。
そこで、積極的に誰に対しても受けを取るのだと稽古の意識を変えると稽古の内容がガラリと変わってきます。
自分が技を上達させるのだという意識があると自分の技を掛けやすい人といういう事になります。
当然、自分よりはるかに力量の高い人は避けますし、
初心者や子供相手では物足りないと思うものです。
しかし、受けをとるのだと思うと
師範や実力の高い人の受けから学ぶ事も観え
初心者や子供の受けを取る事で技の正しさを見極める心が生まれます。
さて、私達は神社や寺などで祈る事もあるでしょう。
その時に受験合格や商売繁盛、家内安全と祈ります。
しかし、果たしてはるか彼方の神様や仏様に心が通じるでしょうか。
小銭を放り込んで手をパンパンと打てば心が通じるでしょうか。
沢山のお金をお包みして神主様にお祓いをしてもらえば心が通じるでしょうか。
私はありあえないと思います。
では、神仏に向かい合って耳を澄ませば、眼を凝らせば、神様の声が聞こえて来るでしょうか。
祝詞やお経を読んでいれば神仏が悩みに答えてくれるでしょうか。
私は全くないと思います。
神仏の受けを取る。
そういう気持ちで祈るという事が神仏に心を通じるという事であると思います。
神仏の受けを取るとは、
今自分が抱えている課題や問題に対して、解決する方法を探すのではなく
ひたすら受けを取るなかで、自ずと上達するものであると思うのです。
上達とは逃げ方が上手くなるとか、
課題や問題に対する対処の方法を見つけたり、解決するテクニックが上手くなるという事ではありません。
受け止める力や幅が広がるという事です。
受け止める力や幅はどれだけ真ん中に自分を置けるかということです。
対処的に目の前の問題を解決するのではなく
体質そのものを鍛え上げる事にあります。
病気になると薬や注射に頼ります。
それで治ることもあります。
しかし治っても、その人の身体は強くなっていないのです。
病気になったならば、それを克服する身体を創りだして行く事で体質が変わって行くのです。
祈るとは魂を鍛え上げることであり、鍛え上げるとは叩き上げて行く事でもあります。
叩き上げて、磨き上げられた日本刀のように
魂を創り上げてゆくことです。
心とは喜怒哀楽の様に表に顕れる働きですが
魂は心を支える土台でもあり
心を満たした器でもあります。
喜怒哀楽をあるがままに満たす器であり、
心の働きを安定あせる土台です。
神仏の手を合わせて祈るとは、
神仏の受けを取る事
神仏の受けを取るとは
自分を取り巻く一切に対して受けを取る事です。
その事を私達は稽古の中で
積極的に他人の受けを取ることで学んでいるのです。
どんなに沢山の技を学んでも
どんなに相手を斬る、投げる、抑える、叩く、蹴る技を学んでも、
受けを取れない人間は
それを使う事が出来ないでしょう。
子供から、
初心者から、
自分よりはるかに力量の高い人にも
等しく受け積極的にとる人は
たった一つしか技を覚えてなくても、素晴らしい働き、活用をする事が出来る
生きた技を産み出すものです。