そもそも演劇の始まりは、神との交流にあったという説がある。
そのころの記録が残っているはずもないので、もちろん仮設だろうが説得力はある。
大自然と共に生きていたころ、自然は人間よりも偉大であったし、その偉大なものの象徴として、神が生まれた。
様々な願いを込めて神に踊りや歌を捧げたり、語り掛けたり、それが芸能の始まりなのかもしれない。
こんな学術的?なことを書くつもりはなかったのだが、「ゴドーを待ちながら」の記事を書いたときに、上演した時のことを思い出したのだ。
何のための演劇なのかを考えさせられたのだ。
一般的には、演劇は人々に夢や希望を与えるものだと考えられているだろう。
しかし「ゴドーを待ちながら」は夢も希望もない芝居だ。
ただひたすら待っているだけの芝居。
退屈した観客は、芝居が終わるのをひたすら待っている、ということになりかねない。
「演劇の歴史を変えた」などというのは、評論家の屁理屈だ。
私が出演した時も評価は二分した。
私の知り合いは、まあ私が出ているからというので観に来てくれた人も多い。
しかしその知り合いが連れてきてくれた人は、私に義理も何もない。
後で聞いた話だが、知り合いの演劇好きの女性が彼氏を連れて観に来てくれたのだが、その彼氏が「なんでこんなしょうもないもん連れてきたんや!」と言って、しばらく気まずくなったとのこと。
また、別の人からもこう言われた。
「あんな、一日働いて疲れ切って芝居を観に来たんや。なんでこんなしんどい芝居観なアカンねん。」
・・・・確かにしんどい芝居です。
しかし、「いい芝居を見せてくれて有難う。余韻を噛みしめながら、バスに乗らずに歩いて帰りました。」
と言ってくれた人もいた。
万人に楽しんでもらえるようにと思って芝居を作れば、本質を見失いくだらないものになるだろう。
だが小難しいことを並べ立てても、退屈なだけの芝居になってしまう。
「ゴドー」という芝居は、現代社会に(書かれたのはずっと以前だが、今でも通用すると思う)突きつけてくるメッセージは持っている。
これは観客に突きつけるメッセージであるとともに、演劇人に対しては「お前ら、この芝居をちゃんと退屈させずに観せて、しかもちゃんとメッセージが伝えられるか?」ということを突きつけている作品だ。
チョット理屈っぽいブログになってしまいました。
何かのために芝居をするというのも、少し違う気もするんですけどね。
とにかく、芝居は観て面白いか面白くないか、それに尽きます。
だから厄介なんですけどね。