何のための演劇なのか | 平岡秀幸 ・ ブログで読む演技論

平岡秀幸 ・ ブログで読む演技論

京都を中心に演劇活動をしています。
演劇、特に演技について、
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 そもそも演劇の始まりは、神との交流にあったという説がある。

 そのころの記録が残っているはずもないので、もちろん仮設だろうが説得力はある。


 大自然と共に生きていたころ、自然は人間よりも偉大であったし、その偉大なものの象徴として、神が生まれた。

 様々な願いを込めて神に踊りや歌を捧げたり、語り掛けたり、それが芸能の始まりなのかもしれない。


 こんな学術的?なことを書くつもりはなかったのだが、「ゴドーを待ちながら」の記事を書いたときに、上演した時のことを思い出したのだ。

 何のための演劇なのかを考えさせられたのだ。


 一般的には、演劇は人々に夢や希望を与えるものだと考えられているだろう。

 しかし「ゴドーを待ちながら」は夢も希望もない芝居だ。


 ただひたすら待っているだけの芝居。

 退屈した観客は、芝居が終わるのをひたすら待っている、ということになりかねない。

 「演劇の歴史を変えた」などというのは、評論家の屁理屈だ。


 私が出演した時も評価は二分した。


 私の知り合いは、まあ私が出ているからというので観に来てくれた人も多い。

 しかしその知り合いが連れてきてくれた人は、私に義理も何もない。

 後で聞いた話だが、知り合いの演劇好きの女性が彼氏を連れて観に来てくれたのだが、その彼氏が「なんでこんなしょうもないもん連れてきたんや!」と言って、しばらく気まずくなったとのこと。

 また、別の人からもこう言われた。

 「あんな、一日働いて疲れ切って芝居を観に来たんや。なんでこんなしんどい芝居観なアカンねん。」

 ・・・・確かにしんどい芝居です。


 しかし、「いい芝居を見せてくれて有難う。余韻を噛みしめながら、バスに乗らずに歩いて帰りました。」

 と言ってくれた人もいた。


 万人に楽しんでもらえるようにと思って芝居を作れば、本質を見失いくだらないものになるだろう。

 だが小難しいことを並べ立てても、退屈なだけの芝居になってしまう。


 「ゴドー」という芝居は、現代社会に(書かれたのはずっと以前だが、今でも通用すると思う)突きつけてくるメッセージは持っている。

 これは観客に突きつけるメッセージであるとともに、演劇人に対しては「お前ら、この芝居をちゃんと退屈させずに観せて、しかもちゃんとメッセージが伝えられるか?」ということを突きつけている作品だ。


 チョット理屈っぽいブログになってしまいました。

 何かのために芝居をするというのも、少し違う気もするんですけどね。


 とにかく、芝居は観て面白いか面白くないか、それに尽きます。

 だから厄介なんですけどね。