近頃ベケットの「ゴドーを待ちながら」が気になって、「何のための演劇なのか」と書き始めたが、この夢も希望もない芝居を、喜んで観る人が居るのだろうか?
名作であるという人にとっても、後味の苦い重苦しい芝居だと思うが、この芝居を拍手喝采、大喜びで観た人達が居たそうだ。
刑務所の受刑者である。
経緯は忘れたが、初演の時にほとんどの観客のブーイングで幕を閉じたそうだが、その後刑務所で公演したら、大喝采を浴びたという。
娯楽に飢えた人達だから、もちろん真剣に観るだろう。
しかし、内容は娯楽的ではない。
娯楽的ではないが、真剣に観ることによって、内容が彼らの境遇にリンクしたのだろう。
何も起こらない日常の繰り返し。
ただ淡々と日を送り、出所の日を待ち続ける・・・。
これが「ゴドーを待ちながら」の世界と一致したのだ。
彼らがこの作品を理解したということではない。
彼らは、この作品が自分たちのことを描いていると受け止めたのだ。
つまり、世間から隔離されている自分たちを理解する人が居るということが、大喝采につながったのだろう。
しかし一般の人がこの芝居見ても、刑務所を描いた作品だとは思わないだろう。
逆に、刑務所を描いた作品を一般の人が観れば、一目瞭然それは刑務所を描いた作品だと思うだろうが、実際の受刑者が同じ作品を見ても、これは嘘っぱちだ刑務所の話ではないと思うかもしれない。
同じ芝居でも、受け止め方によってこんなにも違う。
(もっとも、ゴドーという作品はその後も刑務所以外でも評価され、上演され続けているし、名作には違いない。)
このように様々な面を持つ演劇をひとくくりにして、何のための・・・、言えるものではないだろう。
大きく言えば「人間が人間を理解するため」に演劇をするのだと思う。
ともあれ、もう演劇を始めてしまったのだ。
35年も演劇をやっているのだ。
今さら「何のために・・」ということもないだろう。
いかに良い作品を作るのか?
じゃあ良い作品とはなんだ?
良い演技とはなんだ・・・・?
こちらを考え実践していくことが大切だと思う。
結局、「何のための演劇なのか」なんて考えても意味がないというのが、このブログの結論になるようです。
ただし、「何かのため・・・」つまり特定の目的を持って、例えば特定の主義主張を広めるためであったり、何かの宣伝のためであったり、という意図を持って作られた作品は演劇とは言えない。
演劇のスタイルを借りてはいるが、演劇とは似て非なるものである。