韓国の憲法の問題点

 日本国憲法の問題点は、中国、北朝鮮という人権弾圧の収容所国家が目と鼻の先にあるにもかかわらず、「諸国民の公正と信義に信頼して」などという矛盾のある前文がることと、憲法9条似2項にあることは、有名だ。

 しかし、日本人は、当然ながら、韓国の憲法にも、かなりおかしな点があることに気づいていない。
 韓国の憲法は、「1918年の三一運動、すなわち「独立万歳運動」を、大韓民国建国の日としているのである。

 これがいかに、無理な解釈かは、「独立万歳」の「万歳」がどういう意味かを考えてみるとすぐわかる。

 日本でも韓国でも、「ばんざい」「マンセー」は、同じ意味であり、「喜ばしき事を達成してよかった」という意味である。

 実際には、もちろん、三一運動、「独立マンセー」運動当時、朝鮮は日本統治のままだった。

 では、なぜ、その当時、三一運動の運動参加者は、「万歳マンセー」と言ったのだろうか。

 なんのことはない。「独立できたらいいな。そしたら、万歳マンセーというのにな。」という意味で、言ったのである。

 あまりにも、当然のことながら、実際には、独立したいという運動が一部にあっただけで、独立したわけではない。

 現在の日本で、安部政権が倒れて、日本共産党が政権を握ればいいな。改憲勢力、集団安保肯定者がのきなみ落選すればいいな。共産党万歳、民主党万歳と言っただけで、民主共産連立政権が樹立されたことにはならない。

 ところが、韓国憲法は、この願望に基づいた「独立万歳運動」を捉えて、大真面目に「大韓民国建国の証拠」としているのだ。

 なんとも、かわいそうな、無理スジ解釈をしているのである。

 ちなみに、韓国の保守派は、この解釈をあまりに無理な解釈だととらえて、1948年を大韓民国樹立としたがっている。

 たしかに、このほうが、事実に即した態度ではある。大韓帝国は、いったん消滅して、1948年に大韓民国を樹立したというほうが、論理的に正しい。

 それでも、無理スジの憲法規定である「三一運動、独立万歳運動」が、「建国の日」だと固執するのが、韓国左派だ。

 興味深いことに親北左派がなぜ、「1948年建国説」を否定したがるかというと、保守派が「反共主義」を色濃く持つからだ。

 あほらしいのは、韓国の親北左派は、韓国の左翼と北朝鮮が協力すれば、「よい社会主義になる」とばかげた夢想をしているのである。

 そこで、韓国左派と保守派の対立とは、保守派が、「反共主義」を党是としているから来る不倶戴天の敵なのだ。

 まず、反共産主義と、親共産主義の対立がその根本にあるのであって、「独立万歳運動」の年が建国の年なのか、1948年が建国の年なのか、本質的な問題ではない。

 左派が1948年建国説をどうしても、許すわけにいかないのは、1948年建国説の意味するのが、北の共産主義国家と相反する「資本主義国家」を樹立したことを意味するからだ。

 建国したのが、「資本主義国家」だということになるのが、気に食わないというわけだ。

空想的平和主義からの決別を 

「自戒しつつ、憲法改正に着手させよ」

 

と言った猪木正道氏は、戦争中は、三菱信託銀行から三菱総合研究所に出向して、参謀本部から委託を受けて対ソ戦の分析に従事していた。開戦時、31歳だった。

 

戦後は、京都大学教授、防衛大学教授を歴任した。

政治的には、「社会民主主義」で、現民主党の一部である「旧民社党」の政治炉論ブレーンだった。

 

空想的平和主義からの決別を 

「自戒しつつ、憲法改正に着手させよ」という主張といい、防衛大学の校長であった事といい、いかにも、保守主義のようなイメージを抱かせる。さらに猪木正道氏は、産経新聞「正論」欄、雑誌「正論」の常連執筆者だった。

 

 しかし、猪木正道は、中公新書「軍国日本の興亡」でも、雑誌の論文でも、繰り返して言い続けたのは、「日露戦争後、日本国民はおごりたかぶり、国力をいちじるしく課題評価して、外国の国力を過少評価する悪癖をつのらせた。」「日露戦争勝ってから、日本人は発狂状態に近かった。」と言い募った。

 

 これはほぼ司馬遼太郎の史観と同じといえる。

 

 猪木正道の日本観がゆがんでいると断ぜざるを得ないのは、「バブル時代の日本」を指して、猪木正道が、「日本人の成金趣味」「日本人には、行き過ぎを抑制するブレーキが備わっていない」「成金趣味が欧米人、アジア人の神経を逆なでにした」と書いている点に現れている。

 成金趣味は、アラブの王族、富豪から、フィリピン、韓国の財閥、中国の「爆買い」ドイツ人の東南アジア買春など、世界中に起きる現象であり、なにも日本人に限ったことではない。だが、猪木正道には、日本人固有の劣性のように感じられていた。

 

 「軍国日本は、1943年から連戦連敗で、米空軍の都市爆撃により、国土は廃墟と化していたから、敗戦後の日本では、軍事的に負けていなかったという嘘を説くものはいまのところ、見当たらない。しかし、日本軍が犯した違法な略奪や殺戮を否認しようという試みは1970年代から勢いを得ている。」と書いた。

 

 つまり、猪木正道は、アメリカの「戦略爆撃や原爆投下の違法性には、まったくふれず、日本軍がおかした違法な略奪や殺戮を否認しようという試みを否定しようとする動きを批判する。

 

 このように、世界の中でも日本人がとくに狂気に陥りやすい、暴走しやすいと盛んに言い募ったそのあとで、猪木正道は、「憲法9条2項を改正して、自衛のために陸・海・空軍その他の防衛力を整備すると明記するべきだ、言い続けた。

 

 また、「集団的自衛権」については、集団的自衛権を持たないことは、責任の放棄であり、狂気の沙汰だと主張した。

 

 猪木正道には、戦後の集団的自衛権を行使しない日本も、「狂気の沙汰」。日露戦争以後の日本も、「発狂した日本」だった。

 

 

 

 暗殺者 吉田松陰 
昭和28年生まれの山口県史編纂室専門研究員を経て人間環境大學教授にした経歴を持つ、川口雅昭氏の研究によると、吉田松陰が黒船に乗り込んだときに、「アメリカに行かせてほしい」と頼んで断られたという史実は、実は、「アメリカに行かせてほしい」と言ったのは、吉田松陰の口実で、松陰は、そのとき、ペリーに会いたかった。なぜ、会いたかったかと言えば、暗殺するのが目的だった、という。

 つまり、暗殺するのが、本来の目的だが、「アメリカに行きたい」と言わないことには、ペリーに会うきっかけも得られない。そこで、松陰はうそを言ったのだ。

 その嘘が、現代でも、「松陰はアメリカに渡航して、アメリカの実態を見極めようとしたが、かなわなかった」という定説になったしまった、という。

 また、松陰の本心が、暗殺だったにもかかわらず、後世に「渡海が目的で、それがかなわなかった」と伝えられたのには、もうひとつ重要な理由がある。

 最初の黒船乗り込みの際に、「ペリーに会う事そのものに失敗して、戻された」松陰は、もう一度、暗殺をしようと考えたが、もちろん、その意図をおおっぴらにすれば、幕府も、アメリカも吉田松陰は、ペリー暗殺計画を立てて行動していると知って、松陰をけっして、ペリー周辺に近づけようとはしなくなる。

 これでは、目的を達することはできない。
 そこで、松陰は、表向きは、「暗殺を隠して、「私は金子とともに、海外に脱出しようとした」と嘘を言い続けた。

 この嘘が、その後も、後世の歴史家の定説になってしまった。

 ところが、川口雅昭氏によると、肥後勤皇党の中村敬太郎が、1862年に、藩政府に提出した建議に、「吉田松陰は、ペリーを暗殺しようと斬りこみました。」と書いている。(実際には、斬りこんだのではなく、ペリーに会うきっかけをさぐって、かなわなかった。)

 安政元年12月には、松陰の師だった森田ほあんが、弟に手紙を書いて、「吉田松陰の本当の目的は、ペリー刺殺だった」と書いているという。

 とくに、松陰の書いた幽囚録は、「わたしの航海はやむをえなかった」という文言が自序にあって、これが、松陰「海外渡航目的」説を決定的にしている。しかし、川口雅昭によると、これは吉田松陰の嘘なのだ。

 松陰の兄、杉梅太郎が、お前は「国家になんの貢献をしたのか」と手紙で聞いたところ、松陰はこの兄に「悪人切り殺す事に失敗した漢の朱雲や宋のこせんを引き合いに出して、策が失敗したと述べたという。

 そして、西郷隆盛とともに、入水自殺を図ったことで有名な僧、月性げっしょうは、かねてから、「ペリーを刺殺するべきだ」と言っており、この月性に、松陰は、「わたしを蔑視するなかれ」と手紙を送っている。

 月性の同士宇都宮黙連の場合は、松陰の真意を汲み取った上で、獄につながれた松陰に、手紙に「ペリーを切っても功績は少ないぞ。」と書いた。

 これが本当だとすると、韓国の安重根も他国の大使を暗殺したという意味では、同じことになる。
 しかし、おそらく、もし松陰の暗殺が成功していたとしても、その場合は、日本人は松陰を英雄、偉人とはみないのではなかろうか。

 現在、松陰が日本人にとって、偉人として受け取られているのは、「渡海しようとしたが、はばまれて」獄につながれたこと。「明治維新の中心人物の教育者」だった点で、偉人なのであり、日本に砲艦外交を仕掛けてきた当時のアメリカの外交使節のトップを暗殺した人、として歴史に記されていれば、いまほど、松陰は日本の偉人として記憶にのこらなかったにちがいない。