暗殺者 吉田松陰 
昭和28年生まれの山口県史編纂室専門研究員を経て人間環境大學教授にした経歴を持つ、川口雅昭氏の研究によると、吉田松陰が黒船に乗り込んだときに、「アメリカに行かせてほしい」と頼んで断られたという史実は、実は、「アメリカに行かせてほしい」と言ったのは、吉田松陰の口実で、松陰は、そのとき、ペリーに会いたかった。なぜ、会いたかったかと言えば、暗殺するのが目的だった、という。

 つまり、暗殺するのが、本来の目的だが、「アメリカに行きたい」と言わないことには、ペリーに会うきっかけも得られない。そこで、松陰はうそを言ったのだ。

 その嘘が、現代でも、「松陰はアメリカに渡航して、アメリカの実態を見極めようとしたが、かなわなかった」という定説になったしまった、という。

 また、松陰の本心が、暗殺だったにもかかわらず、後世に「渡海が目的で、それがかなわなかった」と伝えられたのには、もうひとつ重要な理由がある。

 最初の黒船乗り込みの際に、「ペリーに会う事そのものに失敗して、戻された」松陰は、もう一度、暗殺をしようと考えたが、もちろん、その意図をおおっぴらにすれば、幕府も、アメリカも吉田松陰は、ペリー暗殺計画を立てて行動していると知って、松陰をけっして、ペリー周辺に近づけようとはしなくなる。

 これでは、目的を達することはできない。
 そこで、松陰は、表向きは、「暗殺を隠して、「私は金子とともに、海外に脱出しようとした」と嘘を言い続けた。

 この嘘が、その後も、後世の歴史家の定説になってしまった。

 ところが、川口雅昭氏によると、肥後勤皇党の中村敬太郎が、1862年に、藩政府に提出した建議に、「吉田松陰は、ペリーを暗殺しようと斬りこみました。」と書いている。(実際には、斬りこんだのではなく、ペリーに会うきっかけをさぐって、かなわなかった。)

 安政元年12月には、松陰の師だった森田ほあんが、弟に手紙を書いて、「吉田松陰の本当の目的は、ペリー刺殺だった」と書いているという。

 とくに、松陰の書いた幽囚録は、「わたしの航海はやむをえなかった」という文言が自序にあって、これが、松陰「海外渡航目的」説を決定的にしている。しかし、川口雅昭によると、これは吉田松陰の嘘なのだ。

 松陰の兄、杉梅太郎が、お前は「国家になんの貢献をしたのか」と手紙で聞いたところ、松陰はこの兄に「悪人切り殺す事に失敗した漢の朱雲や宋のこせんを引き合いに出して、策が失敗したと述べたという。

 そして、西郷隆盛とともに、入水自殺を図ったことで有名な僧、月性げっしょうは、かねてから、「ペリーを刺殺するべきだ」と言っており、この月性に、松陰は、「わたしを蔑視するなかれ」と手紙を送っている。

 月性の同士宇都宮黙連の場合は、松陰の真意を汲み取った上で、獄につながれた松陰に、手紙に「ペリーを切っても功績は少ないぞ。」と書いた。

 これが本当だとすると、韓国の安重根も他国の大使を暗殺したという意味では、同じことになる。
 しかし、おそらく、もし松陰の暗殺が成功していたとしても、その場合は、日本人は松陰を英雄、偉人とはみないのではなかろうか。

 現在、松陰が日本人にとって、偉人として受け取られているのは、「渡海しようとしたが、はばまれて」獄につながれたこと。「明治維新の中心人物の教育者」だった点で、偉人なのであり、日本に砲艦外交を仕掛けてきた当時のアメリカの外交使節のトップを暗殺した人、として歴史に記されていれば、いまほど、松陰は日本の偉人として記憶にのこらなかったにちがいない。