私 が「同志的関係」という用語を使ったのは、「ほかは違っても日本は北朝鮮と韓国にはあげなきゃだめだ。台湾までも理解できる。 あそこも姓と名も日本式に 直したから。私たちが国のために出なければいけないと同じ日本人扱いしたんだ。そうやって連れていったんだから、必ず補償をしな きゃならない。でも中 国、フィリピンはみんな営業用で金を稼ぎにいったんだ。だからそれにはあげなくても大丈夫だよ」(『強制的に連れていかれた朝鮮人軍 慰安婦たち』5)と いう声に、早くから出会っていたからだ。「同志的関係」があったが要求される構造であったし、それに従う「同志構造内の差別」について 十分に説明した。 しかし私を非難する人々はそれを黙殺した。

  私は慰安婦を朝鮮人日本軍と同じ徴兵と同じ枠組みで考えねばならないと考える。だが「法」は「軍人」は保護したが「慰安婦」は保護しなかった。日本人 慰 安婦に対しても同様であった。慰安婦がしたことを近代国家システムが必要視しながらも軽蔑したからである。「法」に依存し、歴史を判断する法至上主義 では なくても、歴史に対する反省、謝罪と補償は可能である。韓日合意は日本が謝罪と補償的意味を公式的に表明したという点で意義がある。ただ政府間合意 のみで は十分ではない。加えて被害者の考えも一つではない。遅くともいまこそ国民間合意のための論議を始める必要がある。

朴裕河(韓国・世宗大学校日本文学科教授)

韓国語原文入力:2016-02-10 10:43


 朴裕河の間違いは、慰安婦の不幸の淵源を「帝国主義」に求めていることだ。

だが、それなら、現在の韓国の「多数の身を売らねば生きていけない気の毒な女性たち」の実在は、誰のせいなのか。「韓国帝国主義」なのか。

 フィリピン、タイ、インドなどの「多数の身を売らねば生きていけない気の毒な女性たち」の実在は、誰のせいなのか。フィリピン帝国主義、タイ帝国主義なのか。

私たちは、いまだ男性の責任はもちろん、貧困階層を搾取する者たちの責任を問うたことがない。」と朴ユハが左翼の本質に立って言う時、「日本の国家責任」を主張する論理が破綻する。

  なぜなら、旧ソ連であれ、現社会主義国家であれ、「貧困層から、喜び組がピックアップされ、極貧層はみずから、身を売らねばならぬ境遇に陥るのだから、そ れはまったく「日本国家の特性でも資本主義国家の特性」でもなく、あらゆる貧困社会と都市のハザマに起きることだから、「日本」を標的にすることはそのま ま、人類の負の現実に目を背けることになってしまうからだ。

「韓国人はいつも貧しかったから」というこの証言ほど「帝国の支配構造」を明確に語った証言はほかにないだろう。」と朴ユハが言うとき、それなら、現在の日本は帝国主義国なのか、韓国、フィリピン、タイ、インドは、それぞれ帝国主義なのか?という疑問に答えることができない。

 


以下は、朴ユハ教授が「ハンギョレ新聞」記者のキルユンヒョンに反論した文章である。朴ユハの見解は、従来の韓国人の慰安婦像よりもはるかにましであるものの、本質的に問題を解明したものとは、到底言えない。


去る123日、『ハンギョレ』に「慰安婦、日本陸軍が主体となった典型的な人身売買であった」((キル・ユンヒョン記者・日本語版URLは下の関連記 事を参照願います)というタイトルの記事が載った。 確かに朝鮮人慰安婦動員はいわゆる「軍人が連れていった物理的強制連行」ではなく「人身売買」の枠組みのなかでのことだった。実際、学界ではもはや「軍人 が強制的に連れていった」というような議論はしていない。日本の強制性とそれに伴う法的責任を立証したがる学者たちの論議は、せいぜい移送時に日本軍部の 船で移送したから日本国家の責任であるとか、騙されてつれて来たのを黙認したから犯罪である、という程度の議論である。

 そうした事実がこれまで韓国社会に広く知られてこなかったのは、関係者たちがその部分について社会に向けて明確に言ってこなかったからである。また一方 では強姦は存在したが、慰安所での性関係が基本的には対価が支払われた関係だったことも、学者ならば誰でも知っている事実だ。よって慰安婦問題をめぐる 「混乱と不信」は、キル・ユンヒョン記者が主張したような「簡単で中立的な言語の提示に失敗」したからではない。20148月に『朝日新聞』が過去の 「強制連行」記事の内容を公式的に取り消し、修正して以降、似たような発言をする韓国人学者や言論、あるいは支援団体関係者たちがいなかったからである。

混乱の原因


 にもかかわらずこの記事は、「慰安婦充員の主体は日本陸軍」であることを「揺るがない事実」であると強調する。だがそれは大げさ に強調しなくても、すでに日本が認めたことだ。もちろん私もまたその事実を否定したことはない。だが朝鮮人慰安婦は「日本軍の指揮下に詐欺やだましで強制 連行」したものではない。業者にさまざまな便宜を与えたが、日本の軍部は「詐欺とだまし」は公式的には禁止した。「婦女売買条約が朝鮮に適用除外」された ことは事実であるが、詐欺性の募集を禁止せよという「内務省警保局長の通牒」は朝鮮半島では発見されていない事実は、ただちにあらゆる詐欺を許容したとい う話にはならない。朝鮮でのみ犯罪が許容されたであろうとの想像を根拠に、私の本を「結局は虚妄」であるというこの記者の主張は、私の本を歪曲し全国民を 誤導する。

 長崎警察署文書には「前借金」を軍部が支給したという話はどこにも出てこない。文書には「紹介手数料を軍部が支給」(ママ)すると書いてあるが、この部 分を取り上げてキル記者は「日本軍部が主体となり前借金をえさに女性たちを二年間の性売買に従事させる典型的な『人身売買』を施行」したと書く。だが文書 にはどこまでもそうした「言葉」(ママ)を「売春業者がふれまわっている」(ママ)と書いてあるだけだ。売春業者が女性たちを募集した事実が「日本の警察 にも衝撃的に受け取られた」のは、軍が「人身売買を主導」したからではない。警察はただ軍が女性たちを業者を通じて募集した事実に驚いただけだ。

 内務省が「警察の反対意見が相次ぐと当惑」し、朝鮮で募集し始めたとの話を証明する文言もどこにもない。婦女売買条約に関する国際条約(ママ)が朝鮮や 台湾では「留保」されたという金富子教授の指摘は参考にしなければならないが、それがただちに「売春業に従事したことがない性病のない女性を植民地である 朝鮮や台湾から大量に募集して慰安婦とした」という話になるわけではない。中国渡航に関する「通牒」が他には存在しない理由も、朝鮮人の中国移動は船では なく汽車で移動できる場所であったためと見ねばならない。

 また、慰安婦を連れていった者が「剣を帯び、帽子をかぶった」「日本軍人」に見えたとしても、それが必ず日本の軍人であったわけではない。キル記者が引 用した安秉直教授もいうように、日本軍は業者を軍属待遇し彼らに軍服を支給した。よって「結局、朝鮮での慰安婦動員は日本とは異なり性売買の経験のない未 成年女性が多く、その手法も当時の日本の刑法の基準からみても犯罪といえる就業詐欺が大部分」だと断定できるわけではない。自ら行ったり、少女が属した共 同体が知っていながら送り出したケースもまた少なくないからだ。日本政府は業者の便宜をはかったが「管理」は管理監督の意味が強く、業者が慰安婦を搾取し ないようにした。

「法」の限界

 キル記者の記事が結論として引用した永井教授はこう書く。「軍から慰安所を委託された民間業者や依頼された募集業者が詐欺、誘拐によって女性を慰安所に 連れてきて働かせた。」(ママ)そして「慰安所の管理者である軍がそれを摘発せずに、事情を知ってもなおそのまま働かせたような場合には、日本軍が『強制 連行』を行なったと言われても、抗弁のしようがない。そのような犯罪の被害者である女性が、自分は日本軍によって『強制連行』されたと感じても不思議では ないからである。」(『世界』20159月号)

 この箇所は「強制連行」だと主張した文章ではない。むしろ詐欺・偽計の主体は「業者」であるといっている。ただ軍が知っていながら処罰しなければ、強制 連行と感じうると言っているにすぎない。日本の軍部は当時むしろ業者が詐欺で連れてこないよう契約書を書くように確認した(女性のためのアジア平和国民基 金編『「従軍慰安婦」関係資料集成』2)。もちろん契約書を書いたから問題がないという話ではない。「契約」という名の「法」の存在はむしろ人間を拘束す る。

 同様にただひたすら国家賠償を立証し法的責任を問うために強制性を主張しようという発想は、法の外で行われたことに対しては加害責任を問えないという自 家撞着に陥ることになる。「法」とは国家システムの中心にある者たちが作ったものであり、国家システムは近代以降いつでも男性中心主義的だった。重要なこ とは強制性の有無や国家賠償の有無ではなく、軍隊のために女性が必要であると考えた軍部の発想が、いかに女性たちを残酷な状況に追い込んだかである。強制 連行論はもちろん人身売買論も「法的」責任にのみこだわる限り、法を犯さない空間では無力になるほかない。

「性奴隷」の主人は誰か

 植民地警察は当時横行した詐欺や誘拐を基本的には取り締まった。日本本土でなされた国民への法的保護は全く同じではないとしても、植民地でもなされた。 植民地の女性たちだけが詐欺や拉致に露出するほど、「植民地警察」が不道徳であったというのは、90万近い「植民地日本人」の存在を認識できていない発言 だ。植民地警察は「抱主たちの涙も人情もない行為に対しては当時の警察も憤りを感じ、その署では再び転売したところに紹介して最後まで救う方針で努力」し た。また警察は「女性を凶悪な抱主の手から再び北支へ売り飛ばされる前にそれこそ危機一髪」(『毎日申報』、日帝強占下強制動員被害真相究明委員会、『戦 時体制期朝鮮の社会相と女性動員』から再引用)直前に救助しもした。

 もちろん朝鮮人を含む植民地警察が植民地人に過酷ではなかったという話ではない。だが彼らもまた「法」に反することを取り締まる程度の仕事はしたし、女 性たちの慰安所行きを防ごうと努力した痕跡も見える。帝国日本の軍部と業者はいつでも共犯だったわけではない。騙されて慰安所に来た場合、軍部が他の場所 に就職させたケースはそれを示している(長沢健一『漢口慰安所』)。あるいはあまりに幼ければ帰しもした(『帝国の慰安婦』)。この二つの事実は、軍部の 基本方針が詐欺や拉致性の人身売買を許容しなかったことを示している。植民地警察は契約書を書くよう業者に指針を下し、慰安婦となる当事者たちにも、渡航 許可願を提出するようにした。このような「契約」という罠にしばられた慰安婦が「廃業」をするのが難しかったのは、彼らが身代の所有者である「業者」の奴 隷だったからである。

 業者には日本人も多かった。特に規模が大きい遊郭などはむしろ日本人業者多かったようにみえる(西野瑠美子ほか『日本人「慰安婦」愛国心と人身売買 と』)。国家政策に協力し経済/利潤を追求した中間階級の問題をみなければ、慰安婦問題の全貌をみたとはいえない。そして私たちは、いまだ男性の責任はも ちろん、貧困階層を搾取する者たちの責任を問うたことがない。日本という民族主体と他の主体の責任を問うことを、ただ日本の責任を稀釈させるものとのみみ なす主張は、階級と男性の責任を隠蔽する。

同志的関係/帝国の責任

 「韓国人はいつも貧しかったから、花盛りの娘たちを承諾のもとに金を稼がせたんだ。その時の金で五十円や百円もらえれば、期限は五年期限だか三年期限だ かというように。戦争や日本人にやられた人たちが実際には多いよ。自分が金を稼ぐために行った人は多いって」(『強制的に連れていかれた朝鮮人軍慰安婦た ち』5)という証言は、長らく埋もれてきた。「自分が金を稼ぐため」に行ったことをみることは、「満州の話は私は誰にもいわない。恥ずかしくて家にきて 質問されれば、やられたことだけ話してあげるよ」(『強制的に連れていかれた朝鮮人慰安婦たち』4)というように、自己検閲した証言が稀釈されることだと 考えたためだ。

 しかし「韓国人はいつも貧しかったから」というこの証言ほど「帝国の支配構造」を明確に語った証言はほかにないだろう。ところが一つの声に一元化された 20年の歳月のなかで、「強制連行は無かったと思う」と語ったお婆さんは、ただの一度もその言葉を公衆の前でいうことができないままこの世を去った。そし てこのお婆さんが亡くなると、支援団体はすぐに「お婆さんは国家賠償を願っていた」とインタビューで語ったことがある(20146月、ナヌムの家所 長)。私はこうした人々の声を復元しようとしただけだ。強制であれ自発であれ、あるいは売春経験があろうがなかろうが、私は彼女たちを被害者であると考え た。

 『ハンギョレ』記事は朝鮮人慰安婦を「性売買経験がない」無垢な少女といいたがるが、こうした発想は少女ではない成年/売春女性たちを排除する。ところ がこの記事にも出てきたように、慰安婦募集は30歳まで許容されていた。30歳の売春婦は被害者ではないのだろうか。1970年の『ソウル新聞』には「花 柳界女性」もいたとはっきり書いてある。慰安婦を「少女」と考えたがることは、植民地を汚点のない「純潔な少女」と表象したい欲望が仕向けることだ。何よ り「未成年の少女」に対する執着は、むしろそれとは異なる慰安婦たちを抑圧する。


 続く

 日本人なら平将門や源義経、弁慶、坂本竜馬くらいなら、歴史にくわしくなくても、知っているにちがいない。
 そして、この4人は日本人のイメージでは、義人だから、この義人、英雄というイメージの強さは、この4人を悪人として描くことは、きわめてむずかしく、無理に悪人として描くと、ドラマや小説の受けての違和感がはなはだしくなる、ということからもわかる。

 これに比べて、韓国では、どうやら、文句なしの英雄、義人は、「世宗」、「イ・スンシン」くらいしかいないことがわかる。「イ・サン」という朝鮮王朝末期の王は、比較的善人として描かれるが、これも、基本的に「祖父が実父を殺して、自分は祖父の若い妻の一派に暗殺を仕掛けられていて、かわいそうだ」というのが、基本イメージで、内実は、英雄的要素はない。

 日本人の目から見た朝鮮史上の英雄は、「ホ・ギュン」ではないか。韓国の心ある人々もそう思っているのではないか、とそうわたしは思ってきたが、、日本のCS放送で放映している「華政」というドラマを見たら、「ホ・ギュン」が、なんとも姑息低劣な策謀家として描かれていたので、どうやら、「ホ・ギュン」は韓国人の英雄ではないらしい。

 韓国ドラマ「ホ・ギュン」では、ホ・ギュンという人物は、朝鮮王朝の科挙に首席で合格して、重要役職を歴任したエリート官僚だったが、朝鮮王朝の民衆を虐げる現実に憤って、反逆する、あるいは、反逆の嫌疑をかけられて、両手両足を切断される、そういう残酷な刑を受ける。
いわば、そこでは、ホ・ギュンは高貴な者の義務を自覚する者として、作者によって英雄的に描かれているのだ。
 日本でいえば、大塩平八郎や三島由紀夫に重なる人物像として描かれている。

 ところが、2014年の韓国ドラマ「華政」では、このホ・ギュンは「姑息・低劣」な人物として描かれている。

 だいいち、「ホ・ギュン」は、韓国人が誰でも知っている歴史人物とさえ、いえないにちがいない。
 というのは、というのは、庶民がだれでも知っている人物というのは、「悪人」は悪人であり、ヒーローはヒーローなのであり、そう簡単には、くつがえすことができない、強力なイメージを持っているからこそ、だれでも、知っているからだ。

 韓国って、悲劇の英雄を持たない国なんだなあ、と改めて思う。
 イ・スンシンでさえ、日本との戦いで戦死するよりも、なによりも、韓国国内でいじめられていることが有名なのだ。

 世宗にしても、世宗はいまのハングル文字の原型を研究したので有名だが、これは、西欧や日本が書き文字を長い時間をかけて独自に発達させて行ったのに対し、朝鮮では、朝鮮王自ら指揮しなければ、書き文字が発達しなかったという負の歴史を遅ればせながら、世宗がかぶった、というところにあるともいえる。

 普通は独特の書き文字を発達させていくのに、朝鮮は、世宗が号令をかけて学者に研究させるまでは、漢字以外の文字がなかった。