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『龍馬が残したモノ!』聴講報告

『ひこね市民大学講座2010 歴史手習塾』
セミナー3「NHK大河ドラマから見た歴史」
第1回目の講座として『龍馬が残したモノ! ぼくの龍馬・わたしの龍馬・「本物」の龍馬』と題された講義が開かれました。


講師は法政大学講師で『龍馬伝』時代考証補佐の佐藤宏之先生。


『龍馬伝』の映像を使いながら、龍馬という人物の実態や龍馬像が出来上がった経緯など、坂本龍馬について様々な考証をされました。

とくに龍馬の人生を紐解きながら、6つの龍馬伝説の出来上がった経緯も資料を使いながら説明されたした。
・龍馬の生誕時に背中に怪毛が生えていた事
・北辰一刀流免許皆伝
・勝海舟の弟子となった時期
・神戸海軍操練所の塾頭だったのか?
・薩長同盟での役割
・船中八策の謎

などです。
例えば北辰一刀流については、龍馬は『北辰一刀長刀兵法』の目録を受けていて、この中に「家流始之書」と書かれているので、これは免許皆伝とは違うとの話などもあり、興味深かったです。
また司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で描かれた龍馬像についてもお話されました。



講演後に、佐藤先生に質問をしましたので書きます。

(よし)
 大河ドラマなどの龍馬像はいろいろあると思うのですが、僕は坂本龍馬については赤松小三郎のイメージが凄く重なってると思います。小三郎は中村半次郎が暗殺したので、薩摩藩が出しにくいので龍馬に小三郎の業績も乗せたのかなと思っています。
 そういうイメージでは龍馬は色んな人のイメージが入っているのではないかと思います。
(佐藤先生)
 そうですね。それは言えると思います。
(よし)
 日露戦争時の霊夢にしても、明石元二郎の配下で働いていた漆原松吉が「あれは、(明石)のスパイ活動を消すために田中光顕が言いよった」という話を残したとも聞いたことがあるので、本当の龍馬像はどうなんでしょう?
(佐藤先生)
 その時々の社会状況や政治状況がかなり影響していると思います。龍馬は途中で亡くなっているので悲劇性と、「その後どうなるか?」との妄想ができるところが、色んな像の増幅
に繋がってると思います。
 ですから、色んな考えがあると思います。
(ミニコミ紙編集長)
 私は直弼は悪人ではなく大悪役だと思います。直弼がいたからこそ新選組や幕末の10年の歴史に繋がると思います。直弼が全てのスタートのイメージがあるのですが、先生から見る井伊直弼像はどうですか?
(佐藤先生)
 ヒールというより開明的な大名という位置づけです。井伊直弼は開国をして大きな動きを作っていくわけで、弾圧はありますが、直弼がいたからその後の明治維新ができたスタートだと思います。
(よし・編集長)
ありがとうございました。 

歴史なお話(幕末)・徳川家定死去

安政5年(1858)7月6日、江戸幕府十三代将軍の徳川家定が病死しました。享年35歳。
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十二代将軍徳川家慶の四男として生まれた家定は、多くの兄弟が早死にして唯一生き残っていたために十三代将軍に就任した人物でした。
当時は、権力争いの為に将軍や君主自身、もしくはその子たちに何らかの毒が盛られていた可能性は少なからず考えられており、僕は確証は見つからないものの井伊家でも5代から10代までの藩主やその子の殆どは毒の害に遭っていたと考えて居ます。

これはもしかしたら当時の常識に近いものだったのでしょうか?
家定は子どもの時に西ノ丸に住んでいた大御所(十一代将軍)の徳川家斉を訪ねて、そこで食事を出された時には一切箸を付けなかったと言われています。

また、家定の趣味としてお菓子作りが知られていますが、これも自分で作った物なら安心して食べられるという安堵感から生まれた趣味だったのではないでしょうか?
しかし、家定は自分で作ったお菓子を幕臣に分け与える事も多かったのでした。
本来なら将軍が家臣に下げ渡すお手製の菓子は名誉の品だったのですが、家定の作る菓子は失敗が多かったようで、幕臣から井伊直弼に対して「将軍さまの菓子作りを控えるように進言してください」との依頼があったとも言われて居ます。ちなみにこの時の菓子は生焼けのカステラだったとか(未確認ですが・・・)
そして福井藩主の松平慶永からはこの趣味を酷評され「イモ公方」と渾名されたうえに「凡庸の中でも最も下等」とも言われたのです。

ちなみに家定の父である家慶が十二代将軍に就任する時に、世継ぎを家定にする事に不安を覚えた人々が一橋慶喜を世継ぎにしようとして運動した事があり、これを阿部正弘が阻止したという事件が起こった事がありました。
家定が自分の後継ぎを決める時に慶喜を嫌ったのには、こう言った背景も隠されているのかも知れませんね。


さて、そんな家定のうつけぶりは脳性麻痺であった為とも言われて居ますが、これまでの将軍でしたらそのような病でもゆっくり養生しながら生きていける時代でした。
しかし家定は黒船来航直後に将軍に就任し、時代の波に翻弄されたのでした。若くして亡くなった事もそんな時代に原因が無かったとは言えなくも無いのです。

大河ドラマ『篤姫』ではうつけ者のフリをする英邁な将軍として描かれている家定ですが、記録に残る限りでは残念ながらうつけ者ぶりばかりが目立ってしまうことに儚さも感じますが、明治になって幕臣だった朝比奈昌広は「(家定は)凡庸だ暗愚だと言われているが、それは越前(松平慶永)や薩摩(島津斉彬)らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名も多くいたはずである」と発言してるのです。

天の川は大好き

天の川のパーカーを貰ってから、七夕様まではずっと着ようと思い、そのままウロウロしています。
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パパさん宅に三人
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だんだん着てる方も増えてきましたね。
大集合もしてみました。
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ちなみに僕は、ミルクを流したように見えるとの理由から天の川を「ミルキーウェイ」と呼ぶ英語のセンスというか、メルヘンな気持ちが大好きで、ラジオCMの原稿に使いました。


時々、どんな感じ?って聞かれるので、恥ずかしいですが、原稿の一部を紹介します。
下の原稿をはじめとする文学少女のイメージで読んで貰いました。



“ここから”

夜空に横たわるミルキーウェイを目印に

夏の大三角形を結ぶ

(機関車の汽笛が鳴る)

宮沢賢治が追い求めた銀河鉄道が私をいざなう

「旅に出よう、ラジオを持って」


“ここまで”



実は四季それぞれに社告を作った分の夏バージョンです。
つまり別の内容であと3つは季節物を書いてた訳ですが、残りは恋愛モノです。今となってはこれよりも赤面もので、3ヶ月ずつ一年間、放送によく耐えたものです(笑)

今ならたぶん、この子を主人公に四季を通したモノを書くでしょうね。
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