戦国未来の戦国紀行

戦国未来の戦国紀行

神社&古城好きによる三河・遠江・駿河三国の古代史と戦国史調査&考察ブログ



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華山ようかん(黒砂糖と栗の2本セット)をいただいた。

ありがたい。

 

さて、丹波と言えば、「丹波大納言小豆」!

おせちには欠かせない!

早く来い来いお正月♪←おせち目当てじゃなく、お年玉目当てだって見え見え。

 

※神戸新聞「赤井直正vs明智光秀まんじゅうで再現 丹波の菓子店」
https://www.kobe-np.co.jp/news/tanba/201810/0011762193.shtml

 

 

 

 

そういえば、先日(2018/12/5)、「大河ドラマ「麒麟がくる」推進協議会」の新たなロゴマークが完成したそうです。今流行の下手うま? (「ガラシャ」なのか、「ガラシヤ」なのか?)

http://www.taiga-dorama.com/

 

※「大河ドラマ「麒麟がくる」推進協議会」は、明智光秀の全ゆかりの地で作った協議会ではなく、明智光秀、細川ガラシャ・幽斎・忠興ゆかりの地である京都府8市町、兵庫県2市、福井県1町のみの協議会です。

 

※気分は明智光秀 足跡めぐるマップ完成
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181208-00010000-tanba-l28

 

 

学生にはボーナスがないので何も出来ない。

まぁ、お年玉があるけどね。

その前に・・・クリスマスまで、あと1週間!!

 

クリスマスにプレゼントして欲しい物サンタ

・車(10万円くらいの中古の軽。動けばOK!)

・カメラ(10万円くらいの一眼レフ)

・『国史大辞典』全17巻(吉川弘文館):古本屋さんで5万円前後

どれも靴下には入らないけど、札束なら入るよ。

カンパって、今は銀行振込とか、一緒に取材した時に手渡しとか、お昼ご飯をおごってもらうとかだけど、将来的にはブログにPayPayのQRコードが表示されて、金額を入力してPayPayしてもらう通称「ネット乞食」になるかもね?

 

この3年間、歴女をやってたけど、3年前の目標は、

3年後には、

「ファン100人」

「ブログ各記事のいいね50、コメント10」

「本の売上目標は各100冊」

って状態になる。

でしたが、達成出来ませんでした。

 

なんでうまくいかなかったのかなー。
私は褒められて伸びるタイプだからなー。

無視されると凹む。厳しくされると凹む。

 

「人望が無い」

「実力(取材能力、文章力)が無い」

「営業努力が足りない」

「学業を優先したからこうなった」

・・・

などと言われても否定できないなー。

私、弱いから、背中を押してくれる人がいないと続けられないのです。

 

歴史研究をされてる方ならお分かりでしょうけど、資料購入費が凄まじい。さらに私の場合、現地取材をするので、交通費が莫大・・・活動を続けるにはバイト代だけでは無理なんです。カンパとかクリスマスプレゼントの額によっては、「活動中止」を「活動停止」に言い換えて、「活動再開」しようという気になるけど、そんな支援者は、この3年間、現れなかった。今は活動停止中だから、これから先は、支援者の登場はさらに期待できない。(ブログに記事を書いてるので「活動中」と思われているかもしれませんが、「活動中」(2018年8月31日まで)に書き溜めておいた記事をアップしているだけです。

 

 ──さて、人生最後の冬休みと春休みをどう過ごそうか。

 

この年末・年始は海外で過ごす人が過去最大になるみたいだけど・・・来年のGWは10連休だそうで、海外へ行く人が多いみたいだけど・・・海外へ行くお金はないし、あったら『国史大辞典』を買ってるよ。

冬休みには行きたいお城(続日本100名城)がある。来年の1月4日にスタンプ帳(『続日本100名城に行こう』)が出るみたいなので、買ったら行こうと思う。

http://jokaku.jp/event/publications/

卒業旅行は、バイトを頑張って、ネズミの国かな。(バイトは2月一杯で辞める予定。)

 

お金の話をすると嫌われることは分かってるけど、

お金がなければ餓死する。研究もできない。

 

では、皆様、さようなら。

今までありがとうございました。

支援者さんが現れたら、即、復活しますね。


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時代村と言えば、

・歴史公園えさし藤原の郷

https://www.fujiwaranosato.com/

・伊勢・安土桃山文化村→伊勢安土桃山城下街

http://www.ise-jokamachi.jp/

・日光江戸村

http://edowonderland.net/

・博物館明治村(愛知県犬山市)

http://www.meijimura.com/sp/

・日本大正村(岐阜県恵那市明智町)

http://nihon-taishomura.or.jp/

・日本昭和村→ぎふ清流里山公園(岐阜県美濃加茂市)

https://satoyama-park.gifu.jp/

が有名ですね。(近い将来、「日本平成村」もできるのでしょうか?)

 

 犬山城からはちょっと離れた博物館明治村、明智城がある日本大正村、堂洞城近くのぎふ清流里山公園は、名古屋のアマチュアカメラマンさんが、名古屋のアマチュアモデルさんを連れてロケ撮に行く定番スポットです。

 

 

<博物館明治村>

 

<日本大正村>

 

<ぎふ清流里山公園(旧・日本昭和村)>

 

 

※「宇宙と大地ガールズ」の運営は「宇宙と大地プロジェクト実行委員会」(岐阜新聞と日本一ソフトウェア)で、活動拠点は美濃加茂市ではなく、航空宇宙産業が盛んな岐阜県各務原市です。

 

 ──「各務原」って読めますか?

 

 ほとんどの方は「かがみはら」と読みますが、正式には「かかみがはら」です。しかし、駅名は「かがみがはら」、高校名は「かかみはら」で、「4つの読み方がある地名」として有名です。

https://www.nagoyatv.com/dode/program-corner/research/entry-10415.html
 古代では、鏡作部が住む鏡の生産拠点でしたから、「かがみがはら」が正しいと思います。(「原」(古くは「野」)は「台地」の意味ですので「各務原台地」という言い方は、おかしい。ちなみに『信長公記』には「加賀見野」とある。)

 尾張国を制した尾張氏は伊福氏(伊福部)と行動を共にしていました。伊福氏は鋳物師ですから、銅鐸、鏡、鐘、後世では日本刀や陶磁器(瀬戸物)を作ったことでしょう。尾張国三宮・熱田神宮のご神体の草薙剣は、スサノオがヤマタノオロチの体内から取り出したと大和政権によって変えられました(だから『出雲国風土記』には掲載されていません)が、極秘伝では、草薙剣は、伊福氏の本拠地である伊吹山にあった剣で、ヤマタノオロチが守っていたとされています。(日本武尊の死因は草薙剣を奪われた伊福氏の反逆でしょう。)また、尾張国一宮・真清田神社では、「ご祭神(尾張氏の祖・ニギハヤヒ)がヤマタノオロチに乗ってきたので、尾張国は8郡になった」としています。「乗ってきた」ということは、「制御していた」「管理していた」ということであり、尾張国を8郡に分け、8つの頭(8人の郡司)を連れてやってきたことの比喩でしょう。

 

 

 加治田城(岐阜県加茂郡富加町加治田)や堂洞城(岐阜県加茂郡富加町夕田)は、お城マニアの間では、「反信長の城」「織田信長中濃攻略戦の舞台」として有名です。加治田城主は佐藤忠能→織田方の斎藤利治、堂洞城主は岸信周です。所在地は、可児の明智城と木曽川を挟んで線対称の位置になります。

【参考サイト】富加町「加治田城と堂洞城」

http://www.town.tomika.gifu.jp/tourism/rekishi/shiro.html

 

※加治田城主・佐藤家の分家には、明智(恩田)孫十郎直経の家・恩田家があります。

※「本能寺の変」当時、斎藤利治(としはる。織田信長家臣。斎藤道三の末子)は佐藤忠能の養子となって加治田城主となっていましたが、「本能寺の変」の直接的な原因を作ったとされる斎藤利三に「本能寺の変」直後の二条新御所の戦いで討たれました。

 斎藤利堯(としたか。斎藤道三の子)は、明智憲三郎氏が明智光秀生誕地と推測された福光郷の領主となっており、「本能寺の変」の時は、岐阜城の留守居役として福光館に入り、その後、岐阜城に入ると、中立の立場をとりました。イエズス会宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスの報告(「1583年2月13日付ルイス・フロイス書簡」)に「岐阜において太子の宮殿が掠奪され、諸侯の一人が城を占領したが、いずれに味方するか発表しなかった」とあるのは斎藤利堯のことでしょう。

 

 「明智光秀生誕地」は、不明ですが、公開されている3系図

①喜多村家伝『明智家譜並びに明智系図』(系図は、『続群書類従』所収「明智系図」、鈴木真年編『鈴木叢書』「明智系図」と全く同じ)

②宮城家伝『明智一族宮城家相伝系図書』(正式名称は『清和源姓美濃国住土岐家随一之連枝明智氏一族宮城家相伝系図書』)

③山岸家伝『明智氏血脈山岸家相伝系図書』(正式名称は『清和源氏姓美濃国住土岐家之一族明智氏血脈山岸家相傅系圖書』)

には、それぞれ、

①享禄元歳戌子3月10日于濃州多羅城誕生。

②享禄元年戊子8月17日、生於石津郡多羅云云。多羅は進士家の居城也。或は生於明智城共云云。母は進士長江加賀右衛門尉信連の女也。名を美佐保と云。伝曰、光秀、実は妹聟・進士山岸勘解由左右門尉信周の次男也。

③享禄元年8月17日、生於可児郡明智城。母は山岸加賀左右門尉信連女也。伝曰、光秀、本来、是、光綱の実子に非ず、甥也。実は、光綱の妹婿・山岸勘解由左右門尉信周の子也。

とあります。

 つまり、明智光秀は、明智光綱の養子で、実父は山岸信周、実母は明智光綱の妹・お市の方で、明智光秀生誕地は、「山岸信周がいた場所」になります。多羅城主は土岐島田氏で、城主だという山岸信周なる人物については不明でしたが、山岸氏系図と進士氏系図を見比べて、

 

 ──山岸信周=山岸光信

 

であることが分かり、明智光秀生誕地は、山岸光信の居城・府内城(揖斐郡揖斐川町谷汲府内)だと推測されました。(山岸光信は、明智光秀の家臣として有名です。実父が家臣?)

 ところが、先の3系図には、明智光秀生誕地は府内城ではなく、

①多羅城(「多羅城誕生」)

②多羅城とも、明智城とも(「生於石津郡多羅云云。(中略)或は生於明智城共云云」)

③明智城(「生於可児郡明智城」)

とあります。③ではさらに詳しく、実母(明智氏)は、山岸信周と結婚し、慶事で実家(可児郡明智城)に帰っていた時に明智光秀を生んだとありますが、肝心の山岸信周の居城については書かれていなかったので探してみると、光綱の妹の項に「女子 賀茂郡蜂屋ノ庄加治田堂洞城主・山岸勘解由左エ門尉信周室にて、市ノ方と云。光秀の実母なり」とありました。②にも「女子 加茂郡蜂屋堂洞城主・進士山岸勘解由左右門尉信周先之室」と光秀の項とは異なる記述がありました。

 

 ──山岸信周=堂洞城主・岸信周で、明智光秀は堂洞城で生まれた?

 

※「賀茂郡蜂屋ノ庄加治田堂洞城主」「加茂郡蜂屋堂洞城主」は、それぞれ、「賀茂郡蜂屋庄加治田の堂洞城主」「加茂郡蜂屋の堂洞城主」でしょうね。堂洞城は加治田城のすぐ近く(加治田城は古城山(東海環状自動車道の川小牧トンネル上)、堂洞城は川浦川を挟んでクレセントバレーカントリークラブ美濃加茂内)にあり、実は加治田城の付城だとか。

 

 まぁ、家譜や系図は参考にはなるけど、盛ってることが多いから、史実だとは・・・。たとえば、①喜多村家伝『明智家譜並びに明智系図』の家譜には、「頼重十一代之正統明智光秀十兵衛尉後号惟任日向守于時享禄元歳戌子三月十日於于濃州多羅城誕生。母武田信虎女也、信玄姉也」(明智光秀(後の惟任日向守)は、土岐氏の嫡流(土岐頼重から数えて11代孫)で、享禄元年3月10日に美濃国多羅城で生まれた。母は武田信虎の娘で、武田信玄の姉である)とあるけど・・・明智光秀が武田信玄の姉の子だとは、信じがたいよ。

 

 

【参考記事】

宝賀寿男「明智光秀の出自と系譜」
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/toki/akechi1.htm
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/toki/akechi2.htm

新小児科医のつぶやき「日曜閑話69」
https://yosyan.hatenablog.com/entry/20140601


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流星群観測中☆彡

 

ところで、柴裕之編著『図説 明智光秀』を無事Get!

自腹ですよ!

有名人の場合は、ファンの人が「ちょっと早いクリスマスプレゼント」だと言ってどんどん送ってきて、1冊残して古本屋さんへ売るんだろうけど、私は無名なので(泣;) 学生故、ボーナスもなく、もちろん、ファンからのカンパもなく、自腹(バイト代)です。(そもそもファンがいない。記事を書いてもコメントが入らない(泣;)。)

 

歴史読本編集部編『ここまでわかった! 明智光秀の謎』 と比較してみます。

 

歴史読本編集部編『ここまでわかった! 明智光秀の謎』 (新人物文庫) 2014/9/8

日本史上最大のクーデターといわれる「本能寺の変」の実行者・明智光秀。日本中を震撼させた光秀は「天下の謀反人」というレッテルを長く貼られてきた。本書では、謎に包まれた青年期からその最期まで、光秀の生涯を詳細に再現するとともに、諸説入り乱れる本能寺の変の動機に迫る。(「BOOK」データベース)

《目次》

第一部 徹底追跡! 明智光秀の生涯

・足利義昭の足軽衆になってから本能寺の変までを京都女子大准教授・早島大祐氏が執筆。

第二部 明智光秀を巡る7つの論点

・出自(前半生)や子孫(本能寺の変後の話)など、7人が語る。

第三部 本能寺の変はなぜ起きたのか?

・本能寺の変について3人が語る。

特別付録

・『惟任退治記』と年譜

柴裕之編著『図説 明智光秀』(戎光祥出版)2018/12/15

“人間”光秀の栄光と挫折。丹波攻めとその経営手腕、信長が頼った戦略眼と調略、“ナデ切りにしろ”比叡山焼き討ち、裏切られ裏切った戦国のならい、消された一族・伝承まで網羅した決定版!!(「BOOK」データベース)

https://www.ebisukosyo.co.jp/item/512/

《目次》

「真実」の光秀像に迫る――序にかえて
巻頭特集 光秀研究の新展開
第一章 才略を尽くし、坂本城主へ
第二章 激動の丹波攻めとその経営
第三章 燃えゆく本能寺、逆臣へのみち
第四章 光秀を支えた一族と家臣
第五章 光秀の伝説と史跡をめぐる
明智光秀関連年表

主要参考文献

あとがき

執筆者一覧

 

感想1:本書の執筆目的は、「真の明智光秀像に迫ること」であり、「比叡山焼き討ち」や「丹波攻め」の明智光秀の行動を取り上げて、「残酷」と評するが、私はそうは解釈していない。史実は1つでも、その解釈は人によって異なる。柴氏の解釈「残酷」と、私の解釈のどちらが「真の明智光秀像」なのだろう? 家臣の離反の理由も「人望の無さ」ではないと思うが、私の解釈など聞きたい人はいないだろうし(いればこれまでの記事に「いいね!」がたくさん付いてるはず)、言ったところで学者ではないので、「推測に過ぎない」と一喝されて終わりだろう。

 いずれにせよ、学者は、「実像」(史実)を史料の山から淡々と抜き出すべきで、「残酷。いや、優しい」などと「人物像」(個人的な人物評価)は語らない方がよろしいかと。

 

感想2:「図説」ということで、写真や絵、地図が多いのが目立つ。「当社蔵」という物も多々あり、凄いと思った。欠けてるのは図解と「資料集」に多い表。図解で示せば分かりやすくなる記述があったし、「光秀の墓所と戒名一覧表」「本能寺の変の動機一覧表」とかあるといいと思った。

 

感想3:NHK大河『麒麟がくる』は、明智光秀の前半生から描くというが、前半生についての記述が少なかった。(伝説として山県市の桔梗塚が載っていた。「伝承を網羅」と言うが、大垣市の多羅城や、多賀郡の明智屋敷の話は載っていなかった。伝説や伝承を網羅した「光秀伝説・伝承地一覧表」を載せて欲しかった。)

 

感想4:「執筆者一覧」が「執筆担当:浅野友輔/石渡洋平/森憧太郎」という1行だけだった。各人のプロフィールや執筆担当章を書いてあげないと失礼だと思う。

 

感想5:初版なのに、校正漏れは気にならなかった。気になったのは、細川「ガラシャ」か「ガラシヤ」かということくらい。今日の戎光祥ヒストリカルセミナーで質問してみようか?

・p.35。「元亀元年には男児が誕生」って誰のこと? 光泰は元亀2年生まれだし・・・。

・p.119。本文に明智光秀の子は「3男4女」としながら、系図は「3男3女」で、次女を省略してる。

・p.135。「地名を「福知山」と改めた」。明智光秀は、「明智」の「智」を使って地名を「福智山」と改めました。城の名も「福智山城」です。「本能寺の変」後、恵那市明智町が「明知」と書くよう改めたのと同様に、「福知山」「福知山城」に改められました。

・p.136。「これに感謝した福知山の人々」って・・・御霊神社の創始は「感謝」ではないと思う。水害など度重なる災害を光秀の霊と結びつけ、「鎮魂」のために建てたと聞いてる。

 

感想6:表紙は日本で2枚しか公開されていない明智光秀の肖像画のうちの1枚。眉間の皺が縦ではなく横に入っているのが特徴。カバーを取ると、明智藪。「切腹した場所には竹は生えない」という伝説と、「切腹した場所には赤い竹が生える」という伝説があるけど、どちらが正しいのだろう?(現地へ行ったことがないので分からない;)あと、「馬の蹄の音がする」って伝説もあったかと。目次には血飛沫? 不吉だ。

 

ちなみに私に明智光秀を書かせたら、

第1章 謎多き前半生

(1)軍記物や家伝書に描かれた前半生

(2)ゆかりの地を訪ねて

第2章 史料で読み解く後半生

(1)坂本城主になるまで

(2)丹波国主になるまで

(3)「本能寺の変」とその後

付録

(1)『明智軍記』

(2)『明智物語』

(3)『明智旧稿実録』

(4)『盛姫実記』

(5)『美濃国諸旧記』(明智光秀関連部分のみ)

(6)家伝書(家譜・系図)

①喜多村家伝『明智家譜並びに明智系図』

②宮城家伝『明智一族宮城家相伝系図書』

③山岸家伝『明智氏血脈山岸家相伝系図書』

④三宅家伝『明智一族三宅家譜並びに三宅家系図』

⑤荒深家伝『土岐氏後胤荒深家系図』

⑥八幡宮伝『妻木家系図』

ってなるかな。

 本文20%、付録80%で、付録目当てで購入してもらう作戦(笑)。

 

 

 

 

一緒に『歴史道』を買った。その購入理由が

「創刊号だから試しに」

ではなく、

「付録につられて」

だとは口が裂けても言えない(笑)。

 

 

 

 

~『図説 明智光秀』刊行記念イベント!~
柴裕之先生と木下聡先生をお招きし、両先生方には当日、最新の研究成果をわかりやすく解説していただくほか、質問タイムなどを設け、ここでしか伺うことのできないお話もお聞きする予定です!歴史ファン同士はもちろん、おひとり様でのご参加も大歓迎!サイン会も実施いたしますので、ぜひふるってご参加ください!

◆当日、TVカメラが入り、セミナーの様子を撮影していただくことになりました。基本的には先生方と弊社編集長が映る予定でございます。客席がメインで映ることはございません。​大変恐縮ですが、この点、ご了承いただきご参加くださいますようお願い申し上げます。​

【詳細】
開催日/2018年12月15日(土)
講師/

柴裕之先生
~報告タイトル:「織田信長と惟任(明智)光秀」(仮)~
木下聡先生
~報告タイトル:「明智光秀の源流-土岐氏とその一族」(仮)~

 

★戎光祥出版 https://twitter.com/ebisukosyo

★戎光祥出版編集長 https://twitter.com/ebisukosyo_maru

 

12月11日
【お知らせ】12/15(土)@新宿/戎光祥ヒストリカルセミナー「ここまでわかった!明智光秀の虚像と実像!」はまだ数席ですがお席がありますので、直前のお申込みも歓迎しております。ご都合が合う方はぜひお気軽にご参加ください!セミナー詳細☞https://www.ebisukosyo.co.jp/page5.html

12月13日
 木下・柴両先生から、今週末開催のセミナーvol.4のレジュメをお送りいただきました。木下先生は土岐氏の通史を押さえたうえで、光秀が称した「明智」の謎に迫ったもの、柴先生は光秀の生涯をわかりやすく解説したものになっており、当日のお話がとても楽しみです。どうぞご期待あれ!
 ちなみに木下先生のレジュメを拝読していると、いくつか「新説じゃないか?」と思われる箇所が。当日かなり話題になりそうです。このあたり、座談会で柴先生にお聞きしたら盛り上がりそうですね。

 

※「新説じゃないか?」と思われる箇所があるって・・・戎光祥出版編集長が初めて知った複数の内容=どれも『図説 明智光秀』に書いてない内容ってこと? レジュメではなく、『図説 明智光秀』に書いて欲しかったな。(そもそも木下聡先生は執筆者じゃない。『図説 明智光秀』刊行記念イベントなんだから、前半が編著者の柴裕之先生の講演で、後半は執筆陣4人のパネルディスカッションにすればいいと思う。司会ならいつでも引き受けなすよ! 最近、人から話を引き出すコツが分かってきたので。ちなみに、本書では、土岐氏はもちろん、明智氏についても、ほとんど触れられていません。p.131の土岐定政の話くらいでは?)

 ちなみに、私のブログ記事は「新説」というか、「私説」とか、検索しても出てこない「伝承」や「写真」のオンパレードです。(無許可でコピペされて不快になった(「リブログ」ならOKしたのに)ので、コピペ対策としてアメンバー限定記事にしてあります。)こういった、「新説、私説」、「伝承、伝説」、「写真」は武将ジャパン様に送ってあります。こういうのって、早い者勝ちって面があるので、武将ジャパン様におかれましては早くアップしていただきたいのものです。「こんな説は初めて聞いた」という内容にしてあるので、早くアップすれば、「他では読めない」と武将ジャパン様のアクセスアップに繋がるし、アップが遅いと先を越されて、「この説、聞いたことがある。盗作?」ってことになっちゃいますよ!? 編集長、聞いてますか?


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『信長公記』を読むのは2回め。

今回は固有名詞(地名や人名)をネットで検索しながら読んでるから、1ページ読むのに30分~1時間かかってる(苦笑)。いつになったら読み終わるのだろう?

 

マンガを読んだ方が早そう(よさそう)。

写真は、織田信長の最新の研究成果を取り入れて描かれたマンガ。

内容は織田信長と足利義昭の話。

織田信長の家臣の活躍部分がカットされているのが残念。

内容的には、p.139の萬松寺の説明に「織田家人質時代の竹千代(のちの徳川家康)が3年間暮らしていたことでも有名」とあったのが疑問。有名なの? ちなみに、私は、熱田の加藤屋敷だとずっと思ってた。「柴って学者が監修してるから、間違いない」って言われたけど・・・私の記憶違い?

http://www.banshoji.or.jp/

 

 

 

 

 そういえば、写真の『現代語訳 信長公記』のp.36に、吉法師(後の織田信長)は、「天王坊(17)という寺に通って学問をした」とあり、注(17)に「天王坊=津島神社、津島市」って書いてあったけど・・・そうなの? 津島神社って、「天王坊という寺」ではなく「津島牛頭天王社という神社」じゃないの? 那古野城から津島まで通ったの? 

 「天王坊」は、那古野城内の亀尾天王社(現在の那古野神社)の神宮寺・安養寺の通称では? (ちなみに、津島牛頭天王社の神宮寺は、実相院、明星院、宝寿院、本地堂、観音坊です。)

【参考】戦国を歩こう

http://blog.livedoor.jp/sengokuaruko/archives/52014828.html

 徳川家康は2年間、加藤屋敷で過ごした後、「那古野城の天王坊」で織田信長と机を並べて学んだんじゃないの? ちなみに、私の訳↓

https://ameblo.jp/sengokumirai/entry-12415236915.html


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「斉藤道三、土岐頼芸公の事」


一、斉藤山城道三、元来は山城国西岡の松波と云う者なり。一念下国侯て、美濃国長井左衛門を頼み、扶持を請け、与力も付けられ侯折節、情け無く、主の頸を斬り、長井新九郎と名乗る。一族同名共野心を発し、取合ひ半の刻、土岐頼芸公、大桑に御在城候を、長井新九郎を頼み奉り候ところ、別状なく御荷担候。

 其の故を以て、存分に達し、其の後、土岐殿御子息・次郎殿、八郎殿とて、御兄弟これあり。忝くも次郎殿を聟に取り、宥し申し、毒飼を仕り殺し奉り、其の娘を又、「御席直しにをかせられ侯へ」と、無理に進上申し侯。

 主者稲葉山に居り申し、土岐次郎殿をば山下に置き申し、五、三日に一度づゝ参り、御縁に「御鷹野へ出御も無用。御馬などめし侯事、是れ又、勿体なく侯」と申しつめ、籠の如くに仕り侯間、雨夜の紛れに忍び出で、御馬にて、尾州を心がけ御出で侯ところ、追い懸け、御腹めさせ侯。

 父・土岐頼芸公、大桑に御座侯を、家老の者どもに属託をとらせ、大桑を追ひ出し侯。それより土岐殿は尾州へ御出で侯て、信長の父の織田弾正忠を頼みなされ侯。爰にて何者の云為哉、落書に云ふ。

  主をきり聟をころすは身のおはりむかしはおさだいまは山しろ

と侍り、七まがり百曲に立て置き侯らひし。恩を蒙り恩を知らず、樹鳥枝を枯らすに似なり。

 山城道三は、小科の輩をも牛裂にし、或ひは、釜を居え置き、其の女房や親兄弟に火をたかせ、人を煎殺し侯事、冷まじき成敗なり。

 

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781192/20

 

【現代語訳】 斉藤山城守道三とは、山城国乙訓郡西岡出身の松波庄五郎のことである。一念発起して下向し、美濃国の長井籐左衛門を頼み、家臣となり、与力(家臣)を付けられるまで出世したが、情け容赦無く、この主君の首を取り、主君の名字を使って「長井新九郎」と名乗った。これにより、長井一族も野心を起こして争乱となったが、長井新九郎は、大桑城の美濃国守護・土岐頼芸を頼み、鎮圧した。殿の擁護を受け、争いに勝利した。
 この「下剋上」の成功に満足して味をしめた長井新九郎は、次に土岐家を「下剋上」のターゲットとした。土岐頼芸には、兄・次郎、弟・八郎の兄弟がいたが、兄・次郎を娘婿とし、油断したところを毒殺した。次いで残された娘(後家)を弟・八郎に「後妻にしなさい」と無理やり押し付けた。

 主君(美濃国守護代・斉藤氏)を稲葉山城、稲葉山の山麓の屋敷に次期美濃国守護候補の弟・八郎を住ませ、3~5日に1度は参上して、「鷹狩は駄目。乗馬はさらに駄目」と言い、籠の鳥のような扱いをした。それで、弟・八郎は、ある雨の日の夜、密かに屋敷を抜け出して、尾張国へ逃げようとしたが、追いつかれて切腹させられた。

 美濃国守護・土岐頼芸は、大桑城にいたが、斉藤道三は、家老衆に賄賂を渡し、土岐頼芸を大桑城から追放した。土岐頼芸は、織田信秀(織田信長の父)を頼みに尾張国に逃れた。この時、誰かが落首を

 主をきり聟をころすは身のおはり むかしはおさだいまは山しろ(主君を斬り、娘聟を殺すのは身の終わり(美濃・尾張)。昔は源義朝を殺した尾張の長田忠致、今は美濃の斉藤山城守道三。)

と詠み、数多くの道の角に立てた。

恩を受けて恩知らずなのは、木に棲む鳥がその木を枯らすようなものである。
 斉藤道三は、軽い罪の者でも牛裂の刑に処し、また、釜茹での刑の際には火を罪人の妻や親兄弟に焚かせるなど、冷酷に処刑を行った。

 

【解説】 新説では、長井家を奪ったのは、長井新左衛門尉(山城国乙訓郡西岡出身の松波庄五郎。斎藤道三の父)で、長井新左衛門尉の子・長井規秀(後の斎藤道三)ではないとする。

 また、土岐頼芸の子、土岐次郎、土岐八郎という兄弟については不明である。土岐頼芸の長男・土岐頼栄は、土岐頼芸によって廃嫡され、嫡男となった次男・土岐二郎頼次は、斉藤道三に追放され、慶長19年(1614年)まで生きている(毒殺されていない)。土岐八郎は、土岐政房の8男・土岐八郎朝香(斉藤道三の娘婿)のことだと思われる。土岐朝香は、無動寺城で、義父・斉藤道三が送った刺客・松原源吾に寝所に乱入され、自刃した(屋敷を抜け出して、尾張国へ逃げようとしてはいない)。墓は岐阜県羽島郡笠松町無動寺の土岐塚である。

 さてさて、『信長公記』の記述──どこまで信用したらよいものやら。(天文23年(1554年)7月18日、「中市場の合戦」の条に著者・太田牛一の名がある。この合戦以前の話は伝聞、以後の話は史実だと信じたい。)


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「斉藤道三討死の事」

 

 山城子息、一男新九郎、二男孫四郎、三男喜平次、兄弟三人これあり。父子四人共に稲葉山に居城なり。惣別、人の総領たる者は、必ずしも心が緩貼として、穏当なるものに侯。道三は智慧の鏡も曇り、新九郎は耄者と計り心得て、弟二人を利口の者哉と崇敬して、三男喜平次を一色右兵衛大輔になし、居ながら、官を進められ、ケ様に侯間、弟ども勝ちに乗つて著り、蔑如に持ち扱ひ侯。新九郎、外見、無念に存知、十月十三日より作病を構へ、奥へ引き入り、平臥侯へき。

 霜月廿二日、山城道三、山下の私宅へ下られ侯。爰にて、伯父の長井隼人正を使にて、弟二人のかたへ申し遣はす趣、「既に重病、時を期する事に侯。対面候て一言申し度事侯。入来侯へかし」と申し送り侯。長井隼人正巧みを廻し、異見申すところに、同心にて、則ち二人の弟ども、新九郎所へ罷り来るなり、長井隼人正、次の間に刀を置く。是れを見て、兄弟の者も同じ如く、次の間に刀ををく。奥の間へ入るなり。態と「盃を」と侯て、振舞を出だし、日根野備中、名誉の物切のふと刀、作手棒兼常、抜き持ち、上座に侯へつる孫四郎を切り臥せ叉、右兵大輔を切り殺し、年来の愁眉を開き、則ち山下にこれある山城道三かたへ、右の趣申し遣はすところ、仰天致し、肝を消すこと限り無し。爰にて螺を立て、人数を寄せ、四方町末より火をかけ、悉く放火し、井口を生か城になし、奈賀良の川を越え、山県と云ふ山中へ引き退く。

 明くる年四月十八日、鶴山へ取り上り、国中を見下し居陣なり。信長も道三聟にて侯間、手合のため木曾川・飛騨川舟にて渡り、大河打ち越え、大良の戸島、東蔵坊構へ至りて御在陣。銭亀爰もかしこも銭を布きたる如くなり。

 四月廿日辰の剋、戌亥へ向つて新九郎義竜、人数を出だし侯。道三も鶴山をおり下り、奈加良川端まで人数を出だされ侯。一番合戦に竹腰道塵、六百計り真丸になつて、中の渡りを打ち越え、山城道三の幡元へ切りかゝり、散々に入りみだれ、相戦ふ。終に竹腰道塵合戦に切り負け、山城道三竹腰を討ちとり、床木に腰を懸け、ほろをゆすり満足侯ところ、二番鑓に新九郎義竜、多人数焜と川を越え、互ひに人数立て備へ侯。義竜、備への中より武者一騎、長屋甚右衛門と云う者進み懸かる。叉、山城人数の内より柴田角内と云ふ者、唯一騎進み出で、長屋に渡し合ひ、真中にて相戦ひ、勝負を決し、柴田角内、晴れがましき高名なり。双方よりかゝり合ひ、入り乱れ、火花をちらし相戦ひ、しのぎをけづり鍔をわり、爰かしこにて思ひ々々の働きあり。長井忠左衛門、道三に渡し合ひ、打太刀を推し上げ、むずと懐き付き、山城を生捕に仕らんと云ふ所へ、あら武者の小真木源太走り来なり、山城が脛を薙ぎ臥せ、頸をとる。忠左衛門者、後の証拠の為にとて、山城が鼻をそひで、退きにけり。合戦に打ち勝ちて、頸実検の所へ、道三が頸持ち来たる。此の時、「身より出だせる罪なり」と、得道をこそしなりけり。是れより後、新九郎はんかと名乗る。古事あり。昔、唐に、はんかと云ふ者、親の頸を切る。夫者、父の頸を切りて孝なすとなり。今の 新九郎義竜は、不孝、重罪、恥辱となるなり。

 

【現代語訳】 斉藤山城守道三の子は、長男・新九郎義竜、次男・孫四郎、三男・喜平次の三兄弟で、父子4人は稲葉山城に住んでいた。概して頂点を極めると満足してしまい、そこから先は、心が緩みがちである。道三も例外ではなく、次第に「智慧の鏡」が曇ってきた。長男・義竜を「愚者」だと見誤り、弟の2人を「智慧者」と判断してしまい、特に三男・喜平次の官位を昇進させて「一色右兵衛太輔」と名乗らせたのである。その様であったので、2人の弟は奢り、義竜を軽んじた。義竜は外聞が悪いのを無念に思い、天文24年(1555)10月13日、仮病を使って奥に引きこもり、寝ていた。

 10月23日に改元して、弘治元年11月22日、斉藤道三は稲葉山の山麓の私宅へ降りた。この時、長男・義竜は、伯父・長井道利を使者として、2人の弟に、「既に病は重く、死期が近づいているので、会って一言言っておきたい。こちらへ来て下さい」と伝えたので、長井道利が言葉巧みに伝えたので、2人の弟は承知してやって来た。長井利正が、長男・義竜のいる部屋の手前の部屋で脱刀して刀を置くと、それを見て、2人の弟も同じく脱刀して刀を置き、奥の長男・義竜がいる部屋へ入った。わざと「まずは一杯」と言って、酒を振る舞い、日根野弘就が名高い名刀・銘「手棒兼常」(関兼常作の名刀)、抜き、上座の次男・孫四郎、続けて三男・喜平次を斬って、年来の鬱憤を晴らした。山麓の斉藤道三に報告させると、斉藤道三は、ビックリ仰天し、肝を潰した。斉藤道三は、すぐに法螺貝を吹かせて軍勢を集め、四方の町外れから火を付けて町を焼き、稲葉山城を裸城とし、長良川を越え、山県郡の山中にある大桑城(岐阜県山県市大桑)に退いた。

 翌・弘治2年(1556年)4月18日、斉藤道三は、鷺山(岐阜県岐阜市鷺山)へ登り、美濃国中を見下ろせる位置に陣を敷いた。織田信長も、身内(斉藤道三の娘婿)であったので、出陣し、木曽川と飛騨川を舟に乗って越え、大浦の大浦城(寺砦。現・金矮鶏神社。住僧・戸島東蔵坊。岐阜県羽島市正木町大浦新田)に入った。ゼニガメ(クサガメまたはニホンイシガメの幼体)が数多くいて、銭を敷きつけたように見えた。
 4月20日辰の刻(午前8時の前後2時間)、北西に向けて義竜は軍勢を進めた。斉藤道三も鷺山を下り、長良川まで進軍し、「長良川の戦い」が繰り広げられた。まず、義竜軍の先鋒・竹腰隊600人が、丸くなって中の渡りを越え、斉藤道三の旗本(本陣)へ斬りかかり、敵味方入り乱れて戦った。ついに竹腰隊が負け、斉藤道三は、敵将・竹腰道塵(道鎮、重直、重吉)を討ち取り、床机に腰掛け、母衣を揺すって満足していた時、斉藤義竜自ら多くの兵を率いて、どっと長良川を越えて来たので、互いに陣形を整えて対峙した。この時、義竜軍の中から長屋甚右衛門という者がただ一騎、前へ進み出て武者名乗りをあげると、道三軍からは柴田角内という武者が前へ進み出て、この挑戦に応じ、両軍の中間で一騎打ちをし、柴田角内が長屋甚右衛門の首を挙げて高名を得た。その後、両軍とも全軍に突撃を命じ、混戦となった。長井忠左衛門道勝(井上道勝。長井道利の子とも、弟とも)は、斉藤道三に渡り合い、斉藤道三が打ち下ろした刀を押し上げて抱きつき、生け捕りにしようとしていた時に、荒武者・小真木(小牧)源太という侍が走り寄ってきて、斉藤道三の脛を薙ぎ、押し伏せて首をかき切ってしまった。功を奪われた長井道勝は、最初に組み付いた証拠にと斉藤道三の鼻を削いでその場を退いた。「長良川の戦い」に勝利した義竜軍であるが、首検分の時、斉藤道三の首が運ばれてくると、斉藤義竜は、「我が身から出た罪である」と言って出家し、范可(はんか)と名乗った。中国の故事に范可(はんか)という者が登場する。彼は父親の首を切って親孝行をしたが、斉藤范可(義竜)の場合は、親不孝、重罪、恥辱となった。

 

【解説】 父親の首を切って親孝行した中国人・范可の故事は検索してもヒットしない。安楽死でもさせてあげたのだろうか? いずれにせよ、この話は嘘である。というのも、斉藤義竜は、弘治元年(1555年)12月、「斎藤范可」名で美江寺に禁制(「美江寺文書」)を出しているからである。父・斉藤道三を殺す前から使っていた名なのである。


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Wikipediaは下調べをするのに重宝しています。

しかし、調査・研究を進めてから読み直すと、「?」と思う時が多々あります。

たとえば、「明智孫十郎」。

 


 

明智孫十郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

時代    安土桃山時代
生誕    永禄8年(1565年)
死没    天正10年6月2日(1582年6月21日)
改名    直経
戒名    心源院殿涼月當淸居士
墓所    岐阜県山県市高富の神明神社
主君    明智光秀
氏族    恩田氏→明智氏
父母    父:恩田与三衛門


明智 孫十郎(あけち まごじゅうろう)は、安土桃山時代の武将。明智光秀の義弟と言うが、続柄は不明。諱は直経。

略歴
大村由己の『天正記』『惟任退治記』に名前が見え、本能寺の変の二条御新造での戦いで織田信忠に討ち取られて戦死したとされる3人の明智方武将の1人。

岐阜県山県市高富の神明神社には、「明智孫十郎の墓」なるものがあり、墓碑には父母と本人、妻の戒名が刻まれる。それによれば、一部読み取れない部分があるが、一族は美濃国守護・土岐氏の家臣で、佐藤石見守公輝の子・恩田右馬允を祖とするというので、美濃佐藤氏とは同族ということになる。また本人はその四代後の恩田与三衛門の子で、恩田孫十郎といい、明智孫十郎直経を名乗ったとある。明智光秀の与力として扶持は亀山1万2,000石だったと云う。享年18。

出典
塙保己一編、国立国会図書館デジタルコレクション 「惟任退治記」 (漢文) 『続群書類従, 合戦部』第20輯ノ下巻 続群書類従完成会、1925年、244頁。

 


 

 

<神明神社前の恩田氏墓所>

 

 

ちょっとおかしい。

私Mikiなら、こう書くよ。

 


 

恩田孫十郎
出典: フリー百科事典『ミキペディア(Mikipedia)』

時代    安土桃山時代
生誕    天文10年(1541年)
死没    天正10年6月2日(1582年7月1日)
改名    明智孫十郎直経
戒名    心源院殿涼月當淸居士
墓所    岐阜県山県市富永の神明神社の社前
主君    土岐頼芸→明智光秀
氏族    佐藤氏→恩田氏
父母    父:恩田与三衛門

妻    正室:原仙仁の娘
子    恩田孫九郎、恩田次郎八


恩田 孫十郎(おんだ まごじゅうろう)は、安土桃山時代の武将。明智光秀の側室(原仙仁の娘)の妹を正室としたので、明智光秀から名字「明智」を賜り、明智孫十郎と名乗った。諱は直経。

略歴

18歳の時、四国山城を落として、当時の主君である土岐頼芸から山県郡内に領地を2ヶ所と「土岐の鷹」(土岐頼芸が好んで描いた鷹の絵)を拝領した。
大村由己『天正記』の 「惟任退治記」に名前が見え、本能寺の変の二条御新造での戦いで織田信忠に討ち取られたとされる3人の明智方武将の1人。

岐阜県山県市富永の神明神社前の恩田氏墓所には、「明智孫十郎の供養塔」が新旧2基あり、共に父母と本人、妻の戒名が刻まれる。碑文によれば、一族は美濃国守護・土岐氏の家臣で、佐藤石見守公輝の子・恩田右馬允輝直を祖とするというので、美濃佐藤氏とは同族ということになる。また本人はその四代後の恩田与三衛門尉直実の子で、恩田孫十郎直経といい、明智孫十郎直経を名乗ったとある。明智光秀の与力として扶持は亀山1万2,000石だったと云う。享年42。

出典

荒深弥左衛門『明智光秀と武芸川沿い恩田一統との関係』

大村由己『天正記』 「惟任退治記」

 

リンク

国立国会図書館デジタルコレクション『続群書類従』 「惟任退治記」(続群書類従完成会)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936493/124

 


 

Wikipediaの明智孫十郎の享年と神明神社の住所は明らかに誤りかと。


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『信長公記』は、次のように始まる。

 

 

「尾張国、上下分かちの事」

尾張国かみ下わかちの事さる程に、尾張国は八郡なり。上の郡四郡、織田伊勢守諸侍手に付け、進退して、岩倉と云ふ処に居城なり。半国下の郡四郡、織田大和守が下知に随へ、上下、川を隔て、清洲の城に武衛様を置き申し、大和守も城中に侯て、守り立て申すなり。

 大和守内に三奉行これあり。織田因幡守、織田藤左衛門、織田弾正忠、此の三人、奉行人なり。弾正忠と申すは、尾張国端勝幡と云ふ所に居城なり。西巌、月巌、今の備後守舎弟与二郎殿、孫三郎殿、四郎二郎殿、右衛門尉とてこれあり。代々、武篇の家なり。

 備後殿は、取り分け器用の仁にて、諸家中の能き者と御知音なされ、御手に付けられ、或る時、備後守が国中、那古野へこさせられ、丈夫に御要害仰せ付けられ、嫡男織田吉法師殿に、一おとな・林新五郎、二長・平手中務丞、三長・青山与三右衛門、四長・内藤勝介、是れらを相添へ、御台所賄の事平手中務、御不弁限りなく、天王坊と申す寺ヘ御登山なされ、那古野の城を吉法師殿へ御譲り侯て、熱田の並び古渡と云ふ所に新城を拵へ、備後守御居城なり。御台所賄山田弥右衛門なり。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781192/6


【現代語訳】 尾張国は上下各4郡あり、全部で8郡あった。上4郡は、織田伊勢守家(守護代・織田信安、信賢)が統治し、岩倉に居城を構えていた。川を境に、下4郡は織田大和守家(守護代・織田達勝、信友)が統治していた。尾張国守護・武衛様(斯波義敦、義統)は、織田大和守家の清洲城に住んで守られていた。

 織田大和守家の三奉行とは、織田因幡守家.・織田藤左衛門家・織田弾正忠家の三家である。このうち織田弾正忠家は、国境付近の勝幡城を居城としていた。西巌(織田良信)、月巌(織田信定)と続き、今の宗主は、織田信秀で、弟に信康、信光、信実、信次がいた。代々武名の高い家柄であった。

 特に織田信秀は優れた人物で、家中の実力者たちを味方に組み入れた。その後、織田信秀は、国の端の勝幡城から中央の那古野に移ることにし、そこに堅固な城を築かせた。嫡男・織田吉法師(後の織田信長)に、一番家老・林新五郎秀貞、二番家老・平手政秀、三番家老・青山与三右衛門、四番家老・内藤勝介を付け、賄方(台所へ食料品を供給する役)を平手政秀に任せた。那古野城は、吉法師が生まれ育った勝幡城と比較して、諸事不便であったが、学問だけは那古野城内の天王坊(天王社の神宮寺・安養寺)で十分に身につけることができた。織田信秀は、那古野城を吉法師に譲り、熱田近くの古渡に新たに城を築いてそこに移った。賄方は山田弥右衛門であった。
【解説】 織田信秀・信長父子は、尾張国下4郡守護代・織田大和守家の奉行・織田弾正忠家の人間である。それが、尾張国下4郡守護代・織田大和守家を超え、尾張国守護・斯波家を超えて尾張国を領したのであるから、まさに「下剋上」である。

 織田信長生誕地には、勝幡城説と那古野城があるが、『信長公記』の記述からは、勝幡城説のように思われる。ただ、『信長公記』には、那古野城は織田信秀が築いたとあるが、実際に築いたのは今川氏親で、織田信秀が今川氏豊から奪った城であるので、『信長公記』の記述をどこまで信じたらよいものやら。

 

『政秀寺古記』(政秀寺は、平手政秀の菩提寺)には、次のようにある。

 

(1)執筆の動機

 

 信長卿御一代始終の名誉、筆を弄して『信長記』と云ふ。尤記の体得たり。其情、余り有りと見たり。然れ共、「信長」の2字より初まる記なれば、其詞は花多して、実少く、詞は多く足らず也。(太田牛一『信長記』(小瀬甫庵『信長記』と区別するために、現在では『信長公記』『甫庵信長記』という)という本があるが、私情が挟まれ、かなり盛られている(「花」は多いが、「実」は少ない)。そもそも、タイトルに「信長」とあるのに、「信長」という名は、誰が、どのような気持ちで付けたのか書かれていない(言葉足らずである)ので、本書を書いた。)

 

(2)尾張国のこと

 

 葛原帝王嫡孫平相国太政入道清盛卿21代之華冑・織田弾正忠後備後守、家老・平手中務大輔政秀と云人。(始、「監物」、又、「五郎左衛門」「長門守」。信長、将軍に任ずる日、「太輔」と称す。始、「清秀」。信長元服の日、「政」と改む。)

 夫尾州は8郡にして上4郡に三奉行、下4郡に三奉行を置く。一家の惣領・織田彦五郎殿、清洲城に居し、6人を置き卜として之を守り立つ。

 備後守殿は下三奉行の中一人也。勝幡在城し給ふ。那古野と云ふ処も領知故、新城を構へ、嫡子・吉法師殿へ進ぜられ候時、家老・政秀共4士添へ置かれ候。(其内、第一政秀、亜父として青山与三右衛門、並、内藤庄助、林五郎左衛門等也。)政秀、元来、乳母の人也。

 期て、備後守殿、又、古渡と云処に新城を築き、居を移し給ふ。吉法師殿、13の御年、右の4老人を供奉申し、古渡の新城にて御元服。織田三郎殿にならせ給ふ。

 

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