戦国未来の戦国紀行

戦国未来の戦国紀行

日本の戦国時代について

戦国ライターとして活動してきましたが、

実力がないため、仕事依頼が来なくなり、

サポートして下さるファンもおらず、

活動の継続ができなくなりました。

頑張ってきたけど、悔しいけど、2021年2月7日に終了。

今までありがとうございました。

さようなら。

 

 

戦国未来(せんごくみく):戦国サイトや雑誌で稀に目にするライター。
 大学時代はアルバイトで現地へ行っては紀行文を書いていたが、現在は副業で土日に図書館へ行き、週1ペースで「図書館記事」を書いている。本人曰く「堕落はしたが、『コタツ記事』よりはまし」。

坂口安吾『堕落論』
歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の将軍達が切腹もせず轡(くつわ)を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html

 口癖は「高級カメラ(25万円くらいのフルサイズミラーレス)が欲しい。車(140万円くらいの可愛い軽自動車)が欲しい。両方揃えて以前のように現地へ行って書きたい。堕落(レベルダウン)はしたくない」(ただ、カメラについては、写真を引き伸ばして個展を開くわけではないので、ブログに載せるくらいのサイズであれば、最新のスマホのカメラで十分な気がしている。車については、安い中古車を買ったとしても維持費(燃料費、保険料、車検・・・)が必要。貧乏なので購入を躊躇。それにコロナ禍では地元しか回れない)。

 

2015年(大学1年生。19歳)
2016年(大学2年生。20歳)
2017年(大学3年生。21歳)

・NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』のドラマ解説
・祖山法忍『井伊家伝記』の翻刻&現代語訳
2018年(大学4年生。22歳)
2019年(社会人1年目。23歳)
・NHK大河ドラマ『いだてん』「田畑政次編」のドラマ解説
2020年(社会人2年目。24歳) 
※令和天皇とは3回り、明智光秀とは41回り違いの年女
・NHK大河ドラマ『麒麟がくる』のドラマ解説
・『明智軍記』の翻刻&現代語訳
2021年は・・・
・2月7日、歴女卒業。以後、婚活に専念。

 

※【自分語り】コタツ記事、私の記事
https://note.com/senmi/n/n9a0cb786739e
※【自分語り】私が好きなお酒
https://note.com/senmi/n/n4c35a15fbc9b

 「四国一の弓取り」と呼ばれた長宗我部元親は、「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元を破って以降、破竹の勢いの織田信長と手を組んだ方がいいと思い、嫡男の元服に当たって、烏帽子親を、明智光秀を取次として、織田信長に申し込んだ。この時の使者は、無名の下級武士・中島可之介である。家老衆は反対したが、長宗我部元親は、「此の可之介と申すは、背高く、色白く、勇気ありて烈(はげ)しからず、朝に武を勤め、夕には文を学び、和歌に心を寄せ、優にやさしき若者なり」(見た目が良いし、教養もあるので使者には最適)として大抜擢した。(この賛辞、「可之介」を「明智光秀」に替えても違和感がない!)
 中島可之介は尾張国へ行き、織田信長に会うと、四国の戦況を聞かれたので、「連戦連勝。向かうところ敵なしです」と言うと、信長卿、莞爾(かんじ)と笑わせ給ひ、
「元親は『無鳥島の蝙蝠』なり」
と仰せければ、可之介、謹みて、
「『蓬莱宮のかんてん』に候」
とぞ答ひける。信長卿、
「当座即妙の返答使なるかな」
と、大に御成賞あり。烏帽子親を引き受け、元服式の祝を与えて、可之介をかえした。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441712/180

 

 

「無鳥島の蝙蝠」
「蓬莱宮のかんてん」

の意味は分かりますか?

 

 「無鳥島の蝙蝠」は諺で、「無鳥里の蝙蝠」ともいいます。意味は「鳥がいない場所では、コウモリが我が物顔で飛んでいる(天を制している)。転じて、強い者がいない場所では、弱い者でもやりたい放題である」です。よく使う「里」の方ではなく、「島」の方を選んだのは、「四国」を「無鳥島」に例えているからでしょう。それで、多くの方が、この会話を、

 

織田信長「さすが「四国一の弓取り」と呼ばれるだけあって、連戦連勝とは、お強い。だが、所詮は「無鳥里の蝙蝠」である(四国には強敵がいないので勝てるだけだ)」
中島可之介「そんなことはありません。我が主君は『蓬莱宮のかんてん』(偉大な人物)です」

 

と訳しておられるが、織田信長に反論すれば、織田信長は気分を悪くして、烏帽子親を引き受けてくれません。中島可之介は、使者の役目を果たせず、切腹させられるでしょう。ここは、織田信長が長曾我部元親を褒めた→中島可之介はそれ以上の賛辞で織田信長を褒めた→織田信長は気分良くなり、烏帽子親を引き受けた、という流れのはずです。

 私の訳は、

 

織田信長「さすが「四国一の弓取り」と呼ばれるだけあって、連戦連勝とは、お強い。文字通りの「無鳥里の蝙蝠」である(四国には強敵が多いが、長宗我部元親の強さは突出している)」
中島可之介「ありがとうございます。とはいえ、織田信長様も「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元を倒しただけあって、お強い。私には「熱田の宮の唐の玄宗皇帝」に見えます」

 

です。

 「蓬莱宮」は、白居易「長恨歌」(楊貴妃と唐の玄宗皇帝の恋愛物語)に出てくる言葉で、「蓬が島」と呼ばれた熱田の「熱田神宮」を指します。唐の玄宗皇帝が日本を制服しようとした時、日本の神々が集まって相談し、「熱田大神に絶世の美人(楊貴妃)に化けてもらい、玄宗皇帝をたぶらかして、日本征服を忘れさせよう」ということになりました。なぜ熱田大神が選ばれたのかは不明です。そもそも熱田大神の正体は、熱田神社が「神宮」号を得るために「ご神体・草薙剣を依代とする天照大神」に変えられましたが、本来は、スサノオだとか、尾張氏の祖神・ニギハヤヒだとか言われていますが、日本武尊だとする説の支持者が多いです。もしそうだとすると、日本武(やまとたける)尊は16歳の時、美少女に化けて熊襲武(くまそたける)を倒してますので、選ばれたのでしょう。

 この作戦は成功し、熱田大神(楊貴妃)は、日本に帰ってきました。「長恨歌」にあるように、楊貴妃の事を忘れられない玄宗皇帝が、方士に探させると、「蓬莱宮にいる」ということが分かりました。この蓬莱宮が熱田神宮です。「かんてん」とは、「漢天」=漢の天子です。「漢の天子ではなく、唐の皇帝では?」と言われそうですが、「長恨歌」は、当時の政権に配慮して、「唐の玄宗皇帝」ではなく、「漢家天子」(漢の武帝)としているのです。(一説に「長恨歌」は、当時の政権を批判する漢詩だそうです。)

 ─蓬莱宮=熱田宮だとして、なぜ織田信長は玄宗皇帝なのか?

 

 織田信長は、熱田神宮で戦勝祈願した後、桶狭間に向かい、今川義元と向かい合いました。この時、織田信長の背中から、今川義元の顔に向けて、つまり、熱田神宮の方向から、巨木をも倒す暴風雨が吹いてきました。こうして、織田信長は、今川義元を倒し、その織田軍は「疾風陣」、織田信長は「雨将軍」と呼ばれました。織田信長は、熱田神宮の御祭神・楊貴妃(熱田大神)に味方してもらった、愛されたのです。「楊貴妃に愛されたということは、玄宗皇帝の生まれ変わりである証拠である」と中島可之介が言ったので、織田信長は、気分がよくなり、長宗我部元親の嫡男の烏帽子親を引き受けたのです。

 

 「無鳥里の蝙蝠」と言われたら、私なら「◯◯島の◯◯(鳥の名)」と答えます。例えば「蓬莱島の鳳凰」。「蓬莱島」は熱田の別称「蓬が島」のことです。巨大な亀で、甲羅の上に蓬莱山(断夫山)と蓬莱宮(熱田神宮)があります。鳳凰は「鳥の長」ですから、鳳凰以上の鳥はいません。(ちなみに「獣の長」は、ライオンではなく麒麟(ユニコーン)です。)鳳凰は徳のある場所に降り立ち、麒麟は仁のある場所に駆け来る。ただし、鳳凰は桐の木にしか止まりません。武士が桐紋を好んだのは、天皇家の紋(「凰」は「天皇」の「皇」に通ず)であるからでしょうけど、「(天皇のように)徳治政治を行い、鳳凰を呼びたい」という意味もあるのでしょう。また、織田信長は、平氏を自称し、「織田蝶丸紋」を用いました。「アゲハチョウ」は、漢字で「鳳蝶」と書きます。「鳳」は「鳳凰」、「蝶」は「鳥」に通じます。ただ、この家紋の意味は、徳治政治云々ではなく、不死鳥(フェニックス)の「再生」です。ちなみに、織田氏は平氏ではなく、越前国二宮・劔神社(福井県丹生郡越前町織田)の世襲神主家です。劔神社の主祭神は、劔大神・素盞嗚尊で、気比大神・伊奢沙別命(日本武尊の子)、劔御子・忍熊王(日本武尊の孫)を配祀しています。
https://www.tsurugi-jinja.jp/

 

★『土佐物語』のこの話は創作です。「織田信長の上洛以前」とありますが、長宗我部元親の嫡男の元服は、「織田信長の上洛後」の天正6年(「本能寺の変」の4年前)で、織田信長は尾州(尾張国。蓬莱宮があるので「蓬州」ともいう)には住んでいません。

 

 

【参考】作者不詳『曽我物語』(巻2)「玄宗皇帝の事」
 しかれば、飽かぬ北の御方の御名残りは、玄宗皇帝、楊貴妃と申せし后、安禄山戦の為に、夷(えびす)に下し給ふ。御思ひの余りに、蜀(しよく)の方士を遣はし給ふ。方士、神通にて、一天三千世界を尋ね回り、太真苑(たいしんゑん)に至る。蓬莱宮(ほうらいききゅう)これなり。ここに来たつて、玉妃に会ひぬ。この所に至りて見れば、浮雲(ふうん)重なり、人跡(じんせき)の通ふべき所ならねば、簪(かんざし)を抜きて、扉(とぼそ)を叩く。双鬟(さうくわん)童女(どうにょ)二人出でて、「しばらくこれに待ち給へ。玉妃は、大殿籠(おおとのごも)れり。ただし、いづくより、如何なる人ぞ」と問ふ。「唐の太子の使ひ、蜀の方士」と答へければ、内に入りぬ。時に、雲海沈々(ちんちん)として、洞天(とうてん)に日暮れなんとす。悄然(せうぜん)として、待つところに、玉妃(ぎよくひ)出で給ふ。これ、即(すなは)ち楊貴妃なり。右左の女、七、八人。方士、揖(いつ)して、皇帝、安寧を問ふ。方士、細かに答ふ。言ひ終をはりて、玉妃、証(しるし)とや、簪を分きて、方士に賜たぶ。その時、方士、「これは、世の常にある物なり。支証に立たず。叡覧に備へ奉らんに、如何なる密契かありし」。玉妃、暫く案じて、「天宝14年の秋7月7日の夜、『天にありて、願はくは比翼の鳥、地にありて、願はくは連理の枝、天長地久にして、尽くる事なからん』と、知らず、奏せんに、御疑ひあるべからず」と言ひて、玉妃去りぬ。方士、帰り参りて、皇帝に奏聞す。「さる事あり、方士、誤りなし」とて、飛車に乗り、我が朝(ちょう)、尾張の国に天下り、八剣(やつるぎ)の明神と顕れ給ふ。楊貴妃は、熱田の明神にてぞ渡らせ給ひける。蓬莱宮、即ちこの所とぞ申まうす。
(【大意】 楊貴妃のことを忘れられない唐の玄宗皇帝は、蜀の方士に探させた。方士は、太真苑=蓬莱宮(熱田神宮)で楊貴妃に会った。方士が「玄宗皇帝に報告する。証拠が欲しい」と言うと、楊貴妃は簪の一部を与えた。方士が「これはよくある物。玄宗皇帝と楊貴妃の2人だけしか知らない密約を知りたい」と言うと、楊貴妃は、天宝14年(755年)7月7日、「天にありて、願はくは比翼の鳥、地にありて、願はくは連理の枝、天長地久にして、尽くる事なからん」と約束したことを教えた。方士は唐に帰り、玄宗皇帝に簪を渡し、七夕の夜の密約を聞いたと報告すると、玄宗皇帝は「楊貴妃に間違いない」として、熱田に来て、熱田神宮別宮・八剣宮の御祭神となった。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877589/38

 

■東三河から熱田へ

 

「徳川家康の自立」の時期
https://note.com/senmi/n/n4ef12758ff28

牛久保戦国紀行
https://note.com/senmi/n/neba0de9bdf96

牧野氏について
https://note.com/senmi/n/n5f636af3fc75

 

徐福と秦氏
https://note.com/senmi/n/n4af098edd8f5

 

白居易「長恨歌」

https://note.com/senmi/n/n304c495f1032

 

熱田大神=楊貴妃!?

https://note.com/senmi/n/n8363ee7bdce3

 

熱田神宮の御祭神はどなた?
https://note.com/senmi/n/n4941867405cc

 

『土佐物語』「長宗我部弥三郎実名の事」
https://note.com/senmi/n/n11854df06fc5#TmXAJ

 

「本能寺の変」の真相★高島孫右衛門『元親記』
https://note.com/senmi/n/nae376f7ffb37

 

斉藤高政と秦始皇帝
https://note.com/senmi/n/ncbd8f3f9190e

 

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