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大器は早成し、小器は晩成する

50代で仲間と一緒に飲食業を起業、煩悩即菩提的なブログ

原発政策が総選挙の争点になるかのようにいっている政党がありますが、そもそも、原発の取り扱いについては、当面では二つ、長期的に見て三つの選択肢しかありません。


当面の選択肢は、


1、再稼働する

2、再稼働しない


です。

安全性が確認されたら容認するとか、しないとか、細かいことを言って、違いがあるかのようなことを言っている政党もありますが、どの政党も安全でないものを稼働させるなどということはいう訳はないのです。


安全性とは関係なく再稼働させないと言っている政党は、明らかに方針が違います。

でも、彼ら、そうした場合の日本社会がどのようになり、国民のライフスタイルがどう変わるべきかについては一言も言いません。


枝野さんが言ったように、原発のコスト計算が安すぎたのは事実ですが、火力発電所のコストが下がるわけでもありませんので、今後大幅な電力料金の値上げは避けられません。

国内の雇用が、一定程度失われるのも間違いありません。景気なんかよくなるはずもなく、これまでの消費社会とは様相が変わるはずです。

節電も今のような付け焼刃で済むはずはありません。


長期的に見た場合の選択肢は、


1、再稼働して、原発は続ける

2、再稼働するが、いずれすべての原発は廃炉にする

3、再稼働しない


当面の再稼働のあと原発をどうするかで意見が分かれています。

この場合、代替の電力供給方法が可能であれば廃炉にするが、なければ続けるというのは当然1になります。


2は、廃炉には準備期間(代替手段の開発)が必要だというものです。その場合、期限が来れば、代替手段のコストパフォーマンスが悪くても、廃炉にするというものです。


何年かたって、2の人が、1になる可能性は大いにありますので、今、廃炉にするスケジュールが短い方が、より原発の廃炉に積極的だといえるのかどうかよくわかりません。


国民全体の雰囲気は、原発はない方がいいけれど、今のライフスタイルを積極的に変える気はないという程度です。


ということで、何で原発が総選挙の争点になりうるのか、不思議でしょうがありません。


もう一つ、世の中は、原発をなくすことを言う人をいい人のように言う傾向がありますが、彼らは自らのライフスタイルにおいて、原発を今すぐなくすことの不便さを体現しているのでしょうか。

電力をはじめとするサービス料金が高騰して、失業者が増え、間違いなく貧しくなります。円安になり、輸入品が上がり、生活水準が下がります。

そうしたなかでも、誇り高く生き抜く日本人像を提示し、そのモデルをしてしてほしいのです。


ただ、原発は反対、代替電力の開発で経済が豊かになり、バラ色の社会が実現するというような馬鹿話はいい加減にしてほしいですね。

某政党が昨日発表した公約を読んで、唖然としましたね。人工都市ではミャンマーを思い出しました。そんなものが、まともな国でできると思っているとは、宗教団体かと思いました。

衆議院選挙を前にして、第三極といわれる方々の動きが活発ですが、その中でも維新を名乗る人々が注目されています。


明治維新を誰が言ったかは知りませんが、少なくとも幕末に明治というはずはありませんから、明治になってからできた言葉であることは間違いありません。


明治になって、為政者が、改革に取り組まざるを得ない状況になって、自らの政治行動を維新と言ったのか、または、それらの行動をとらえて誰かが命名したのか。


別に坂本竜馬が船中八策を作ったから、明治維新がなったのではありません。

指針にもなったとも思えません。


幕末の西南雄藩が藩政改革を行い強力な経済力・軍事力を保持し、尊王攘夷を名目に幕藩体制を倒し、新たな中央政権を打ち立ててみたら、新たにやらなければならないことが山ほどあって、それをやろうとすると、従来の制度を全く変えなければいけなくなって、明治維新と呼ばれるようになったわけです。


今、維新を唱えている人が、各地方自治体で何かに取り組み、それが他の自治体に比べ抜きんでている成果を上げたとは思えません。

日本一の金持ち自治体の東京の知事は、銀行を作って巨大な損失を出し、オリンピックの招致活動を繰り返し活動費を一杯使い、国の国防にかかわることに積極的に関与したぐらいで、別にほめられるようなことはしていません。

日本一の問題自治体の大阪でも、難題が次々に解決したという話は聞きません。

共通するのは、庶民受けするよう、敵を作っていじめることぐらいです。


維新をいうなら、すべての組織・企業・国民の既得権の見直しでしょう。

地方への権限や財源の移動をすれば一朝一夕で維新ができるというのは噴飯もんです。


いったい誰が、明治維新や敗戦時のような混乱や変革を望んでいるんですか。

みんな、今の仕事、今の収入にしがみつきながら、もっと楽をさせろと言っているだけです。


結論は、平成維新は、権力への道案内としてお題目に使われているということです。

それで、中央政界に足場が築けるのですから、うまいことを考えたものです。




菅直人氏が、幻冬舎新書から
東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと (幻冬舎新書)/幻冬舎

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という本を出されました。


今日手に入れてこれから読むところです。


で、読む前に原発事故について思っていることを書きます。


報道では、原発事故の反省と対策の前提として、首相の現場への介入が問題であったと当たり前のように書いています。

各事故調が、そのことを指摘していますので、当然かもしれませんが。


ところが、菅さんの行動を否定はしても、このように行動すべきであったということを書いたものを見たことがありません。

何もせずに腕組みしていたらよかったとでもいうのでしょうか。


メディア、危機管理専門家、政治家の諸氏は、菅さんの行動を批判するなら、「私ならこのように行動し、原発事故の被害を最小限にできた」ということを言うべきでしょう。


事故が起こった後、言うのですから、究極の後出しじゃんけんです。

誰でも、菅さんに勝てるんじゃないですか。


太平洋戦争、レイテ沖海戦での栗田艦隊の反転を批判する戦史家・小説家がたくさんいます。

当初は、批判が当然のように受け止められましたが、当時の栗田艦隊が置かれていた環境(作戦目的、戦闘力、情報など)が知られるようになり、それに基づく反論も多く出ています。


まずは、菅さんが悪いというなら、論拠を示して、このようにすべきだった、たとえば「東京電力に任せて、本社に乗りこむようなことはすべきではなかった」とかいうべきでしょう。

そうすれば、主張した人が正しいのかどうかも批判の対象になるわけです。

それで、やっとフェアーな戦いになります。


菅さんが怒鳴りまくった、現場に介入した、などなどで、刑務所に入れといった政治家がいました。

その政治家は、消費税を上げずに財政再建し、官僚改革がいとも簡単にできるといっています。

原発事故も、その政治家が対応すれば、たやすく収束できたというのでしょう。


世の政治家は、アジェンダや船中八策で、国が変えられると本気で思っているのでしょうか。


危機において、菅さんのような瞬発力が発揮できる政治家が、日本に何人いるんですかね。


田中文科相が、大学3校の学部新設を認めませんでした。


これに対して、審議会の答申を認めないのは異例だとか、大臣の思いつきだとか、学生が夢を断たれたとか、相変わらず、前例踏襲を破ることへの抵抗、突然の決定に対する反対が、メディア各局・各紙を賑わしています。


群馬の堀越学園が資産を持っていないことで解散という措置が発表されたとき、在学生がどうのこうのと反対がありましたが、あまりにひどい状態で存続運動は全く広がりませんでした。


1校の解散命令のうしろには、経営破たん寸前の学校法人が山ほどあるにちがいありません。

それらは、審議会が設立が妥当との答申をしてきた大学です。

審議会は、将来破たんする可能性は審査していないようです。


年金制度が少子化で見直さざるを得ないことに厚労省が目をつぶってきたのと同じです。

今や大学進学率は上限に張り付き、大学で学ぶ意思も意欲もない学生が山ほど入学してきます。留学生と言えば、単に出稼ぎにきた労働者も多く含まれています。


田中文科相が投げかけた問題はそれほど深刻な事なのです。


日本の行政が、文部に関わらず、何か変革をしようとしたとき、反対は山ほどあります。なかには聞くに値しないものが山ほどあります。昔、東京都心で児童がいなくなったので、小学校を統廃合しようとしたとき、母校がなくなるのはさみしいという卒業生の反対運動がありました。


僕が知っているという事は、そのことが新聞に載ったということです。

新聞は何を考えて記事にしたのでしょうか。頭が空っぽだとしか思えません。


今回も4年制に移行すると思っていて、夢を断たれた学生がいるとかいないとか。就職の予定はないので困っているとか。夢を断たれたとは、もう2年簡単に学生でいられる夢ですか。そんなものが夢ですが。本当に学びたいなら、いくらでも方法はあるでしょう。


こんな話を大げさに、正論のようにいうメディア、それに同調する国民が大多数なら、おおよそ変革・改革などというものは日本では不可能です。


所詮、誰も変革など求めていないということでしょう。




遠隔操作による脅迫事件の被疑者が、真犯人からのメールによって無実とされ、各警察本部が謝罪しました。


メディアを見ていると、その原因を警察の知識不足においている報道がほとんどですが、果たしてそうでしょうか。


帝人事件、横浜事件に代表される犯罪・犯人のでっち上げから、最近の電車内の痴漢事件まで、犯人をとにかく捕まえればいいというのは、戦前から警察・検察に染みついた性のようなものと思われます。


日本社会・国民・メディアが求める、高い検挙率、裁判における有罪率を背景に、今も犯人のでっち上げが普通に行われていることが、今回の事件で改めて明らかになりました。


多くのでっち上げ・冤罪事件では、犯人らしき人(前科のある人、無職、高齢男性の独身、水商売、などなど)を仕立てるため、なかなか表に出ませんが、相当多くの人が冤罪で罰せられていると考えられます。


今回は、犯罪の種類から、被疑者が普通の生活を送っている人であったため、冤罪が厳しく糾弾されているだけです。


被疑者が知らないこと、考え付かないことが、上申書に書かれているということは、警察が捜査上で知ったことを被疑者に書かせたと考えるのは当たり前で、そうした捜査手法は、長年蓄積され伝授されてきたことです。


そうした、誘導は、これまでにも多くの冤罪事件で指摘されてきたことです。


でも、社会が国民が、とにかく犯人を捕まえろというのですから、警察は犯人かどうかにかかわらず捕まえざるを得ず、検事は捕まえたからには起訴せざるを得ず、裁判官は有罪にせざるをえないというのが、日本社会です。


捕まったら、しょうがないとあきらめるしかありません。