「させてくれる愛」から「あった愛」に気づく | 【千葉・オンライン】 はじめのいっぽのブログ

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こんにちは。

 
とも です。
 
兼ねてから、
めちゃくちゃ気になっとった
「させてくれる愛」
志緒村亜希子さん(以下あっこさん)から
学ぶ機会が来ますた。



あっこさんの講座は「アツい!」とは
FBとかで見てはいたけど、
 
うーー!なんだろう!
紡がれるコトバに力があるというか
ぐいぐい惹き込まれる…。
 
魂に響くというか…。
 
一言一句聞き逃したくない感じ。
 
「親子編」ということで
母と子、ワタシと母、的な話から
ワタシと子ども、に
感情がシフトしていった。
 
ワタシたちが生まれてきたのには
理由があって、
 
母を幸せにするために、
そして、自分を知っていくために。
 
ワタシたちは、実は
もともと「完璧な存在」だったが
少しずつ「個性」が目覚めて
発揮される度に
より愛されるために、
応えてもらうために、
認めてもらうために
「捨てて」いったものがある。
 
その捨てたものは、
母も同じく捨てていったもの。

ワタシが、それを
「悪気なく表現すること」が
母にとっては反応のタネになり
そうすること、そう在ることは
ダメだと戒められ、叱られ、悲しませてきた。
 
だからね、
 
ワタシは、悪くなかった。
ワタシは、罪人ではなかった。

もう罪悪感を持って生きていく必要はない
、と。
 
なんか、なんだろう。
分かってたことでもあったはず、だけれど
改めてあっこさんから聞くと、

ほどけて、緩まって、

そうだ、そうだよ。
もう、いいんだよ。
もう、ワタシを許して癒していいんだよ。
捨てたピースを戻しに行って
本来のワタシで生きていって
もう、大丈夫、なんだ。

 
改めて思えた。
 
母もワタシと同じもの、を
 
このままではダメだと
このままでは愛されないと
捨てていったのかな…。
 
そう思うと泣けた。
 
その後、ワークをして
やっぱり出てきた

ガマンすること。

いろいろ出てきたけれど、
結局は
「ワタシが、ガマンする」。
ここに集約されるのだ。

あっこさんがご自身のことで
話をしてくれたのだけれど、
その話で涙腺崩壊。

途端に子どもらにリンクしてった。
 
生まれて1週間の長男に
夜泣きがうるさい!と
怒鳴りつけたこと。
 
里帰りから戻った自宅で
家事も育児も理想通りにできず
思い通りに動かないカラダとに
怒りをあてたり、
情けなさで怒鳴りながら、
長男の前で自分を叩いたりぶったり
泣きわめいたこと
 
子連れの友人同士ででかけた際、
友人たちに置いてかれて
奔放に駆け回って手がかかる長男を
力づくで押さえつけて、
言うこと聞け!
邪魔しないでよ!と
睨みつけたこと。
 
もう触れられるのもキツくて
自分の都合で断乳したこと。
 
首周りを触られるのがイヤなのに
触られ続けて
触らないでよ!
と手を払い除けたこと。
 
他にも怒鳴りつけたり
手を払い除けたり、
突き飛ばしたことも数知れない。
 
長男と違って、
自身の姿勢を折ろうとしない次男@2歳にも
同じことをしたり、

やりたいことは
絶対遂行するタイプ(ガマンしない)
次男だからこそ

よりヒドイことも、
したりしたーーー。

ーーーつい最近も実はそうだった。
 
自分の在り方にモヤモヤしていた。

そんな自分でもいい。

とする一方
 
なんて母だろう、
なんてオトナだろう
未熟だな、
ダメだな
どうしてガマンが
できないんだろう
どうして受け止められないんだろう
どうしてぶつけちゃうのか、
クソ自分勝手だ、
冷たい、愛情がない…

そんな風に責めて
罪悪感を感じていたんだ。

でも、そんなワタシ、
なのに、
愛はある、らしい。

そこでもう、もう
涙が止まらなかった。

そう、子どもが生まれてから、
子どもらが
ワタシの捨てたピースを、
差し出してくるんだ。
 
これでしょう、母ちゃん。
 
って。
悪気なく、
容赦なく。
 
ガマンしなくて
もう、いいんだよ。

って。

頼っていいんだよ。
弱音を吐いていいんだよ。
甘えていいんだよ。
助けてもらっていいんだよ。
 
って。

捨てて、
なかったことにしていたものを
子ども等は知ってか知らずか
拾って目の前に差し出してくる。

ワタシを純粋に愛してくれながら。

それが許せなかった。
しれっと差し出してくることが。

苦しくて、
時に投げつけられているように感じて
時に悪意も感じられて(妄想)
ふざけるな、と
打ち返したり
ねじ伏せたり
払いのけたりして。

けれど、それが
ワタシの捨てたものだと
分かっているから。
ホントはワタシも
分かっているから。

だから、
あんなに涙が出てきてたんだ。
差し出されて揺さぶられるたびに
突き返し怒りながら
ああ、それなんだね、おかえり。
と涙を流していたんだ。
 
怒り感情など最も必要ない、と
捨ててきたワタシに

怒りを感じていいんだ。

それが「生きている」
ということだから、と
「経験」させてくれる子どもら。


喜怒哀楽を感じられることが
「生きている」ということ。
「経験」できること。
 
ワタシにだけ感じられるオリジナリティ。
ワタシの感じてきたものはワタシだけのもの。
 
こんなダメな、こんなクソみたいな、
と思っていた自分。

でも、そう感じられることも愛。
不快さえ感じられることも愛なんだ。

と強く語ってた(ように感じた)
あっこさん。

もうもう、
響きまくって涙が止まらず、
こらえきれなくて
しゃくりあげる始末。

いいんだよ、
たくさん泣いていい。

泣けてよかった。

あっこさんも、かずちゃんも
寄り添ってくれた。



愛なんて「ない」と思ってた。

こんな自分のことしか考えられない、
自分のことしか興味がない
自分勝手な自分に
愛なんてないと思ってた。

そして自分の感じること
湧き上がる想いは
なんて
なんて稚拙なんだろう。
そう思ってた。

周りの発言を聞きながら、
もっとカッコいい風に思えないのか
カッコいい表現はできないのか
そんな風に恥じていた。

自分に恥じてた。

でも、お話を聞きながら、
いいんだ。
素直に思えた。

ワタシだから経験できて
ワタシだから感じられたこと。

恥ずかしいなんて、ない。

表現してみていいんだ。
素直に出してみていいんだ。

感じられることは生きていること。
今、ワタシは生きてる。

いいじゃない、謳歌しようよ…
いいじゃない、恥ずかしくなんかないよ?

尊い、じゃないか…。
表現していいんだよ…。

って、素直に思えた…。

ああ、ホント文章にすると平たい感じだ。
感動したんだ、とにかく。

子どもが生まれる前に
ワタシは愛が分からない、と
悩んでいた時期があった。

でも、あった。みたい。
ワタシには愛があったみたい。
あったんだ。

ある、としてみよう。
「ある」前提で過ごしてみよう。



【終わってから感じた気持ちを書いてみて
と言われて書いたひとこと】

また、月末が楽しみです。

これは「揺さぶられる」ママたちに
聞いてほしいなぁ。
うん、子どもだけじゃなくてね。

かずちゃんも、
たくさんよりそってくれました。
ホントにありがとう。嬉しかった。

心屋はココロほどけて泣ける場所。

本来の自分に戻れる
捨ててしまったピースを
これかな?って教えてくれる
愛のある場所。