テレビ番組の多くが、日本人を破壊するために流されている。
破壊対象のひとつが日本語であると断言してよいと思う。
まともな日本語が話せないように。
まともな日本語を使ったまともな思考ができないように。
まともな日本語を通じた繊細な感覚を育まないように。
こういった目的による破壊工作が日々重ねられているのである。
おれはそれほどテレビは観ない。
ニューズは「精読」に堪えないので「斜め読み」。
あとは、厳選したドラマを録画して視聴する程度である。
テレビとはそのような接し方をしているのだが、それでもCMからは逃れられず、隙を突いて懐に入ってこようとするバラエティー番組も目に入ってしまう。
そういったところから、ある日本語破壊のワードが耳に忍びこんでくる。
その耳障りなワードとは、
「めちゃくちゃ」
だ。
「めっちゃ」とか「めちゃめちゃ」とか「むちゃくちゃ」も同じ部類に括られる。
もう、この言葉を使わなければ、ひと言もしゃべれないのか、というほど多用、乱用、濫用されている。
もともと「滅茶苦茶」や「滅茶滅茶」は名詞および形容動詞であるから、本来は、「滅茶苦茶にする」とか「滅茶苦茶だ」という言いまわしが適当だ。
一方で、関西圏では以前より「めちゃくちゃ」「むちゃくちゃ」が副詞として慣用されている。
最近のタレントや芸人などが多用する「めちゃくちゃ」もこれにならい、なんらかの形容詞を修飾(強調)している。(以下「めちゃめちゃ」「めっちゃ」「むちゃくちゃ」「めっさ」なども同様)
もっとも多く発生するのが、グルメの番組・コーナーにおける、
「めちゃくちゃ美味しい」
だ。
大喰いで名を馳せたアラレちゃん眼鏡の女性タレントなど、なにを、どう食べても「めちゃくちゃ美味しい」という感想しか口にしない。(まあ、彼女は何を食べても同じなのだろうが)
別にギャ○曽根氏を個人攻撃しているわけではなく、他のタレントにしても大同小異。
副詞だと思っていると、先日、
「メッチャ人来た」
という表現を聞いた(多くはテロップでも流れるので、眼で読んでもいる)。
これなどは、「メッチャたくさん人が来た(人なんかほとんど来ないと思ってたけど、予想外に多く来た)」という意味で使われていたようだ。
もう、なんでもありだ。
しかし、この言葉は、本来はたいへん効果的な修飾語だった。
おれが40年ほど前に読んだ呉智英の『インテリ大戦争』(1984年新装第1刷/JICC出版局)中、三角寛の『サンカ社会の研究』を絶賛する文章のなかに次のような表現があり、初めて読んだおれはそれなりのインパクトを受けた。
この本はむちゃくちゃにおもしろい。おもしろすぎる。おもしろすぎて学者が困惑するほどの研究書である。ずっと絶版で、べらぼうな古書価がついている。
せっかく使うなら、このくらいのシチュエーションで使ってほしいと思うのだ。
本来「驚愕レベル」の修飾語のはずなのに、「ふつうの感想レベル」であっても、安易に使う。
感激の沸点が低すぎるということなのかもしれない。
しかし、これは今に始まったことではない。
振り返るとかなり以前のことになるのだが、「超○○」という表現が流行ったこともある(現在でも、ときどき使われている)。
超、超、超・・・。
当時おれは、「なんでもかんでも超だけでいいのか?」と思いながらも、
その一方で、
「でも、古典の世界でも『いとおかし』が多用されているよな」とふと思った憶えがある。
国語の古典の授業などで、この箇所の「おかし」はどういう意味で使われているか、という問いがあったりする。
つまり、「おかし」にはいろいろな意味がふくまれており、逆にいえば、多種多様な意味や感情を「おかし」という言葉ひとつで表現しているわけである。
だから、場面や状況や程度に応じてそれぞれ表現を使い分けるべきところを、ひとつのキャッチーで汎用性のある表現で済ませることは、日本語の歴史において繰り返されてきた事象であり、日本語表現としてそれほど問題ではないのかなと、沈思黙考した憶えがある。
・・・でも、といま思う。
いまから思えば「超」にしても、古典のなかの「いとおかし」にしても、現在の「めちゃくちゃ」に較べれば、なるほどと思われる状況で、ある程度効果的に使用されていたのではないかと感じるのだ。
いまや「めちゃくちゃ」は一種の口癖と化し、さほどの意味も、思い入れも、パッションもなく、たんなる枕詞として使われている。
「超」もそうだったかもしれないが、現在の「めちゃくちゃ」と比較すれば、それなりに、しかるべき状況やタイミングで使われていたように思うのだ。
本当にすごいときにしか、「超すごい」といわなかった、とかね。
あくまでおれの主観だが。
すこし話は変わるが、たぶん高校生のときに、テレビで井上ひさしの講演会の模様が録画中継されていた。井上ひさしだけに、テーマは「言葉」についてだったが、詳細はもう憶えていない。
その講演会のなかでいまでも記憶に残っているもののひとつが、「言葉の意味の低下」だった。
始めは良い意味で使われていた言葉が、多く使われることで、または、永きに亘って使われることで、あるいは、不適当な使い方をされることで、意味や価値が低下してしまう場合があるということだ。
例として挙げられていたのが、たしか、英語の“queen”だった。
これにはもちろん「女王」という意味があるのだが、一方で「娼婦」という意味で用いられることもある。
この「意味の低下」のことを井上ひさしが講演会でなんという言葉で表現していたか、その単語(英語)は残念ながら憶えていない。(“pejoration”の公算が高いが、確かではない)
しかし、言葉がインフレを起こす事象はたしかにある。
「めちゃくちゃ」「めちゃめちゃ」「めっちゃ」「むちゃくちゃ」という言葉も、いまのような使い方をしていると、早晩意味も価値も失われてしまうだろう。
先ほども言ったように、もはや「めちゃくちゃ」は形骸化し、たんなる口癖となり、何か言おうとしたときに反射的に付随してしまう感嘆符的なものでしかなくなり、意味も訴求力もふくまれていない、空虚な修飾語モドキと化している。
テレビでもSNSでもなんでもよい。プロのタレントでも一般の人でもかまわない。
そのなかに「めちゃくちゃ○○○」という発言があったら、ためしに、そこから「めちゃくちゃ」を消し去り、単に「○○○」だけを認識してみるとよい。
たとえ「めちゃくちゃ」を外しても、表現の強調度合に違いはなく、「めちゃくちゃ」などなくても、充分に言いたいことは伝わっているはずだ。(正確には、「めちゃくちゃ」をつけなくても伝わる程度のことしか言っていない)
さらに言えば、「めっちゃくちゃ旨い」と力説しているように見えて、じつは単に「旨い」と言ったとき程度の感情しか抱いていないのだ。
「めちゃくちゃ」はすでに死語だという説もあるが、さもありなん。
濫用されたことによって、廃れ、意味を失い、透明化してしまったというわけだ。
なにもかもをひとつの言葉で表現することにより、ボキャブラリーが貧弱化し、表現や感情の繊微さが失われる。それだけではなく、「めちゃくちゃ」という、使いようによっては非常に効果的な表現のひとつを損ないつつあるのである。
「超」が流行した数十年前より、テレビによる日本語の破壊活動が活発になっているように思われる。
これも、意識していなければやられてしまう「戦争」なのだ。
同じ「戦争」をするなら、こちら。
余談だが、queenに「娼婦」や「売春婦」という意味があることは、辞書によっては載っていない。
たとえ載っている辞書でもたいてい(英古語)となっているので、現在はあまり使われていないのかもしれない。
だが、少なくとも使われていた時代はあったのだ。
queenには他に「男性の同○愛者(とくに女役)」という意味もある。
フレディ・マーキュリーの「クイーン」が果たしてどういう意味をふくんでいるのか、という論議は昔からあったようだ。
・・・・・・。
※「言葉の意味の低下」について、井上ひさしが評論やエッセーでも触れていないかと探したことがあるのですが、見つけられませんでした。どなたかご存知の方がいらっしゃれば、是非教えていただきたく存じます。