スマホ・ネイティブ と 痛バ~~~ス | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

マクラ的な話題。

バカバカしくて、マスメディア・ニューズの最新(似非)情報をいちいち追っているわけではないのだが、小林製薬の「紅麹サプリ」で「健康被害」が出たロット。そこになんらかの異物(現在のところ青カビから産生されるという「プベルル酸」を有力視している)が混入したのが原因かもしれない、という段階だが、そもそも紅麹とプベルル酸の関連性は極めて薄いと言われている。



つまり本当に異物が混入し、それが本当に健康被害をもたらしているのだとしたら、それはたんなるコンタミであり、あくまでも製造工程の問題であって、紅麹自体は無実である。それをあたかも「紅麹が悪い」とイメージ操作をし、小林製薬の経営陣の生活模様までこき下ろし、あまつさえ「機能性表示食品」制度自体に問題があるのではないかという方向に持っていこうとしている。

極端なシープルに至っては、「もう何も信用できない! もう健康食品は摂らない!」とヒステリーを起こす始末である。


でも・・・惑沈のことは・・・信用・・・したよね・・・。


マスメディアが「大丈夫だよ~」と言えば信用し、マスメディアが「問題だ、問題だ!」と言えば否定する。


惑沈被害の隠蔽・牽制。

日本食文化の否定。

サプリメント制度の否定。

特定企業への報復。

 

他の重要案件(たとえば、NTT法改正)の目くらまし。

マスメディアの売上・視聴率増。


といったところが目的なのだろうが、もう、ホント、うんざりだ。

すでにネタが出尽くしたのか、これ以上深追いすると逆にボロが出ることを怖れてなのか、最近、急に報道が下火になった。

 

イメージ操作はもう済んだということなのか。



・・・・・・。


さて、本題。



定年退職までのカウントダウンが始まっているおれから見ると、4月から会社員となったと思われる若い人たちの姿は、微笑ましいと同時に、やや「痛々しく」もある。


「老人」や「年配者」が若者を無条件に「うらやましい」と見ていると思ったら大間違いで、もちろん、羨ましいところは沢山あるのだが、そこに一抹の痛ましさを感じているのも事実なのだ。


若者本人がどこまで自覚しているかは判らないが、(ある程度成熟している)年配者からすると、若いがゆえの未熟さ、無知、視野の狭さが手に取るように解かる。それゆえに、もうあの「滑稽」(byピノッキオ)な姿にはもどりたくないと思うし、さらには、二十代の若者たちが、今後体験していくであろう「苦労」の数々もある程度「見える」。


とくに会社員としての苦労は、かなりの精度で予想できる。


三島由紀夫の作品中、文学的評価は低いものの、おれが好きな『鏡子の家』という作品の主要登場人物:杉本清一郎に、まさにニヒリズムに満ちた述懐がある。
 

新入社員たちのあのしゃっちょこばった若々しさ、目の過剰な輝き、人に快く思われたく又へつらって見られたくないという固苦しい微笑、失敗しては頭をかく青年独特の常套的動作、ハキハキした態度を見せようとする筋肉の不断の緊張、何事にでも身を挺しようとしている献身的エネルギー、‥‥‥すべてそれらは目に快いものにはちがいないが、清一郎はむしろ、一ト月たち二月たって、彼らの顔がしらずしらず倦怠と不安と幻滅の予感に蝕まれてゆくのを見るほうが好きだった。


だが、今後世界の多極化が進み、その流れに日本が上手く乗り、かつ、そのまえに日本人や日本文化や日本国土が外国のハゲタカどもに致命的なまでに侵蝕されず、このたびの史上最凶の薬害で身体が損なわれずに済んだ場合、現在の若者の将来は総じて明るいと思う。


おれなどは、これから日本がよくなっても、もう老後であり、余生である(それでも充分だが)


一方の若者世代は、時期的に青年期・中年期に差し掛かったところから豊かな生活を満喫できるのではなかろうか。ただし心身ともに無事であれば・・・、というところにもどってくるのだが。


ところで、「デジタル・ネイティブ」という言葉がある。生まれたときから、パソコンがあった世代のことらしい。

それにつづいて「スマホ・ネイティブ」といわれている世代もある。幼少のときからスマホを操作していた世代で、かえってパソコンが使えなかったりすることもあるようだ。


おれが、いわゆるコンピュータを使用したのは、会社に入ってからである。

ここでちょっと告白すると、おれは大学卒業後、すぐには就職しなかった。
就職浪人というよりは、就職する気そのものがなく、在学中に1日たりとも就職活動をしなかった。
修士課程への進学も念頭にあったが、アカディミズム以外の可能性も捨てきれなかったため決心がつかず、月間何百kmも走りながら、とりあえずのアルバイトでエンゲル係数だけは高い生活を送り、数年間の「モラトリアム」を彷徨していた。

だから、初めて正社員として就職したのは二十代後半。


そこで初めてコンピューターに触れたのだから、ネイティブとは真逆である。

しかも最初は、パソコンではなくオフコン(オフィスコンピュータ)で、指示された文書をms-dosというソフトで入力した。漢字変換しないときもいちいち「無変換」キーを押さなければ、せっかく入力した文字が消えてしまうのだが、始めはその操作をつい忘れがちで、シンプルな1行の文章を入力するのに何分もかかった覚えがある。

だが、それも今は昔。

その後、すぐにパソコンの時代になるのだが、いわゆる「ザ・事務」的な部署でWord・Excel・Access操作に習熟したのち、企画・販促の部署にしばらく配属されていたため、画像作成・編集、動画作成・編集にも関わった。PowerPointを基にアニメーション動画を作成するのもお手のものだ。

アプリが入っていれば、スマホで動画を作成することも可能である。


日常生活上では電磁波の影響を懸念しているので、複数の電子機器をWi-FiやBluetoothで過剰に接続することはしていないが、接続の理屈や方法は理解している。

たとえネイティブじゃなくても、慣れればなんでもできるものだ。


「なんでも」といっても、システムエンジニアやハッカーのような芸当などできないが、現在身につけている程度の技能で、自分としては満足している。


そして、ネイティブの人が、必ずしもプログラミングができるというわけではない。



そうなると、おれから見て、デジタル・ネイティブ、スマホ・ネイティブである利点は、じつはほとんどないのである。楽器などとはちがって、幼少期から始めたほうが習熟度が高くなるというわけでもなさそうだ。


むしろ、人生に「スマホが無かった時代」が無かったことの弊害が、傍から見ていて気になってしまう。


以下、「ネイティブ」といっても、世代(年齢)でひと括りにできるものではないのはもちろん、同じ年齢層であっても「ネイティブ」の弊害に当て嵌まらない人も少なくない、ということを前提とした上で、先日(今週月曜日)朝の通勤時、電車内で遭遇したことを紹介する。


見るからに会社に入社したばかりと思われるスーツ姿の女性ふたりが、おれのすぐ近くに立った。





たぶん、新入社員研修かなにかで、その日初めて赴く場所にむかっていると思われる。

というのも、各々がスマホ片手に電車の経路を検索し、「○○駅で□□線に乗り換えて・・・」という会話を交わしていたからだ。けっこう時間をかけて検索していた。乗ってきたときから、降りていく直前まで、ほとんどスマホ画面を凝視していたのではなかろうか。


おれだったら・・・、という感想をいだかずにいられない。


おれだったら、家(あるいは、研修期間中に宿泊しているホテル)を出るまえに、経路を調べておくだろう。記憶している駅名が正しいかどうかを電車内でスマホで再確認するというくらいのことはするかもしれないが、電車に乗ってから初めて経路を調べ始めるということは、まずあり得ないと思うのだ。


調べる手段がスマホである、ということ自体は問題ない。個人ではパソコンを持っていない人も多いだろう。


調べる媒体ではなく、調べ方に、おれとは径庭(距離)を感じてしまう。


たしかに「いつでも、どこでも、思いついたときに情報が得られる」という利点がスマホ検索にはあると思う。

 

 

だが、その表面的な利点を寸毫も疑っていないということに危うさを感じてしまうのだ。


半生において「スマホが無かった時代」が長い者にとって、スマホなどというものは生活のごく一部にすぎず、スマホ(検索)に全幅の信頼を置いてもいない。

 

偽情報も少なくない、と警戒している。

また、スマホに個人の全データを集約させたり、銀行口座と紐付けさせて自動でチャージができるように設定したスマホで改札を通ったりする、といったことにも、セキュリティ上の抵抗を感じてしまう。

スマホに頼り切ってもいず、依存してもいず、弊害や陥穽も理解していて、スマホが無い場合の対処方法も、あたりまえのように知っている。



いわゆる「ネイティブ」というのは、この逆といえるのではないか。


スマホがすべてであり、スマホ画面以外の現実はむしろ「虚」であり、操作していることが「至高」の状態であり、画面を見ていない時間は「損失」であり、スマホはけっして裏切らず、思いついたときに即「正しい情報」が得られるのであるから事前の準備や調査は不要であり、そしてスマホが無い生活は考えられない・・・という認識を有しているのが「ネイティブ」である。


おそるべき「錯覚」であり、おれなどからすると、ほとんど「サイバネティクス」とか「メタバース」の世界に片脚以上を突っ込んでいる状態だと思うのだが、本人たちは、それを錯覚とも危機とも思っていない。

 

 

 

もちろん、電車内で経路を検索していたあの女性ふたりが、これら「ネイティブ」の特徴のすべてに当て嵌まるかどうかは断定できない。


しかし、検索の姿勢やタイミングに、その一端が窺えることはたしかであり、若さゆえの痛々しさに加えて、「スマホ・ネイティブ」特有の危うさも感じてしまったわけである。

 

 

 

 

穿った見方をすれば・・・、じつはホテルを出るまえにすでに経路は調べているのに、同行する同期と一緒に経路を検索するやり取りを通じて親密さを深めようとしているとか、あるいは、一緒にいても何を話していいのかわからないので、経路を調べる体裁で時間を潰しているとか、ということも考えられるのだが、仮にそうだとした場合、それはそれで、その気遣いの仕方に危うさを覚える。

 

 

 

評論においては「失敗」と評されている作品だが、おれは好きだ。おもしろいよ。評論家たちは「作品にAの要素が欠けてるから失敗」としており、その理路も分からないではないのだが、おれはAが欠けていても、必ずしも失敗作ではないと思う。