「よく知ってるけど、読んでいなかった」作品シリース ~その3『ピノッキオの冒険』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

高校後半~大学前半くらいまで、おれの「知的英雄」だったSF大作家の小松左京(1931-2011)は、京都大学文学部でイタリア文学を専攻していた。


ところでイタリア文学にはどんな作品があり、作者がいるのか?


世界史の教科書にも出てくる『神曲』のボッカチオや、三島由紀夫にも影響を与えたダンヌンツィオなどが有名だが、小松左京のファンになったばかりのおれには、他のイタリア文学はあまり思い浮かばなかった。

そこで調べた際、かの「ピノキオ」がイタリア文学のひとつだと知った。


ピノキオの名前はほとんど誰でも知っているし、どちらかというとディズニー映画で有名だ。


おれは昔から(半ば本能的に)ディズニー映画はあまり観ないのだが、子どものころテレビで『樫の木モック』(初回放送:1972年(昭和47年)1月4日~12月26日 /フジテレビ系)は楽しんで観ていた。





子どもむけの抄訳を読んでいる少年少女は多く、原作を元にした映画やアニメもよく観られているが、原作の児童文学そのもの(完訳)を読んでいる人はあまりいないのではないか・・・、というおれの勝手な見立てによって、今回「知っているが読んでいない」に選んだのが、


カルロ・コッローディ著


『ピノッキオの冒険』


である。


おれが手にとったのは、角川文庫版の【新訳】(2003年2月25日初版発行)で、訳者は大岡玲。
イタリアの児童新聞に1881年から連載のかたちで発表され、1883年にイタリアで出版されている。


ディズニー映画版などとは異なり、原作がかなり残酷で辛辣な内容である、というのは多くの書評でも定番の見解だ。


前述したとおり、おれはディズニー映画版の『ピノキオ』(1940年製作)は観ていないのだが、どうやら映画版では、ゼペットじいさんがピノキオを作ったあと、妖精によって「命」を吹きこまれたという流れになっているようで、おれもそのようにイメージしていたのだが、原作ではそもそもそこから異なる。





原作では、「アントーニオ親方」が、「どうしてそんなことになったのかわからないが」「大工の仕事場になんとなくころがっていた」「棒っきれ」を手にし、テーブルの脚でも作ろうと「最初のひとけずりをやろうと手斧をかまえたとたん、」その棒っきれが親方にむかって話しかけてくる。


吃驚仰天した親方が床にひっくり返っているところに、極貧の「ジェッペットじいさん」が訪ねてきた。
彼は銭かせぎの大道芸のためにあやつり人形を作ろうと考え、その材料を大工の親方にもらおうとして来たのである。


そして、しゃべる棒っきれで作られたあやつり人形は、作られている途中からジェッペットじいさんをからかい、完成して歩き方を教わるやいなや、暴れて家から逃げ出すのだ。


つまり、あやつり人形となってから命を授かったわけではなく、最初から(経緯は不明だが)命のある木材で作られたのがピノッキオなのである。


なお、ジェッペットじいさんは、木がしゃべったり動いたりすることを、さほど不思議と思っていない節がある。ただただ自分で作製したあやつり人形に、最初から我が子に向けるように愛情を注ぐ。


だが、そのような無償の愛情や、賢い「コオロギ」の忠告、あるいは青い髪の仙女の慈愛などをことごとくムダにし、無知ゆえに、怠慢ゆえに、あるいは意思薄弱ゆえに、世間の危険や厳しさにさらされていく。


ここで描かれる危険や厳しさが、一見、童話にはふさわしくないほど容赦がなく、苛烈なのだ。

ピノッキオが「子ども」だからといって、世間は簡単に食べ物を恵んでくれず、ピノッキオは飢餓に近いほどの激しい空腹にさいなまれたりする。


無知ゆえに、というのは、愚かな振る舞いをときに「よかれと思って」してしまうことも意味する。



序盤、ピノッキオは幸運にも金貨五枚という、子どもにとっての「大金」を手に入れる。
(この作品では、仙女の救済もふくめ、「棚からボタ餅」的な幸運もたびたび起こる)

その金貨を狙ってキツネとネコの凶悪な詐欺師が近づいてくる。その詐欺師コンビは、自分たちのアドバイスに従えば、金貨を何千枚にも増やせると言う。ここでのピノッキオは、ジェッペットじいさんに申し訳ないことをしたと反省していて、おじいさんのために金貨を増やせるならと思って甘言に乗ってしまう。

途中、もしかしたら幸運にも詐欺の魔の手から逃れられるのではないか、ピノッキオが詐欺であることに気づくのではないか、と期待させる場面もあるのだが、やはり案の定というべきか、結果として全ての金貨をだまし盗られてしまうのだ。


その後も同様のことがなんども繰り返される。

簡単に騙されつづけるピノッキオの思考に対し、

「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」

という伊丹万作の箴言を思い浮かべてしまうほどだった。


酷い目に遭う

   

なんとか助かる(助けられる)

   

反省して、これからは「よい子」になると誓う


   

新手の誘惑に導かれて、また酷い目に遭うの繰り返し。


読んでいて、「懲りないな~」「学習能力がないな~」「そこまで誘惑に弱いのか~」と思うこと請け合いだが、しかし、これこそが子どもの成長過程の「リアル」かもしれない。

子どもには伊丹万作の言葉は酷すぎる。子どもには。



一度や二度の失敗ではなかなか懲りない。


一度や二度の失敗ではなかなか学ばない。


なんど失敗しても、「休みたい」「遊びたい」という誘惑にはなかなか勝てない(大人でも)。


ピノッキオに降りかかる災難にしても、思わぬ僥倖が結果的に罠となることもあり、その災難が別の困難を解決する端緒となったりする。


まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」


悪友の誘いをなんども断ろうとしながらも、結局誘いに乗って「おもちゃの国」に行ってしまい、そこで遊びほうけているうちに、ピノッキオも、ピノッキオを誘った悪友もあろうことかロバと化し、ピノッキオ・ロバは悪辣なサーカス団に売り飛ばされる。


だが災い転じて福となり、最大のピンチからなんとか逃れて、もとのあやつり人形にもどったピノッキオは、体長1キロメートルにもおよぶ巨大なサメに呑みこまれるというさらなる危機に陥るが、またしても災い転じて、永らく離れ離れになっていたジェッペットじいさんとサメの体内で再会を果たす。

開巻早々から言えることだが、このように意外性に満ちた、奇想ともいえるシークエンスは童話として見事だと思う。


ジェッペットじいさんを命がけで守りながらサメから無事脱出したのち、ピノッキオはいよいよ心底反省し、品行方正で勤勉な性格に変わる。そして、よく知られるように、仙女の魔法(?)によって、あやつり人形は、最後に「人間の子ども」となるのだ。


だが、このラストシーンが、おれにとってはやや意外だった。
なにが意外なのか、該当する箇所を引用してみる。

 

「昨日までの、あの木のピノッキオは、どこに隠れちゃったの?」
「あそこさ」と、ジェッペットじいさんは答えながら、椅子によりかかっている大きな木の人形を指さした。
 見ると、人形は、頭を片方にかしげ、両腕をぶらんとたらし、足は真ん中でからまってまがっていた。よく今までまっすぐ立っていられたものだ、と不思議に思えてくる姿だった。
 ピノッキオは、人形のほうをむいてながめていた。(P297-298)

 

つまり、「あやつり人形」が「人間の子供」に変わったのではなく、あやつり人形だったときの意識と記憶を持っている人間の子どもが、あらたに誕生したのである。

 

「あやつり人形だったころのぼくって、なんて滑稽だったんだろう。こうしてちゃんとした人間の子になれて、ほんとうによかったな!」(P298)

 

あやつり人形だったときの自分を懐かしむのでもなく、よくガンバったと褒めるわけでもない。無知で未熟で高慢だった自分のことを、あえなく否定しているわけである。

否定するのか・・・と思いながらも思い直す。


本気で全否定するなら、ここで「滑稽」という表現ではなく、たとえば「醜い」といった言葉を遣うのではあるまいか。


「なんて醜かったんだろう」ではなく、「なんて滑稽だったんだろう」


そこに、最大級の含意があるように思われる。


 

 

 



嘘をつくと鼻が伸びる、という有名な設定(アイデア)は原作から登場する。

おれは日常(とくに家庭内では)、あきらかに嘘とわかるホラ話をするのが好きなのだが、そのようなときは家族から「また鼻が伸びてるよ」とたしなめられる・・・というのがお決まりのパターンだ。