第76回 三島由紀夫『若きサムライのために』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

最近、「若いときに三島由紀夫を読んでいてよかったな」と思う。


もちろん、中・高年になってくると、「若いときに○○をしておいてよかった」と喜ばしく思う局面と、「△△をやっておけばよかった」と後悔の念をいだく場面が、ともにあると思う。


読書に限っていうなら、その人その人によって、三島由紀夫の代わりにどの作家を当て嵌めてみてもよい。それぞれが、「○○を読んでいてよかった」「○○を読んでいなければ今の私はない」と考えていても不思議ではない。


逆に、興味がなく、これまで読む気になれなかった作家の作品を「読んでいた場合」のことは想像できない。

例えば、おれはこれまで(なぜか)村上春樹は1作品も読んだことはないのだが、「村上春樹を愛読していたおれ」のことなど知る由もないし、(なぜか)今後も読むとは思えない。


一方で、「若いときにもっと谷崎潤一郎を読んでいればよかった」と軽く後悔している。まったく読んでいなかったわけではないのだが、もっともっと谷崎作品に触れていればよかったなと思い、ここ数年来、意識的に読むようにしている。先日読了したのは、夫婦の日記の体裁の「鍵」だ。


三島由紀夫を読んでいてよかったと思うのは、「グローバリズム」と「ナショナリズム」との相克が前景化してきた時代にあって、生粋の(と言っていいだろう)ナショナリストである三島由紀夫の言説が、遅効的に重みを増し、「反グローバリズム」に立つおれの理論・精神武装になっているからだ。


心強い。


今回取りあげるのは、本年10月6日に投稿した「背中で聴いたノーベル賞」ですこし触れた



『若きサムライのために』


である!!!


昭和41年から44年にかけて、複数の雑誌に掲載されたエッセイ、評論、対談をまとめたものだ。



本書のメインディッシュともいえる「若きサムライのための精神講和」は、「Pochet パンチ Oh!」という若者向け雑誌に、昭和43年5月号から44年4月号まで掲載されたものである。


前段的な「若きサムライのために」を始め、「勇者とは」「作法とは」「肉体について」など、12の主題について述べている。


この「□□とは」や「□□について」の□□は、題名が示すとおり、「サムライに於ける□□」「サムライにとっての□□」という意味だ。もちろん、この「サムライ」というのは狭義の「侍」や「武士」とイコールではなく、三島の考える「サムライ」であり、三島の考える「男」とほぼ同義である。


文中、「女にとっての□□」にも触れているが、メインはあくまでもサムライ ≒ 男にとっての□□だ。そして、現状とのギャップ・落差・乖離を嘆き、非難し、そして嗤っているのだ。


そう、嗤っている。


それは、「若きサムライのための精神講和」全体に通底している姿勢であり、現状を心底、憂いながらも、ある程度「年をとった」似非インテリについては、もうどうにもならないと匙を投げ、将来、サムライに「なり得る」若者に、「ああなっちゃ駄目だぞ」と説いているようにも思えるのだ。


「才能のない者」が「ほんとうの文学」に触れてしまったときの怖ろしさを説いた「文弱の徒について」や、「能力を発揮しないように努力すること」を強いられる社会の苦痛について述べた「努力について」も秀逸だが、12項目のうち、おれのお気に入りは「羞恥について」だ。

日本古来・・・というか「明治の男」に残っていたような「サムライの羞恥」は、すでにほとんど残っていない
 

 言論の自由の名のもとに、人々が自分の未熟な、ばからしい言論を大声で主張する世の中は、自分の言論に対するつつしみ深さというものが忘れられた世の中でもある。人々は、自分の意見――政治的意見ですらも何ら羞恥心を持たずに発言する。(P-63)

 

この指摘には、あらためて襟を正したくなるが、少なくとも当ブログでは、「無根拠」「無思慮」「無責任」を避けるべく心がけている。

発言はつづく。

 

 いまの若い人たちの意見の発表のしかたを見ると、羞恥心のなさが、反省のなさに通じている。私のところへ葉書が来て、
「お前は文学者でありながら、一ページの文章の中に二十幾つかのかなづかいの間違いをしているのは、なんという無知、無教養であるか。さっそく直しなさい」
 という葉書をもらったことがある。この女性は旧かなづかいというものを知らないのみならず、自分の無知を少しも反省してみようとしないのであった。(P-63~64)

 

三島由紀夫には珍しく「葉書」が重複してしまっている文章(引用していて気づいた)だが、ともかく昭和40年代にもこういうアンポンタンがちゃんといたのだと分かって楽しい。


そうなのだ。

本書のなかには当然ながら、「全学連」とか「金嬉老事件」とか、当時の時事的な言葉は出て来るが、50数年前の昭和40年代はこうでした、でも当時の陋習は時代とともに改善されて、現在の日本には残っていません・・・、ということにはなっていない。


半世紀経っても進歩がない。

 

 

むしろ愚民政策が年月とともに功を奏し、概して見るも無惨な状況になってしまっている。
消費税や、SDGsや、LGBTQや、マイナンバー制度や、惑沈施策等々で日本人と日本文化が破壊されようとしている光景を見たら、三島由紀夫はどれほど怒髪天を衝くだろう(短髪だけど)。三島由紀夫はホモセクシャルだが、過剰なLGBTQ政策を赦すはずがない。言論で一刀両断にするだけではなく、「楯の会」を率いて、そういった経済・文化の破壊活動をしている「反社組織」に殴りこみに行きそうだ。






本書には他に、

西洋との比較でしか日本文化を語れず、本当の意味で日本文化に誇りをもてないものたちを批判した「お茶漬ナショナリズム」(初出:文藝春秋 昭和41年4月号)、

自治権を楯に白痴化(動物化)する学生運動の体たらくを批判し、文化防衛の重要性を説いた「東大を動物園にしろ」(同:文藝春秋 昭和44年1月号)、

猪木正道との対談「安保問題をどう考えたらよいか」(同:現代 昭和44年1月号)、

福田赳夫との対談「負けるが勝ち」(同:自由 昭和43年7月号)、

福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」(同:論争ジャーナル 昭和42年11月号)

を所収している。


対談時、福田赳夫は首相ではなく、自民党幹事長。対談中、三島が「福田幹事長」と呼んでいるシーンがある。

 

福田 (中略)これはいま日本でも大きな問題です。国づくりの経済の面は一応、軌道にのった。しかしもう一つ、そういう社会人、国家人としての日本人に魂を入れる問題、この問題はまだその緒にもついていないという感じがします。私の考えでは、政治の姿勢というものは、経済問題はもう財界人にまかせて、政治はもっぱらそういう問題に取り組むべきだと思います。(P-175~176)

 

福田 (中略)理想と現実をはき違えている。そういうことから、政治的社会的な混乱が出てくる。ともかく私は、政治家として、やっぱりみんなが、一人で幸福であり平和であるわけには行かないんだ。みんなが力を合わせて責任を分かち合って初めてできるんだという考え方を持ってほしい。(P-196)

 

福田は基本的に三島と同じ方向をむいている。
もっとも、政治家の常として、少なくとも「言うこと」は立派であるから、言葉だけでは判断できない。

すでに時代は戦後のアメリカ統治の真っ最中で、どんな政治家も正面切ってアメリカに逆らうことはできないだろうが、それでも中曽根や小泉や岸田のようなあからさまな売国奴だけではなく、田中角榮のように、ぎりぎりのところで日本の独立と繁栄を目指していた首相はいた。

果たして、福田赳夫幹事長~首相(在職:昭和51年12月24日~53年12月7日)はどうだったのか?


三島はこのころ、自衛隊を「国土防衛軍」「国連警察予備軍」に分けるという「自衛隊二分論」を強く説いていた。
少なくとも本書中「東大を動物園にしろ」「安保問題をどう考えたらよいか」「負けるが勝ち」で言及している。(二十代の初読の際は、せっかくのこの論もおれの頭に引っかからなかった)

 

 一つは国土防衛軍だ。(中略)安保条約とは全く関係のない、いかなる外国とも手を結ばない、われわれ国民だけの軍隊として確保し、これに志願による民兵を加えて編成する。
 いま一つは国連警察予備軍だ。(中略)組織から制服まで前者とは違う。いかなる場合にも国連と共同して行動するのであって、日本だけを守るためではない、国際平和のための軍隊なんだ。これが安保条約とリンクする。(P-140「安保問題をどう考えたらよいか」より)

 

だが将来的に多極化が進み、国連そのものが消滅すれば、後者は必要なくなる。
三島の絶望的な予想を良い方向に裏切る世界が実現すれば、喜ばしい。


ところで、ノーベル文学賞を受賞できなかったのを機に、文学による栄光を諦めた三島由紀夫が半ば自棄になって楯の会を結成し、挙句の果てに自衛隊駐屯地に乱入したのだ、ということをまことしやかに説いている「評論家」がいる。

川端康成がノーベル文学賞を受賞したのが1968年(昭和43年)10月17日。
上記の国土防衛軍の構想(の民兵)を現実化させた「祖国防衛隊(楯の会の前身)」の結成は同年の2月25日。
 

 

それだけで、ノーベル賞を受賞できなかったから・・・、という論理は破綻する。


川端康成の受賞によって、日本人が同賞を受賞することは当分ないだろう、と言われていたのはたしかだが、だからといって三島由紀夫が文学を諦めたとは思えない。


前述したように、「若きサムライのための精神講和」は昭和44年4月号まで雑誌に連載されており、ザックバランながら熱の籠もった語り口で当時の若者に呼びかけていたのだ。


また、遺作となった『豊饒の海』を読んでも、昭和43年以降の三島が文学による栄光に見切りをつけていたとは考えられない。


そういったことを多角的に考察させてくれるだけでも、三島由紀夫に親しんでいてよかったと思う。
 

 

 

 

 

福田赳夫とともに、三島由紀夫は日本最大の「反社組織」のひとつである大蔵省(現財務省)の出身なんだよな~。しかし、そんなシガラミなど無視して斬りこんでもらいたい。亡き人に頼んでどうするのか、という話だが。