第42回 池田清彦『構造主義進化論入門』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

人類の進化の本を集中して読むようになってから、
ときおり、ふと想いを馳せるのは、
いま自分の見ていること、していることが、
ホモ・サピエンスならではのことなのか、
それとも、ホモ・ネアンデルターレンシスも
見たり、聞いたり、したりしたことなのだろうか、
ということである。

眼のまえにひろがる都会のビル群。
高速道路、湾岸橋。
通勤時、あたりまえのように見ている電車・地下鉄からの風景。
おれがいま向かっているパソコン、傍らにある書籍、携帯端末、
さきほどまで観ていたテレビ。呑んでいた酒類。
暖房と照明の整った部屋・・・。

これらはもちろん、
ネアンデルタール人が夢にも思わなかった光景であり、
自分がいかにホモ・サピエンスならではの事物に
取り囲まれて暮らしているかを考えると、
実に驚嘆するばかりである。

一方で、夜空に輝く星々、流星、
なによりも太陽と月、
浜辺に打ち寄せる波、降りしきる雪、
流れる雲、雷、地震、噴火、
どこまでも深く広がる原生林、
野生の獣、天を焦がす山火事、
・・・そして、裸の異性。
男(牡)同士の殴り合い、殺し合い。

これらの風景/光景は、
ホモ・ネアンデルターレンシス、
ひいては、それよりも年代的に先の、
ホモ・ハイデルベルゲンシスや
ホモ・ハビリスたちも
同じように眼にしたはずのものなのだ。

それを思うとたまらない感慨に襲われるのだけれど、
その感慨が、哀しさなのか、喜びなのか、
はたまた畏怖に近いものなのか、
それは、よく解らない・・・。

この感情については、
もっと言及したくなるときがあるかもしれない。

今回取り上げるのは、

池田清彦 著『構造主義的進化論入門』!!!

本書が対象にしているのは、もちろん、「人類の進化」のみではなく、
「生物の進化」全般についてであることは、いうまでもない。

一般に聞き慣れない「構造主義的進化論」。

これはまだ学術的に「証明」された「理論」ではなく、
傍証的な、形而上学的な、「思弁」ともいえる「論」である。

しかし、この「論」を導入すると、
「進化」のさまざまな実情が、
これまで以上に体系的に「説明」できるのも事実なのだ。

「構造主義的進化論」に至るまでには、
2つの「仮説」を否定しなければならない。

ひとつは「ダーウィニズム」。
これは本家本元、有名すぎるチャールズ・ダーウィンの
唱えた「自然選択説」である。

「生物の進化」について、
ごく薄い関心・知識しか持っていない人にとっては、
進化論といえば、イコール、ダーウィニズムだ。

チャールズ・ダーウィンが、
一発ツモで、揺るぎない、永遠の「真実」を発表した、
思っている人も少なくないのではなかろうか。
進化論についての是非は、チャールズ・ダーウィンで、
すでに「完結」している、と。

ところが、ダーウィンの自然選択説
(「弱肉強食」「適応」「自然淘汰」などがそのキーワードだ)
は、
これまた有名なメンデルの「遺伝学説」と
相反する理論なのだ。

そこで、この
「ダーウィンの自然選択説とメンデルの遺伝学説を融合する形で誕生した」のが「ネオダーウィニズム」である。

現在はこの「ネオ・・・」が主流である。

いわゆるシロウトにとっては「進化論=ダーウィニズム」かもしれないが、
こういった「オリジナルのダーウィニズム」の信奉者は専門家には、
さずがにいない。

主流は「ネオダーウィニズム」

ネオダーウィニズムの「主役」は遺伝子(DNA)だ。
DNAの変異が生物の形態と直結している、
というのが基本的なスタンスである。

DNAの変異=形態の変異、というわけだ。

ところが、事実はどうもそうではないようなのだ。
DNAと生物形態は、一対一対応ではないのである。

あなたのDNAの塩基配列が、
寝ている間に突発的に変異する。
すると、目覚めたときに、
「巨大な毒虫」に変身している・・・
ことは、まず、ない。

というのも、生物というのは、
DNAの構造と、形態が直接対応しているわけではなく、
たとえDNAが変異しても形態に変化がないこともあるし、
逆に、DNAに変化がなくても、
形態が変わってしまうこともある、ようなのだ。

つまり、DNAという設計図を「どう」読むか、
むしろその「システム」こそが、
生物の形態にとっての要なのである、
と、「構造主義進化論」は説く。

「ネオダーウィニズムは、システムという観点がないから、世界は可変的で、どんな形にでも変わり得るということを前提にしている。したがって、ネオダーウィニズムでは、生物はどういう形にはならないのかということについては何も説明できていない。『とにかく変わる』ということしかわからない。」

つまり、ネオダーウィニズムの理論では、
人間が一夜にして毒虫に変異することも、
(確率論的には)あり得るわけだ。

しかし、構造主義生物学には「制約」という概念がある。

たとえば人間だったら、どんなDNAの変異が起きても、人間以外のものにはなれない。人間以外のものになるようなDNAの変異はもしあったとしても、発生をうまく促すことができずに死んでしまうのである。ある拘束性の強いシステムのなかでは、許される発生経路はひじょうに限られたものである。」


ネオダーウィニズムから「構造主義生物学(進化論)」を
劃然と分つものは、
DNAとシステム(構造)を別物と考えたことだろう。

いわばDNAが「情報系」で、
その情報を解釈する「解釈系」が別途存在する。

爆発的な「大進化」をもたらすのは、
後者の「解釈系=システム=構造」のほうであり、
ネオダーウィニズムでは絶対と考えられている
「DNAの変化は、情報系の構造の布置変換にすぎず、後戻りが可能である。」

この「親本」が出版されたのが、1997年。
2010年の文庫版の出版からも2年が経つ。

いまや、進化論の主流にとってかわろうという勢いのある
「構造主義進化論」だが、
いまでも、非常に挑発的な示唆に富んだ理論だと思う。

進化の話から離れてみても、
実存としてそこに「ある」情報こそが絶対であり、
それを「解釈」するのは個々人に委ねられたうつろいやすいもの、
・・・という一般に流布しているイメージに、
一石を投じている理論とも「解釈」できる。

解釈が出鱈目なら「形態」も歪んでしまう、
(もうまともに生きていけなくなる)
という意味においても。

現代思想における「構造」は、
いわゆる思考を枠に嵌める「フレーム」のことであり、
本書でいう「構造」は、解釈系の「システム」の意味だ。

もちろん、両者の「意味」は露骨なほどつながっている。

進化論における「構造主義」は、
進化論の分野にとどまらず、
思想分野の構造主義を包含しつつ、
科学全般の「姿勢」に還元していく。

「構造主義」というと、
てっきり形而上的な分野でのタームかと思っていたのだが、
生物学/進化論といった
形而下的な局面において真価を発揮し得る
「アプローチ」であったとは!!


しかも、生物進化の「構造主義」は、
まだ始まったばかりのようなのだ。


まさに『構造主義進化論入門』。






構造主義進化論入門 (講談社学術文庫)