第43回 伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

電車に乗ってて閉口するのは、
「整えて」から降りていくひとだ。

そう思いませんか?

・・・って、なんのことかわかんないよね。
つまりはこういうことだ。

よくあるのは、
大きなリュックとか、
大きなスポーツバッグとかを
きっちり肩にかけて、
スタイルを「整えて」から
電車を降りていくようなひとたちだ。

混んだ電車のなかで、
周囲の人たちに迷惑をかけないように、
背負ったままにしない、
肩にかけたままにしない、
身体のまえにまわしておく、
という心がけは「よい」と思う。

だが、自分の降りる駅に着いて、
さあ降りようというときに、
しっかりバッグを背負ってから乗客を掻き分けると、
結局、その心がけは画竜点睛を欠いてしまうと思うのだ。


つまり、「周囲の状況に応じた中途半端な持ち方」をしようとしないのだ。

降ろしているか、きっちり背負って・かけているか、
どちらか。

一種の「几帳面」だともいえる。

ほとんどすべての人は、
歩いているときは、きっちりバッグが安定するように、
その人にとっての「定位置」にバッグを整えていることと思う。

しかし、ホームに降りて「から」そうすればいいと思う。
降りるまえに、ドアにむかうまえに、周囲に乗客が密集している状況で、
きっちり、定位置に、整えることはないだろう。

たとえ、肩にかけるのがその人にとっての定位置だとしても、
電車を降りるまでの二、三メートルくらい
手に提げて移動したっていいじゃない。

その二、三メートルの距離にいる乗客たちに、
バッグをボコボコぶつけていく必要はないじゃない。

肩にかける際に巨大なバッグを大きく旋回させて、
隣に立っている人に硬く重い鞄を直撃させなくてもいいじゃない。

・・・ということを説いていると、
いや~、きみはよく他人にバッグとかをぶつけられるんだね。
ボクはめったにないよ。
きみは、ぶつけられるような巡り合わせなんだね」

などということを指摘してくれる人がいる。

おれもそう思って周囲を観察したことがあるのだけど、
おれが特別ぶつけられる星のもとに生まれているわけではなく、
たいてい、みんな気にしてないようなのだ。

ぶつけられても気にしない。

あるいは、そう指摘してきた人自身が、
他人に「ぶつける」「ぶつかる」タイプだったりもする(笑)。

おれの場合、ぶつけられたときにも
ただ「痛ッ!」だけに終らずに、
「平気でぶつけるひと」の心理をもいちいち忖度してしまうので、
そのぶん余計に「記憶」に残ってしまうのかもしれない。

損な性分だ・・・。


で、今回取り上げるのは、
伊丹十三 著『ヨーロッパ退屈日記』!!!

もう、ほとんど古典的名著といっていいのだろうが、
不覚にもこれまで、本書の存在すら知らなかった。

俳優・映画監督として有名な故・伊丹十三だが、
ものすごい名文の書き手でもあるということは、
ずっと以前に読み聞いたことがある。
それでも、まとまった著作を実際に手にしたのは、
今回が初めて。

本屋で「へえ、伊丹十三だ」とおもって偶然手にとり、
数カ所拾い読みをしているうちに、
ひりひりするような直観に襲われて、即、購入。

ここで買わないと絶対に後悔するぞ、という
急迫した「声」が聞こえたような気がした。

おもしろいの、おもしろくないの、って。
なんだろう、この楽しさ。

けっこう、辛辣なことも書いているのだが、
それでも読んでいて心が浮き立つようだった。

おれが本屋で拾い読みをしていたときに、
瞬時に心を奪われたのが、次の一節。

「告白するが、わたくしは、アメリカ人に対して、人種的偏見を持っている。殊に、あのアメリカ語というのが嫌いである。あれは一体何だろう。英語を思いきり鼻にかけ、喉でつぶし、一体、誰が一等、英語をネジクレて発音できるか、そこのところを、皆で一斉に競い合っているとしか思えないのである。/ アメリカ語、というのは、わたくしにいわせれば大田舎言葉だ。」

ちなみに、伊丹十三の英語(イギリス語)の能力は一流だった。

本書は、伊丹十三が俳優として入社した大映を退社し、
渡欧した後の「国際俳優時代」に書かれたという。

このエッセイには、
料理、映画、音楽、語学、お洒落、風俗習慣、
外国旅行、外国文化、食事、文字表記についてなど、
伊丹十三のこだわり・・・というか「審美眼」に基づいた
「世界」が展開される。

すごいわ。なにからなにまで。
宮本信子も惚れるはずだ。


驚くべきは、この著(親本)が1965年に発刊されたということだ。
(当時、伊丹十三は満31歳。書いていた時期は20代後半)

およそ半世紀前に書かれたとは思えない。
書かれていることがまったく「古びていない」というより、
日本(または世界)が半世紀の間、
本質的にはなにも変わっていないということだろう。

半世紀前の伊丹十三の「小言」が、
いま現在の事情に、そっくりそのまま当てはまるのだ。
そのことに少々唖然とさえする。


伊丹十三が「自分の嫌いなもの(こと)」を
露骨に列挙している項がある。
(「わたくしのコレクション」)

ウイスキーを飲みながら食事をする人がいる。コーヒーを飲みながら晩餐、ていう人もいるようだ。こういう人々は、味の蕾の無いかたがたではあるまいか。」

現在、居酒屋で(ウイスキーの)ハイボールを
呑みながら食べている人たちにとっては耳の痛い言葉だ。
(別に気にしなくてもいいんだろうけど)

「やたらと紋切り型の言葉を使う人がいる。(中略)人が掃除なんかしていると『雨が降るわよ』とか『あっ、どうりで雨が降ってきた』なんていう。いや必ずいるのです。」

列挙するまえにこうも言っている。

でも、自分の嫌いなものをあれこれ考えるのはとても愉しいことです。美的感覚とは嫌悪の集積である、と誰かがいったっけ。」


そう!
嫌いなもの(こと)について考えるのは無駄ではない。

だからおれは「不用意に他人にバッグをぶつける輩」についても
考えるのだ。考えてしまう。
それこそが、おれの裡の「なにか」を鍛えている(はずだ)から。


あ、そうだ。

伊丹十三が自分のことを一貫して「わたくし」と表記しているのも
印象に残った。さすが言葉にもこだわっている。





ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)