紅炉一点雪  | 「ビタミン愛」をゲット!

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「紅炉一点雪」
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「紅炉上一点の雪」は、「死」に対する禅の答えです。
 戦国時代、武田信玄と上杉謙信の戦いは有名な話です。川中島(かわなかじま)を中心に両者は幾たびか戦っていますが、永禄四年(一五六一)九月十日の早朝から始まった戦いが圧巻です。
 信玄は悠然と床几(しょうぎ)に坐して作戦を練ります。
 謙信は一挙に雌雄(しゆう)を決せんと、朝靄(あさもや)をついて一騎で信玄の本陣を襲います。突如として陣幕を蹴破って現れた謙信は、信玄めがけて、「如何(いか)なるか()剣刃上(けんにんじょう)の事」と切りつけます。
 信玄、あわてず、泰然(たいぜん)自若(じじゃく)として、「紅炉(こうろ)(じょう)一点(いってん)(ゆき)」と答えざま、持っていた鉄扇(てっせん)でハッシと受け止めます。「紅炉上一点の雪」によって、信玄は何をいおうとしたのでしょうか。
 信玄は甲州塩山(えんざん)恵林寺(えりんじ)の快川禅師に禅を修し、また、謙信は毘沙門天(びしゃもんてん)への信仰も厚く、越後高田の林泉寺の益翁(やくおう)宗謙(そうけん)禅師に参じ、禅への造詣も深く、この両豪傑(ごうけつ)の「死」を儲けての問答、参ずる価値があるのではないでしょうか。
 「如何なるか剣刃上の事」。いってみれば、「俺に一刀両断されたら、貴様は一体どうするのだ」、すなわち、「死」をどう受け止めるのか、と問いかけているのです。
 それに対して、信玄は、「紅炉上一点の雪」と答えます。真っ赤におきた炭火の上に、どこからともなく、一点の雪が降ります。雪は一瞬にして消え、跡形もありません。
 振り下ろす刃の下でも、生もなく死もない、すなわち、生への一かけらの執着もなく、死への微塵の恐怖もない、死ぬもよし、生きるもよし、と無心に鉄扇をもって受け止めたのです。

(細川景一著・1987.7.禅文化研究所 より抜粋)


そうだったのか。炉の上の雪は、当然すぐに消えてしまう、

でも、死への恐怖を感じず、生きても死んでもいいよ、という無の境地を表していたのですね。

今まで、よく意味が分からず、毎回、「これは、野点てをしている茶席での風景かしら?雪降る中で野点てなんて、寒そうだわ。」と思っていたのでした。

それにしても、「問答をできること自体、ものすごく素晴らしい」と思う私って、あまりにも無能な感じがして、情けない。