「虎のエースナンバー」記事に続いて本日は「虎のクローザー」の歴史を追ってみたいと思う。
昔には「火消し投手」などと言っていたが「抑え」「リリーフ・エース」「ストッパー」などと呼ばれ「守護神」と言われるようになった。
最近ではMLBにならって「クローザー」と言われる。
昨季・今季と絶対的守護神をつとめたR・スアレス は 退団、自由契約となりMLB移籍、パドレスへの入団となった。
年俸は700万ドル(約8億年)だというからまさしくジャパニーズ・ドリーム。。。
来季のタイガースはERA(防御率)1.17、WHIP 0.77の絶対的守護神を失うこととなる。
ニュースではパイレーツのカイル・ケラー投手と契約合意になったと報じられている。
この新クローザー候補。s
当会編成部長からはかなり辛口な評価が送られてきた。
身長193cm。最速157km/h、カーブを得意とするところから2019年に来日したPJ((ピアース・ジョンソン)に似てるとも言われているのだが果たして・・・。
ではそのあたりをにらみつつ・・・
虎の歴代クローザーを検証していく。
=================
年代別には大きく4つに分けている。
山本・中西時代
■安土・桃山時代みたいになったがそこまで古くはない。
阪神の抑えと言えば山本和行。
これが元祖クローザーだという人もいる。
山本和行:朝日新聞デジタル
一番最初に記録したのは1974年の江夏豊(8S)だが当時は専任ではなかった。
表は1984年からであるが山本和は1975年ごろからリリーフに転向、この年9Sで最多セーブを記録する。
1976年には安仁屋宗八とダブルストッパーとして活躍するが1978年には一度先発に復帰、1982年に再びリリーフに転向し、26Sを記録、当時あったセーブポイントで40を稼ぎ最優秀救援投手のタイトルを獲得、翌1984年も10勝24セーブ、34セーブポイントで再び最優秀救援投手に輝いた。
1984年という時代はまだ複数の投手を中盤からつぎ込む時代ではなく、山本和の24Sの次点は伊藤宏光の2Sだった。
翌1985年はご存知、21年ぶりのリーグ優勝・初の日本一の年。
山本和はこの年通算100勝と100セーブを記録し、入団2年目の中西清起とダブル・ストッパーとしてリーグ優勝を牽引したが、9月にアキレス腱を断裂。
シーズン終盤は中西清起がひとりクローザーを務めた。
中西清起:週刊ベースボールOMLINE
山本和の現役通算700試合登板は当時の球団最多記録
(2018年9月4日に藤川球児が更新)。
■1987年はまだダブル・ストッパー体制だったが1988年には山本和はコーチ兼任、中西清起も衰えが見え始めERA(防御率)は4点台にまで悪化する。
山本和行は約12年、リリーフとして活躍したが徐々に時代は変わっていき抑え投手にはより過酷でつらい重圧がかかるようになっていき、結果3~5年しか継続できない状態が他球団でも見え始める。
=================
暗黒時代
■中西清起も6年目には先発に転向し、闇深い暗黒時代に突入していいく。
1989年は球団最多セーブが住友一哉の7S。この年のチーム全体の総セーブが17S。
1990年には伸び悩んだ中田良弘を抑えに回したがわずか6S。
翌1991年は中継ぎでフル回転していた久保康生が同じく6S。
2年連続で最下位であり1990年52勝、1991年48勝ではそもそものセーブ機会も少なかった。
■1992年、タイガースは突如Aクラスに浮上する。
その原動力が「たむじぃ」こと田村勤。
田村勤:スポニチANNEX
変則左腕からのクロスファイアで前半戦だけで14Sを上げるも変則フォームでの力投型が災いし、7月には肘を故障する。
翌1993年には抑え不在の危機を中西清起が再転向で救った。
田村勤は6月には復活し以降の試合だけで22Sを上げる。
しかし田村は以降も肩・肘の故障に悩まされクローザーとして短命に終わったが、その投げっぷりはファンの脳裏に熱く焼きついている。
暗黒時代が前期・後期に分かれる分岐点はこの田村勤が君臨した時代だ。
■1994、1995年はオリックスから移籍してきた古溝克之が抑え投手を務め、18S、19Sを記録するが徐々に成績を落としていく。
古溝克之:日刊スポーツ
1996年は入団4年目の郭李建夫が抑えに専任。
期待された豪腕っぷりが発揮されたが、翌年早々に故障・リタイア。
郭李建夫:日刊スポーツ
後任には1989年のドラフト1位ながら故障などもあり低迷していた葛西稔がチーム最多の10Sを記録する。・・・・といってもこの年チームのセーブはは31。
(伊藤敦規8S、田村勤9Sなど)
葛西稔:日刊スポーツ
■中西清起以降、抑え・ストッパー投手が固定できず、1998年には「獲ってくるのがよかろう」と台湾リーグでプレイしていたベン・リベラが入団。
初めて外国人投手をストッパー専任として獲得した。
リベラは当時の球団記録となる27Sをあげるなど見事にはまった。
この年、リベラ意外にはセーブ記録なしという珍記録。
やっと最後を固定できたかと思いきや翌年にはお約束の故障。
その後、野村監督と揉めてこれまたお約束のシーズン途中の帰国~退団。
またも抑えエースは空席となってしまう。
■2000年にはふたたび葛西 稔を登用。復活した遠山 奬志とのコンビで「遠山-葛西-遠山…」のリレー継投をたびたび成功させた。
しかし翌年にはその幻惑リレーも陰りが見えまたも抑え空位の事態になるかと思われたがロッテからテスト入団していた成本 年秀が20Sをあげ見事に穴を埋めた。
・・・・が。
どこまでも「お約束」は続く。
成本はわずか一年で故障。
もともと戦力外のテスト入団といえばそれまでだが、このあたりまでまさに暗黒時代。
球団としてのビジョンのなさを露呈し続ける。
■2002年は星野仙一監督の就任初年度。抑えとして獲得したのはマーク・バルデス。
42試合で22Sをマークするも1年限りで解任。
============
JFK時代
■残留が決まっていたバルデスを押し出したのがジェフ。
いまだに根強くファンに愛されるジェフ・ウィリアムスだ。
J・ウィリアムス
「阪神タイガース80年史」ベースボールマガジン社
暗黒時代を脱出した阪神タイガースの抑えはここから「JFK時代」に突入する。
2003年、52試合に登板25S、ERA 1.54と活躍し18年ぶりのリーグ優勝に貢献。
2004年オフには阪神の外国人投手として初めてとなる複数年契約を結ぶ。
2005にはセットアッパー専任になり、岡田彰布監督の胴上げに貢献、最強のリリーフ陣「JFK」を形成する。
■2年ぶりのリーグ優勝の原動力となったJFKを締めたのは豪腕・久保田智之。
登板数は68試合に到達し27S。最高157km/hの豪球で胴上げ投手となる。
久保田智之
「阪神タイガース80年史」ベースボールマガジン社
WHIP1.09と及第点ではあるものの、抑え投手としてはやや安定感に欠ける事がたびたびあったことから翌年にはJFKを配置転換。
2006年以降、阪神球団のみならず史上最高ともいえる「火の玉ストレート」を武器に藤川球児が抑えのマウンドに君臨し続ける。
35試合連続無失点(日本記録更新)、47イニング連続無失点(球団記録を更新)と無双状態に突入。
2007年はリリーフ投手として史上初の3年連続100奪三振を達成。
10試合連続登板(セ・リーグ記録)で10連勝など46Sを上げる。もちろん最多セーブであり
この数字は日本タイ記録で右投手としては新記録であった。
この年のオフに球団にポスティング移籍を希望するが拒否される。
いまでもこの時にMLBに行かせてやっていれば・・・との思いは私には根強くある。
同じように故障したかもしれないが、少なくとも後に海を渡った年のような成績ではなかったのではないかと思うと残念でならない。
===============
2012年まで7年間ストッパーの座に君臨した球児は自身の権利として獲得した海外FAの権利を行使してメジャーに挑戦する。
久保康友:スポニチANNEX
翌2013年に久しぶりに空位となったストッパーを務めたのは前年に16試合先発登板していた久保康友だったが前年までのいわゆる「統一球」からNPBのまずい対応から問題に発展する「反発係数の変更」が秘密裏になされる。
要するにこっそりと「飛ぶボール」に変更されていたのだ。
三振を奪うスタイルでなく打たせて取るタイプの久保康友には可哀想な変更であった。
結局、「飛ぶボールを飛ばされ」二軍落ちとなった久保に代わってストッパーをつとめたのは現在一軍コーチの福原忍。
この年14Sをあげた。
===========
外国人時代
■翌2014年から本年までタイガースの抑えは外国人時代を迎える。
2019年ドリスとダブルストッパーとなった藤川球児(球児もMLB帰りだから外国人みたいなものだ)を除いて8年間はすべてクローザーとして獲得した外国人投手。
呉 昇桓「阪神タイガース80年史」ベースボールマガジン社
藤川球児の背番号22計継承した呉 昇桓は韓国KBOリーグで実績をあげ(韓国プロ野球史上初の3年連続30セーブなど)第2回のWBCにも選出された。
2014年には12試合連続無失点、10試合・10イニング連続で被安打0を記録するなど39Sをあげ、タイトルを獲得。その年2位で迎えたCS(クライマックス・シリーズ)では全試合登板で4Sを記録しシリーズ進出の立役者となった。
翌2015年には2年連続30S以上、KBO/NPB通算350Sを達成。
藤川球児以来、2人目となる40超えの41S。
圧倒的な成績を残した呉 昇桓だったが、違法賭博への関与疑惑から(本人は否定)自由契約となる。
■のちにクローザーとなるラファエル・ドリスと一緒に阪神にやってきたマルコス・マテオが次年度のクローザーを務め、ドミニカンらしいドレッドヘアを振り乱し20Sをあげる。
マルコス・マテオ
翌年、マテオは役目を入れ替え、以降3年間クローザーはドリスが務める。
ラファエル・ドリス
2018年には呉昇桓の阪神外国人投手通算最多セーブ記録(80)を更新する81Sを記録するなど万全かと思われたが防御率1点台ながら不安定な投球が続き、MLBから独立Lを経由して阪神に復帰していた球児がクローザーとして復活する。
球児は150km/h台のストレートを連発するようになるなど完全復活かとも思われたが、翌年にはコンディション不良となり不調のまま開幕を迎えたが精彩を欠いたまま二軍降格~引退となる。
そしてその後クローザーの座についたのがソフトバンクを戦力外となって阪神と契約していたロベルト・スアレス。
160km/hを超える4シームと同等の球速で沈む2シーム、常時140km/h以上の高速スプリットを駆使し近2年、往年の藤川球児に勝るとも劣らない投球を見せ2年連続でセーブ王のタイトルを獲得する。
=========
できれば長く阪神でクローザーを務めてほしいがそうはいかない事情がある。
もともと2021年もMLBでプレイするべく交渉がすすんでいたが新型コロナウィルス感染症の拡大でアメリカも混乱する中、交渉は難航し結局2年契約での残留となったのだ。
だが2年目はプレーヤーオプションであり、2022年も阪神でプレーするかどうかはスアレス側に選択権があった。
何故そんな選択を?と思うかもしれないが金額だけでは(金額も破格であったが)スアレスの心は決まらなかっただろう。この2年目はプレーヤーオプションがあったからこその残留契約だ。
スアレス側としても今季はMLBがどの程度通常通り開催されるかは予想できなかっただろうし、初めてメジャーでプレイするのに2021年はリスクが大きいと踏んだのだろう。
結果的には昨年を大きく上回る41Sを記録するなど自身の価値をさらに高めることとなった。
球団としては矢野監督の契約終了となる今季に向けては、それだけしてもスアレスには残って欲しかった。優勝を狙えると思ったのだ。
=========
1984年からの「山本和・中西時代」、そして低迷と混乱を繰り返した「暗黒時代」
そしてそこからの脱却なった「JFK時代」からの専任外国人獲得に安定を求めた「外国人時代」。
来季のクローザーはカイル・ケラーで収まるのか。
2006年の球児のERA(防御率)0.68、2007年の0.67は驚異的な数字だ。
また2009年のWHIP 0.69もすごい。
外国人投手時代でも最高はドリスのERA1.50。
呉 昇桓以降、うまく外国人がフィットしている。
阪神は近年いい外国人クローザーを迎えているが、
これは駐米スカウトのジェフによる功績だろう。
日本人投手でまかなえれば単年ではなく4~5年安心してクローザーを任せられるのだが・・・とも思うが。
今年ドラフト1位の森木投手に藤川球児2世を期待する声もあるにはあるが。
55~60イニングを年間通じて投げるフィジカルと、
決して上品とは言えない人気球団の抑えを務めるメンタル。
ERA(防御率)は1点台後半~2.3、
WHIPは1.0台
国産車でなかなかこれだけの馬力を持つ投手は見つからないか。
馬力といえば・・・
↓ブログランキングにご協力ください。
こちらをクリックお願いします↓
※画像の無断転用・持ち出しを禁止いたします。
※イラストは著作権で保護されています。