歴史のことば劇場92 

 あらゆる対立を超える「二元的」な歴史伝統  



米国では左右イデオロギー対立の危険なレベルの深刻化が報じられますが、

かつて福田恒存は、日本の左右対立、例えば元号問題について、

西暦一本にしようとする左翼運動の動機は、

一つには、近代化や西欧化、国際化などに便乗した画一主義があり、

もう一つは、天皇制の廃止ないし軽視の意図があるなどと述べました。

 前者の画一主義や統制主義は「馬鹿に附ける薬は無い」(福田)のですが、

では年号と西暦、内と外、自と他、東洋と西洋などを「両建て」(同)にし、

一方を斥けず、両者をバランスよく活かす「歴史伝統」はどこから来るのでしょうか。 

 思えば、古代・中世の神仏習合は、異質な宗教を安易に混ぜ合せたり、抑圧したものではなかったようです。

仏教伝来の当初から、僧侶は神々や死者の祀りに深く関与し(日本霊異記)、仏教は在来の神や祖先への信仰とともに浸透した。

古い神信仰と新しい仏教が別々の宗教とならず一つの信仰となり(吉村均)、仏教の移植は「実に神祇信仰を強化していよいよ隆盛ならしめた」(家永三郎)

 また、中村直勝によれば、

日本に入った儒教は文字一点張りのインテリ向けだったが、仏教は仏像や曼荼羅を使って文字の読めない大衆にも語りかけた。

平安期の真言宗と天台宗は、一切のものが二元世界にあるとし、金剛界と胎蔵界の二界を想定した。

両界双方には地水火風空の五元の要素があり、両界五元の配合によって、風雨、乾湿、善悪、好悪、あるいは上下、左右、陰陽、月日、春秋、大小、長短、白黒と、世界は二つの相対からなると説いた。 

 この二元的思考が長く人心を支配し、天皇と摂関、天皇と院、叡山と園城寺、近衛と九条、平家と源氏の二元論となり、

鎌倉期には、京の朝廷と東の幕府、将軍と執権、公家と武家、南都と北嶺と、二元性こそ政治本来の姿と考えられた。

持明院統と大覚寺統の皇統迭立も、あい反目する両面ではなく「両統が結局は唯一の皇統に御座(いま)す、という更に高次の表現」における「金胎一如(こんたいいちじょ)」の世界であった、と。 

 つまり、中世や南北朝は、分裂や断絶でなく「金胎両界の分立相補」の時代であり、

並び立つ二元的世界を「神国」の皇統が「高次」に統合していた。

『沙石集』は、八万四千もの「法門」すなわち多数の宗派は「実は一つに帰入」するとし、

『神皇正統記』も「一宗(いっしゅう)に志ある人、余宗(よしゅう)を謗(そし)り賤(いや)しむ、大きなる誤りなり」と、

諸宗神仏は本来同一で他宗を否定してはならないと論じた(神田千里)。 

 G・K・チェスタトンは、

平常人の感覚とは「立体的」であり、「一見矛盾するものを互いに釣り合わしてきたからこそ、健康な人間は晴れ晴れと世を送ることができた」

「二つのちがった物の姿が同時に見え…それだけよけいに物がよく見えるのだ」と述べた。 

 二元論的な二項対立をあえて示すことで、

矛盾を矛盾とせず、むしろ集約化する「立体的」で「健常」な見通しが生まれ、

分断や断絶、あるいは画一主義ではなく、多様性や多元性とともに「高次」の調和や呼応が、歴史的にもたらされたのではないでしょうか。