歴史のことば劇場91



いわゆる小泉備蓄米の放出後、米価は下がったり、反騰したり、

現今でも流通量や需給に関する統計的な見通しは、困難をきわめるようですが、

しかしかつての日米開戦の決定には、統計数値が大きく影響したとする当事者の証言などがあります。

昭和16年10月、

最後の御前会議に出された数値は「恐ろしいことに…十三年三月から数ヵ月間に私どもがまるで算術のような方法で編み出した南方石油取得見込みの数字が…何のチェックもされることなく…そのまま使われた」(高橋健夫)、

「根拠をロクに知らされていない企画院総裁」が、天皇の御前で説明した(猪瀬直樹)云々。

支那事変の長期化も、

ミーゼスやハイエクらの自由経済論の紹介者・山本勝市によれば、

物資動員計画は、一度も計画通りにならず、昭和10年頃から着手され13年度に始まる生産力拡充計画では、16年末には日満支で鉄鋼、石炭、軽金属のほか鉄道、自動車、船まで自給自足できるはずだった。

しかし14年度、早くも計画通りにならず、

それを物価委員会の高橋亀吉らは、計画の不正確が原因と言っているが、全くの誤りである。動員計画はそもそも社会主義経済体制であり、デタラメなこと自体を反省すべきだ。

「ジャーナリズムに顕著な事実は偽装マルクス乃至マルクス亜流の台頭であり、それに影響せらるゝ国民の力点移動の現象である。彼らは物価安定…等々の耳裡に入り易き問題の解決に名をかりて、実は聖戦貫遂を阻塞(そそく)して、経済組織の根本変革を誘導利用せんとして居る…」(15年6月)

 戦後、小泉信三も、ミーゼスやハイエクにふれながら、

マルクス主義は革新派の思想の中に「生きていた」、「日本を戦争の断崖まで曳(ひ)きずった勢力が果たして何であったか…その力と不可分に結び着いていたものは…現状維持に対する革新派であり…いずれがよりマルクシズムに親しみを持っていたかといえば、それは明らかに後者であった」と回想した。


冷戦の開始、すなわちソ連がブレトンウッズ協定への不参加を決めたのが、昭和20年12月であり、

ケナンの有名な長文電報がモスクワから送信されたのは翌21年2月でした。

ケナンはマッカーサーによる対日講和案もきびしく批判し(22年8月)、

潜在的な同盟国である日本は中国よりも重要とする米国の認識は、そのケナンの構想から来るもので(坂本一哉)、

日米同盟への流れもケナンと吉田茂(近衛上奏文の関係者でもある)の認識の一致に始まります(中西寛)。

ケナンによれば、

封じ込めとは「一九四七年の(ソ連への)不安感や幻滅感」に由来するのではない、

「もしも戦時中にロシアに関する私の見解に注意が払われていたなら…(戦後の)多くの問題や当惑はかなり軽減されていたに違いない」

要するに、自由経済や冷戦、日米同盟へと向かう潮流は、戦後に始まるのではない。

むしろ統制・計画経済の体制は、統計数値や現実認識を捻じ曲げており、

戦時危機における反統制、反社会主義、自由主義の系譜のイデオロギーが、来たるべき西側の体制とその繁栄を思想的に事前に準備していたのではないでしょうか。