歴史のことば劇場90
財政政策と自由・道徳の価値観

先日の参院選では、与党の給付金vs野党の減税という対立構図がありましたが、
両者とも国家財政への影響が大きいと思われる主張でした。ひと昔前なら、財政赤字が大きくなれば、公共心や将来への不安から赤字削減が唱えられましたが、
今やその声は非常に小さく、拡大を抑制するのはもはや国際金融市場の動向、金利の上昇や為替の下落への危機感ぐらいしか無くなったようです。
しかし、かつてシュンペーターは
「国家の財政能力には限界がある…
もし、人々の意思が公共的な支出をさらに多く要求し続けたらどうなるだろう。個人の生産性を超えてしまう目標のために、ますます多様な政策が要求されていけば、どうだろう。
最終的に、国民のあらゆる部分が、私的所有についてまったく新たな概念を持つようになったら、いったい何が起こるのか。
このとき、租税国家(≒資本主義国家)は、進むべき道を歩みきってしまったことになろう。…この限界点に租税国家は必ず到達するだろう」と述べた(1918)。
政府や公共機関が「長期的な視点から…投資を直接的に組織することに関して大きな責任を引き受ける」とする「投資の社会化」の理論を本格化したのは、ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936)でした。
これに対し、シカゴ学派のF・ナイトは、投資の社会化は「投資を経営者の手から取り上げて政治家の手に移すこと」だと批判した(スキデルスキー)。
またハイエクは、政府の介入が継続的に行われると、長年積み上げてきた「正しい感じ方」が失われると論じた。
問題は単発の行動ではない。政府が「危険な行動」を取り続ける社会では、なぜそれが危険なのかという感覚が失われ、何が自由で何が自由でないのかが分からなくなる。
代表例が、社会福祉の拡大であり、個人の責任や慈善の意見は浸食され、結局どのような経済・社会慣行であれば、道徳的価値観を最もよく保つことができるのかを判断するのは政府ということになる(同)と。
彼らの論理に従えば、
財政や介入の拡大は、経済の主導権のみならず、自由や道徳の価値基準を政府や官僚に引き渡す結末をもたらすようですが、
E・バークは、次のように述べました。
「この世に生を借りた存在でしかない者が、祖先から受けとったものや子孫に支払うべきものに気をとめず、すべてを所有するかのようにふるまってはならない…
自分たちが祖先の諸制度をほとんど尊重しなかったように、後継者に自ら生み出した機構を尊重する必要がないと教えることになってしまう…
(国家とは)生者たちの協働事業(パートナーシップ)であるだけでなく、生者たちと死者たち、これから生まれ来る者たちの間の協働事業でもあるのだ」
要するに、経済政策は、
自由や道徳に深刻に関わる問題であり、国際金融市場は、財政拡大は抑制しても自由の感覚や道徳観まで正すことはない。
政府や官僚が時折打ち出す新しい価値感ではなく、
むしろ「国家とは、生者と死者、これから生まれ来る者との協働事業」という長年積み上げた歴史的な感覚に従ってこそ、
財政のみならず自由や道徳の価値観は健全化へ向かうと考えるべきではないでしょうか。
