宇喜多直家に魔は棲むか③〜戦国という魔界に生きて〜 | 天地温古堂商店

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三十六計逃げるに如かず

ということわざがある。

世にはかりごとは三十六あるといわれる。

はかりごとのうち困ったときは、あれこれ考え迷うよりは機を見て逃げ出し、身を安全に保つことが最上の方法である。臆病や卑怯なために逃げるのではなく、身の安全をはかって後日の再挙を図れ。

ということをこのことわざは教えている。

5世紀の中国で兵法三十六計が著された。
その最後の三十六番目の計を走為上(そういじょう)といい、万策尽きたときは逃げよというのである。

ほかに仮痴不癲(かちふてん)の計というのがある。
愚か者を装って相手に警戒心を抱かせず、時期の到来を待つという策だ。
偶然だろうか。直家は11歳のときから阿呆を装い復讐の機会を待っていた。

反客為主(はんかくいしゅ)の計というのもある。
敵にいったん従属あるいはその臣下となり、内から乗っ取りをかける計略だ。
これについてもそうだ。
直家自身ではないが部下に命じて、敵方の重臣になりおおせ、ついには敵将を殺し城を乗っ取っている。

そう考えると、あるいは直家は若くしてどこかで、兵法三十六計を学んでいたのではないかと思えるほどだ。

その直家。
妙善寺合戦勝利の2年後、ついに自立して主君・浦上宗景から離反する。
宗景は播磨に進出していた織田信長とよしみを結び、優位の確保に必死だ。
直家は宗景に離反するも、ときに和睦しながら、冷めた夫婦のように破局を先送りしてゆく。

一方、妙善寺合戦で敗走した三村元親は備中松山に帰ってますますうっぷんがたまったままで、主家・毛利に訴えてどうにかして宇喜多を討とうと図っていた。

そんなさなか、直家は信じられない一手を打つ。
宿敵・毛利に、

貴家のために、上方(織田信長)ご征伐のご案内を二心なくつとめ申したい。 
三村をお見離しになるなら、いよいよ旗本に参じましょう。


と、帰服を申し入れたのだ。


直家の奇策であるが、毛利の絶妙のツボをおさえている。

毛利氏の重大事は、東からの脅威・織田信長にどう対応するかだ。
もはや三村と宇喜多の紛擾など小事に過ぎない。
毛利にすれば、織田軍がやってきたときの防壁あるいは橋頭堡がのどから手が出るほど欲しかったのだ。
それには宇喜多が必要不可欠だ。


直家は自分の価値を十分にわかっていた。
毛利は三村を捨ててでもわしを選ぶ、と確信していたであろう。


毛利は直家の申し出を受け入れた。
しかも、備前・美作を宇喜多の領国とし認めたのだ。

たとえ両国で未統治の土地があっても毛利は手を出さぬ、切り取り次第になされよ。

ということだ。

「毛利両川」で山陽道を担当した小早川隆景 Wikipediaより

毛利と三村は当然手切れとなる。
三村元親は一族を集めて、織田の力を借りて宇喜多を滅ぼそうと言う。
しかし、叔父の親成は織田信長が欺瞞の人だとして反対。元親と口論になり、おのれの城に帰ってしまう。
ついに元親は親成と毛利の連合軍に攻められ討死してしまった。

まったくのところ直家は表裏比興の者だ。

三村元親が滅んだ翌年、今度は毛利と対立する山陰地方の雄・尼子勝久と同盟を結んだのだ。
直家のねらいは隣接する西備前を領する松田父子(元輝・元賢)だった。
直家が尼子と組んだのは、尼子と古くから関係の深い備前の国人・伊賀久隆を味方に引き入れ、彼をして松田父子を倒そうとした。
久隆は直家の妹を、松田元賢は直家の娘を妻にしているというのだから、このあたりはまことにややこしい。

伊賀久隆は松田父子の居城を急襲すると、元輝を鉄砲で射殺。
城外に出た元賢だったが敗走の途中で四方を敵に囲まれ壮絶な最期を遂げた。
直家の娘で元賢の妻は絶望して自害して果てた。悲惨としかいいようがない。

このとき松田を見限り直家に味方した伊賀久隆ではあったが、その13年後にみずからも謎の死を遂げた。
直家による毒殺だったともいわれている。

直家は、このようにして、近くの敵を滅ぼすために毛利や尼子といった遠くの勢力と手を結んだ。

話にオチをつけるようで気がひけるが、兵法の第二十二計に「遠交近攻」というのがある。
遠きに交わり近きを攻むと訓み、遠くの相手と手を結んで近くの敵を片づける策をいう。

直家は冷血なマキャベリストだが、殺るか殺られるかの戦国を生き残るために兵法を学び、机上だけでなく実践してほとんど成功をおさめた稀有な人物だ。


宇喜多直家 Wikipediaより

直家は毛利を後ろ盾にして、ついに形式上の主君・浦上宗景を追い落とすため、久松丸(宗景の兄の孫)という力のない傀儡を担ぎ出した。
三村元親が滅んだわずか3ヶ月後、浦上宗景は居城を包囲され、いのちからがら城を脱出し行方不明となり浦上氏は事実上消滅した。
直家46歳のときである。

直家に運命のときが近づいている。

貴家のために、上方(織田信長)ご征伐のご案内を二心なくつとめ申したい。 

と言って、11年前に直家は毛利と同盟したのである。
その織田信長の軍勢が中国攻めと号して、播磨・備前にやってきたのだ。
総司令官は羽柴秀吉である。
1577(天正5)年10月、秀吉は軍師・黒田官兵衛の居城・姫路城に入って中国攻めの根拠地とした。

直家は老獪だった。
直家は弟・忠家や重臣の長船、岡、戸川らに一万五千の兵を授け毛利軍に従軍させたが、自身は病気と称して出ていかなかった。
むろん、病気ではない。
直家は深い洞穴の中から外界で繰り広げられる毛利と織田の死闘を、閻魔帳にこまかく点を書き込むようにして、じっと観望していたのだ。

彼にとってはそれが何よりも重大事だっただろう。
すでに直家は、毛利に付いて織田と戦うか、織田に付いて毛利と戦うかという究極の選択のときが間もないことを確信していたからである。


秀吉は備前国境に近い上月城を攻めた。
上月城主は毛利軍に参加している赤松政範といい、宇喜多勢は友軍として戦線に加わった。
11月、秀吉は上月城を激しく攻め、宇喜多勢を撃退させ、上月城は落城。
赤松政範は自害、城内の兵、子女は皆殺しにされた。

 

織田勢と毛利・宇喜多勢が激しく戦った上月城 Wikipediaより

上月城をめぐる攻防は激烈を極めている。

翌年1月、宇喜多勢は上月城を攻撃してこれを奪い返し、直家は元上月城主であった上月某を指名し守らせた。
しかし、3月、秀吉率いる本隊が上月城を包囲。
守将・上月某は宇喜多勢とともに防戦したが、直家が派遣していた江原某が羽柴軍に内応したために城内は大混乱。上月某は城外に脱出したが逃げおおせずついに自害して果てた。

直家は、動いた。
甥で養子の基家を秀吉の陣に送り、

お味方に参じて忠勤をぬきんでたい(人一倍励みたい)。

ところが、最終的には上月城攻防戦は毛利が勝ってしまう。
直家は、上月城で吉川元春、小早川隆景に拝謁して、賀詞を述べている。
首鼠両端、二枚舌というやつである。


さらに直家は播磨を引き上げる元春、隆景を招待して饗応しようとした。
二人は招待を受けた。
が、結局はドタキャンして行かなかった。
謀殺が頭をよぎったのだろう。

毛利か。織田か。
直家の決断のときは来た。
『陰徳太平記』では、重臣を一堂に集めてどちらに属するべきかの意見を聞いたことになっている。
みな黙っていたが、戸川秀安という古参の臣が、

織田家しかるべし。
その分国は、毛利家が十カ国で総石高数百五十万石に過ぎないのに、織田家は二十余カ国、総石高数三百万石にあまるだろう。大は小を兼に敵せず、織田家の勝ちに終わるのは必定でござる。


と発言し、全員が賛成したという。
直家が戸川に言わせたのかもしれない。

しかし、どうすれば織田と組むことができようか。
岡山の商人に弥九郎という若者がいて、宇喜多家に出入りしていた。
弥九郎の父は堺の豪商・小西隆佐といい、秀吉にその才能を買われその財産管理を任されていた。秀吉との結縁はこの小西父子によるところが大きい。
ちなみに弥九郎はのちの小西行長である。
小西父子の斡旋のおかげで、秀吉を取次とする直家の織田陣営入りは首尾よくいった。
直家、50歳であった。

翌年(1580)、直家はほんとうに病気になった。
史料には、

直家の腫物は、尻はすといふものにて、膿血出づることおびただし。是をひたし取り、衣類を城下の川へ流し捨つる

とある。
〝尻はす〟がどんな病気かは不明だが、身体の表面にできた腫物から膿や血が大量に出たため、膿と出血を拭き取った衣類を川に流して捨てたと読める。

どうも死病のようだ。
直家には一子がいる。このとき八歳。
八郎という。のちの秀家だ。

以下、司馬遼太郎著『豊臣家の人々』による。

死にのぞんで直家のねがいは、

息のあるうちにひとめ羽柴殿に会い、八郎の前途のことなどを頼み入りたい

ということであった。
秀吉は承知した。
(略)
実父直家の病床での秀吉の態度も、八郎の終生わすれられぬところであった。

幼き者を遺してゆくこの身のなげきをお察しあれ

と、直家は痩せた手をのばした。秀吉も手をのばし、直家の手をわが掌につつんでやり、かれ自身も泣いた。この秀吉の涙をみて直家は安堵し、

八郎のことかえすがえす頼み入り参らせる参らせる

と、何度もかきくどいた。


羽柴秀吉 新歴史紀行ウェブサイトより

 

直家と秀吉の対面はこの一度きりだったようである。
その後、病が篤くなり1581(天正9)年2月14日に死んだ。

直家は謀殺に謀殺を繰り返したが、不思議なことに家臣から背かれることはなく、畳のうえでその生を終えたのである。

秀吉は約束通り、八郎を可愛がった。
元服に際しては自らの一字を与え秀家と名乗らせた。
それだけでなく養子にまでしようとした時期もあった。
養子にはならなかったが、長じて大老となった。
五大老である。

徳川家康
前田利家
毛利輝元
宇喜多秀家
小早川隆景

むろん、直家はこの世になくこのことを知る由もない。
さらに、秀家が関ヶ原の戦いに敗れ、しかし死なず、八丈島に流刑となり、その血筋はその地で明治になるまで続いたことなど夢にも思わないだろう。

 

宇喜多秀家 世界の歴史まっぷウェブサイトより

余計なことだが、秀家に少しふれたい。

秀家は九歳のときに父と死別した。
直家にしてみれば彼の教えを秀家にそそぎこむことができなかった。
そういうことだけではないだろうが、秀家には直家に似たところがまったくない。

秀家が八丈島は配流になったのは1606(慶長11)年4月のことである。
亡くなったのは1655(明暦元)年11月のこと。享年84。
約50年間を八丈島で暮らしたことになる。

秀家が80を過ぎた頃のこと。
備前岡山藩主・池田光政の領内の商船が風に流されて八丈島に着いた。
秀家は故郷の船が来たというので、船頭たちに会って懐かしげに物語をしたという。

秀家は岡山にはいま誰がいるのだと聞いた。

新太郎少将がおいででございます。

新太郎少将?誰のことであろうの。家老どもは誰だ?

船頭が家老の名前を言うと、

おお、おお、池田家じゃな。

とうなずき、所々に城が多いとか、城の北にわしのとき伊勢神宮を祀っておいたがいまでもあるか、と問うた。

お伊勢様はございます。しかし、付近一帯家中の方々の家がひしひしと立ち並んでおります。

おお、おお、さては世は本当に太平になったのじゃな。乱世ならば、武士どもは国境の城々に分けおくゆえ、岡山には武士の家は多くないはずじゃからな。さてもさても太平になったのじゃな。

秀家は直家とともに戦国という魔界をくぐりぬけてこなかった。
生まれ持った大封に苦労を知らず育ってきた。秀家はそうした者の持つ美質はすべて兼ね備えていた。
かつての五大老にして八十を過ぎた流罪人が、かつて自分のものだった故郷の船頭らと嬉々として交歓している姿は、そのことをあらわしている。

父である直家はこうした美質は微塵も持っていなかった。それとは正反対の悪逆の人であった。
しかし、彼らが生きたのは戦国という魔界だ。
こんな時代は正義心や善良な性質だけではとうてい生きられない。相当以上のしぶとさ、図太さ、ずるさ、あくどさが必要だったのだ。
直家が成功し秀家が失敗したのは、当然のことであったといえる。


悪の直家が栄え、善の秀家が滅ぶ。
二人の生きざまは、戦国時代とは何なのかということを、私たちに考えさせてくれる。


【参考】

海音寺潮五郎『悪人列伝(三)』(文春文庫)

海音寺潮五郎『新名将言行録』(河出書房)

司馬遼太郎『豊臣家の人々』(角川文庫)