宇喜多直家に魔は棲むか②〜直家の魔の正体に迫る〜 | 天地温古堂商店

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宇喜多興家

直家の父であるこの人にはわからないことが多い。

直家が島村観阿弥を祖父の仇と言ったように、祖父・能家は観阿弥に居城の砥石城を夜襲され自害した。
城を追われた能家の子・興家と孫の直家は備前福岡の豪商・阿部定善(じょうぜん)の元に身を寄せた。直家は6歳だった。
興家はこの地で定善の娘との間に二児をもうけたが〝不遇のうちに〟この地で病死した。
二児とは直家の弟忠家と春家だが、直家の母は不明だ。

直家の祖父・宇喜多能家(岡山県立博物館蔵) Wikipediaより

謎の多い興家だが〝不遇のうちに〟を読み解く逸話が『常山紀談』にある。
上の話と筋はすこし違うが、ここに直家のもつ人格の本質があるような気がする。

興家は、父・能家が殺されたとき、家を逃げ出して備中あたりをさまよっていた。
生まれつき愚鈍な少年だったらしく、乞食同然の生活をしていた。
その後、備前に帰り福岡あたりに住んでいた。
福岡の豪商・阿部定善が能家と親しかったので、興家をあわれに思い引き取ったが、愚鈍なため牛飼いにして働かせることにした。
年ごろになったので、使用人の下女と夫婦にしたところ、三人の子が生まれた。
長男が直家、次男が忠家、三男が春家。
直家が5歳のとき父・興家は死んだ。

〝不遇のうちに〟とはこの経緯をさす。

直家が8歳のとき、母が浦上家に奉公に出た。直家のことは阿部定善にたのんだ。弟らのことは姉にたのんだ。
食っていくためだ、やむを得ない。
こうして一家は離散状態となった。

直家の身の上に変化が起きたのは11歳の頃のことだ。
直家はにわかに阿呆になってしまったという。
直家が15歳のとき母を訪ねたところ、母は直家を見て涙を流し、

そなたは惣領だから、せめて人並みにあってほしいと思うていたに、えらい阿呆になってしもうた。

と嘆いた。
すると、直家は顔を母に近づけてささやいた。

わしはほんとは阿呆ではないのじゃ。
わしは思うところあって、阿呆のふりをしているのですわい。誰にも申してくださるな。人に知れたら、わしの念願はかなわぬことになるほどに。


そう言って母に、浦上宗景への仕官の取り計らいを懇願したのだ。
直家の念願とは、殺された祖父の無念を晴らすことと、仇討ちをできず不遇のうちに死んだ父の無念を晴らすことであった。

母の喜びはひとしおで、浦上宗景に願って、直家を取り立ててもらうことにしたのである。

殺された祖父・能家の遺族としての亡命生活
父・興家の流浪とその致命的な性情
父の死後の一家離散
阿呆を偽装した十年の少年時代


直家のここまでの境遇は、その後の彼の性格を形作るうえで大きいものだった気がする。

自分のみを信じ、他を信じない
自分を韜晦して、人に本心を見せない

そして、直家は韜晦し続けるなかで、本当の自分を内観し、自分の才能や力量を客観的にみることができるようになったのではなかろうか。
他の武将になくて直家にあるものとすれば、現実に対する負の情念だろう。
こういう現実を作り出した世の中をひっくり返してやりたいという暗い欲望が、わしにはできるという自信とともに湧き上がっていたのではないか。


宇喜多直家 Wikipediaより

しかし、直家の悪謀の成り上がり者というステレオタイプな人物形成のにおいは民間伝承によって濃いように思える。
野史によると、直家の謀殺の履歴は枚挙にいとまがない。
野史とは、つまり幕府や朝廷などが編纂した正史ではない。
私人や名も伝わらぬ著者が自分の観点から編纂したもので、伝聞、巷説、文芸などが真実と誤解されそのまま民間に流布したものも含まれている。

野史にいわく、直家は美作半国を有する豪族・後藤勝元と交わりを結び、次第に懇親を重ねて、ついには後藤の娘を妻にもらい、油断させておいて毒殺して所領を奪った。

またいわく、直家の味方として長く毛利氏への橋頭堡となっていた伊賀久隆であったが、突如謎の死を遂げた。このとき直家が死病に冒されていたことから広大な所領を持つ久隆の存在を危惧して毒殺した。

こうして勢力を拡大してゆくと直家はついに大勢力・毛利氏の勢力と衝突することになる。毛利氏は十カ国数百万石を領する巨大勢力だ。

もう今までのようにはいかない。

毛利勢の先鋒は備中松山城主・三村家親という。
家親は松山城を出て美作の小城に攻めかかるなど宇喜多側を刺激したが、直家はそのほかの勢力の動向が気になって岡山の居城を動けない。
そこで、進藤喜三郎という新参者を呼び寄せ、家親を見知っているかを尋ねた。
知っていると喜三郎が答えると直家は、

そちは美作に潜行し、工夫して家親を討ち取ってきてくれ。
見事しとげてくれたなら、譜代の者同様、重く取り立ててやろう。


喜三郎には修理という弟がいる。
弟にそのことを告げると、同行することになった。


兄弟は家親が陣を取っている寺を突き止め、障子の破れ目からのぞいてみると、柱にもたれ暝目して考え込んでいる家親を見つけた。


喜三郎は障子の破れ目に鉄砲を差しあて、狙いをすませて一発を放った。


弾は家親の胸板を貫き、家親、即死。


直家は褒美として喜三郎に一万石と城を与え、修理には別の城を与えたという。
ここでも直家は戦国史上にない銃弾による暗殺をしとげたのだ。
このとき直家、37歳。

 

三村家親の居城・備中松山城 nippon.comウェブサイトより

謀殺につぐ謀殺。
しかし、こんなこともいえはしまいか。
領主個人を殺害はするが、大きな戦さにならないため、多くの兵を殺さず、庶民に乱暴狼藉をせず、田畑を荒らさず、国だけを盗るのだ。

武田氏や後北条氏のように分国法などを直家が作ったなどと聞いたことがないので、さすがに撫民の実態はわからないが、国土荒廃・人心疲弊ということはなさそうだ。


1574年の中国地方勢力図 noteウェブサイトより
 

しかし、その戦さが起きることになった。
宇喜多直家、生涯ただ一度の大合戦である。
しかも、自ら仕掛けた戦さではなく防衛戦であった。
三村家親を暗殺したことの揺り返しのようなもので、家親の二人の子・元親と元祐(庄元祐)による弔い合戦である。

三村側の戦略はこうだ。

まず、宇喜多方の出城である妙善寺城を取る。すると直家はそれを奪回しようとして沼城から出てこよう。その間隙をぬって沼城を攻め落とし、直家を挟撃して討ち取ってしまおう。

元親は精鋭500でもって妙善寺城に夜襲をかけ乗っ取りに成功した。
急を聞いて直家は自ら兵をひきいて妙善寺城に向かう。
元親にとってはもくろみ通りだ。
大いに喜んで総動員令を発し、2万余の兵が備中を進発し備前に侵攻してきた。


途中、軍を三つに分け、

一軍を庄元祐がひきい妙善寺城の後詰とし、

一軍を石川久智(元親妹の舅)がひきい直家の陣に向かい、

一軍を三村元親がひきい長躯沼城へ向かった。


三村元親 歴史の目的をめぐってウェブサイトより

直家は妙善寺城の三キロほど北方にある陣でこの報に接した。
直家は物思いに耽っていたが、一軍がまもなく妙善寺城に入るという報告を聞いたとき、すっくと立ち上がって兜をかぶり、馬を引き寄せうち乗ると、大音声でさけんだ。

かかれ者ども!妙善寺城を一気にもみつぶすのだ!
しくじれば味方の大敗は必定じゃ!いのちの助かる者はだれもおらぬ。
妙善寺城さえ落とそうものなら、備中勢が何十万と、押し寄せようとみな討ち取れるぞ!みな勇め!


そう言い終えると直家は、馬蹄を響かせ土けむりを立てて一散に駆け出した。
宇喜多の兵にしてみればこのような殿様を初めて見た。
兵たちは、いまこそ死すべし狂うべしと思ったろう。
妙善寺城の包囲兵は遮二無二に突撃した。

直家にひきいられた連中も死に遅れじとばかり、突撃した。
斬って捨て、突いて捨て、進むばかりで一歩も退かない。


ついに三方の木戸を打ち破って城内に乱入したので、城兵たちは城に火をかけ、残る一方の木戸口から裏山に逃げ出した。

不幸なことに他の二軍はこの状況を知らなかった。

情報戦に敗れたともいえる。
三村勢は妙善寺城からバラバラと逃げてきた自軍の惨状を見て、初めて現状を知った。

山上からこれを見ていた直家の先鋒隊数千騎がここぞとばかり山を駆けくだり、三村勢に斬りかかった。
三村勢はたちまち斬り崩され、庄元祐と石川久智は討死。
三村元親も奮戦したが、多くの犠牲を出していのちからがら備中に逃げ帰った。

このたび備前へ押し入る敵二万余の人数、大方討死して、生き残って備中へ帰る者は十分にしてその二つばかりなり。(略)
直家一代の勝ちいくさなり。

(『妙善寺合戦記』より)


木っ端微塵とはこのことだろう。

この一戦で宇喜多直家の武名は安芸や播磨まで轟きわたった。
謀殺に謀殺を重ねてきた直家であったが、初めての戦さに大勝利し、浦上氏の被官ながら実質的には備前を支配する戦国大名となったのである。