大河ドラマ名優録⑤〜中井貴一の壁と果実〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

俳優・中井貴一。

1961年生まれ。
彼は昨年、朗読劇『終わった人』で定年退職したサラリーマンを演じ、好評を博した。
どうやら今夏再演されるようだ。
いま彼は62歳だから、サラリーマンならば彼自身も『終わった人』のころだ。

彼は、演じるにあたりこうコメントしている。

私の同級生達も、年齢的に「終わった人」の門口にさしかかっています(笑)
それに反し、俳優という仕事は幸か不幸か「終わった人」になるかならないかは自己判断。故に、ここからが、大きな人生へのチャレンジになる様な気もしています。


彼は俳優だ。
定年がない。

僕たちの職業には終わりがありません。
ただ、友人から電話がかかってくると「あと2年で俺は終わりだよ」などと告げられて、そうすると、ああ僕たちも「終わり」という言葉を使う年齢になったんだなと改めて感じます。
そうした同年代の友人たちに向けてのエールや悲哀をこの朗読劇でやらせていただいたたら面白いんじゃないかと思って興味を惹き、お引き受けいたしました。

(『終わった人』取材会でのインタビューより)

彼は、俳優でありながら、努めてサラリーマンに代表される普通の勤め人の意識や気配が濃くあるように思った。
そのあたりのことは最後のほうで述べたい。

実は私は彼と同い年だ。
あまりにも隔絶した人生だが、それだけで共感がわく。
だからというわけでもないが、僭越ながら以下、貴一さんとよばせていただく。

私は、佐田啓二(1926〜1964)という俳優をリアルでは知らない。先日、初めてNHK『花の生涯』の再放送で拝見したのみだ。
木下恵介監督の映画『喜びも悲しみも幾歳月』や小津安二郎監督の映画『秋刀魚の味』に出演、映画『君の名は』の大ヒットで知る人ぞ知る昭和の名優である。
ただ、薄命であった。
貴一さんはその佐田啓二のご子息である。

貴一さんは、映画『連合艦隊』(1981)で俳優デビュー。
ドラマ『ふぞろいの林檎たち』(1983)で一世を風靡し、NHK 大河ドラマ『武田信玄』(1988)では主役を演じる。
映画『ビルマの竪琴』(1985)、『四十七人の刺客』(1994)、『梟の城』(1999)など多数出演。
映画『壬生義士伝』(2003)で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。
『記憶にございません!』(2019)ではブルーリボン賞主演男優賞を受賞。

中井貴一 映画ナタリーウェブサイトより

いまとなれば赫赫たるキャリアをお持ちの大俳優だ。
しかし、それは彼が名優の子だからではない。

強力なプロダクションや庇護者があったからでもない。

彼は、その出自を含めて中井貴一であるからこそ眼前に立ちはだかった壁を苦闘の末に乗り越え、それを繰り返した果てに果実を手にしたのだ。

貴一さんは、2歳のとき父君を交通事故でなくされた。そして大学在学中に映画『連合艦隊』に出演して俳優デビュー。
その後、映画とテレビドラマに1本ずつでたあとが『ふぞろいの林檎たち』だ。

私が貴一さんを初めて観たのは、やはり『ふぞろいの林檎』だった。役名は仲手川良雄。酒屋の次男で四流大学に通うまじめで不器用な青年だ。

不器用な青年。

むかしはこのタイプの主人公がドラマには結構いた。

二枚目俳優・佐田啓二の忘れ形見。
デビュー作で新人賞受賞のプリンス。
そのイメージの彼が、この役柄でメジャーになったことが大きかったと私は思う。

脚本は山田太一。

ふだんは物腰が柔らかだったという山田氏が貴一さんにあるときこう言ったという。

私の台本は、語尾の一つまで考えて書いておりますので、一字一句変えない様に芝居をしてください。

貴一さんは、

台本を通して、私に芝居というものを教えてくださっただけでなく、その台本から、人としてのあり方までも教わった様に思います。言い尽くせぬお世話になりました。

そう振り返る。

 

ドラマ『ふぞろいの林檎たち』より ミドルエッジウェブサイトより

さて、大河ドラマ『武田信玄』(1988)。
その前年の大河は『独眼竜政宗』。大河ドラマ史上最高視聴率をたたきだしたお化け番組だ。主演は渡辺謙。

当時、異例なことが起きていた。
『武田信玄』のキャストが決まる前、すでにその次の年の大河ドラマについて、脚本・橋田壽賀子、作品は『春日局』、キャストもすでに決まっていたという。

そんなことってあるのか。
あいだに挟まれた『武田信玄』は、企画だけが決まっていながら誰ひとり役者が決まっていない。
『独眼竜政宗』や『春日局』と俳優がダブらないように配慮しながら、キャスティングするのは至難のことだ。

そんな中で、ついに中井貴一に初大河のオファーが来た。
主役ではなかった。

実は、最初にオファーをいただいたときは、信玄の宿敵、上杉謙信役だったんです。
前の年がすごい視聴率を取った「独眼竜政宗」。
NHKに行ったら「初めての大河で、『政宗』の次の主役の責任を負うことはない。2番手の謙信役をやってもらっていずれ主役を。清潔感があってしゅっとしている中井さんは、謙信のイメージにぴったり」と説明されました。

(「大河のころ 中井貴一(1)」2018.7.1サンスポWEBサイトより)

たしかに貴一さんの風貌は、信玄というより謙信だ。

ところが、次の日に電話が来て「武田信玄をやってもらいたい」と。
話が違うよ! 
なんで急に変わったのか、僕にも全然分からなかった。

(同上)

テレビドラマ3作目にして大河ドラマの主役だ。

彼は悩む。
信玄のイメージは、丸顔ででっぷりしている。どうメイクしてもフォルムが違う。
また、前年の『独眼竜政宗』は平均視聴率39.7パーセント、最高視聴率は47.8パーセントを記録している。明らかに不利だ。
ババを引く可能性だってある。いや、おそらく引く。

貴一さんは、自分のことをあまのじゃくだという。
「政宗」の後だから責任重大だけど、責任がないものをやっても面白くないと。
そして、1964年に彼の父が交通事故で亡くなった場所が山梨だった。その地の武将の話が来るのは縁かな、信玄役をやれってことなのかと思ったという。

ここに奇縁がある。

『武田信玄』のチーフプロデューサー・村上慧氏は大河第一作『花の生涯』のスタッフだった。彼は佐田啓二に出演交渉をしに自宅まで来ていたのだ。
時代劇は不慣れだという佐田を口説くために1か月通ってようやく承諾してもらったという。そのとき貴一さんは1歳。
父の膝のうえにでもいたのだろうか。

 

佐田啓二 NHKアーカイブスより

村上氏は企画開始のころ、脚本の田向正健氏と甲府の街を歩き、駅前にある丸顔の信玄像を見たとき、

こういう信玄じゃないよな

と語り合ったという。

果たして村上氏は、信玄像を『花の生涯』のときに口説いた佐田啓二に求めていた。
村上氏は回顧していう。

(佐田氏の)ご自宅まで出演を頼みに行ったら、そこで赤ん坊が泣いていましたよ。それが中井貴一でした。
彼のお父さんのイメージを重ねたのもあります。それからどこかで佐田さんに恩返しをしたいと思っていたというのもあります。それで中井貴一に決めたんですよ。


亡き父がとりもった奇しき縁のようだ。

思ったのは、ドラマがシリアスだったことだ。
中井信玄にほとんど笑顔がない。
微笑すらあったかどうか。
重々しい暗いドラマだった気がする。
しかし、ときは戦国、秩序なき世だ。没落や死と隣り合わせの食うか食われるかの世界だ。
田向氏の脚本は、むしろ当時の現実に忠実で笑いの要素やほのぼのとした描写はまず見当たらなかった。

野望
憎悪
愛欲
嫉妬
狂気
虚しさ

焦点は、信玄と謙信というより、父と子、正室と側室、主君と家臣という人間関係にあった。
なにせ信玄は父の国主・信虎を追放し、また、嫡男・義信を幽閉し死に追いやっているのだ。

闇がないわけがない。

このとき中井貴一、26歳。
大河の主役としては当時、史上3番目の若さだった。

ちなみに最年少は24歳で『源義経』に主演し尾上菊五郎(当時は菊之助)。
次いで25歳で『竜馬がゆく』に主演した北大路欣也である。

近年の主演を見てみると『鎌倉殿の13人』の小栗旬、『どうする家康』の松本潤は39歳、『真田丸』の堺雅人は42歳だ。(いずれも撮影時)

信玄を演じるには若かった。

 

大河ドラマ『武田信玄』の制作発表 サンスポウェブサイトより

貴一さんは、はっきりと言ってはいないが、撮影期間中の長い苦衷を漏らしている。

僕を主役と認めないスタッフもいたようです。いじめに近いこともありました。でもそれに徹底して立ち向かおうという一年でしたので、人間的に鍛えられました。

どうも大きな試練だったようで、こうも言っている。

演技を否定されるのならば自分の努力でなんとかやりようもあるが、人間的に否定されるようなところがあって、撮影中ずっと悩み続けた。

この相手はどうも田向氏だったようだ。
人間的に否定とは、人格否定ということか。年も違う。
力関係も違う。
期間も長い。
よくやり続けられたと思う。

彼を苦境から救ったと思われるエピソードがある。

菅原文太が演じた重臣・板垣信方は11話で討ち死にする。
当時、出演者が死を迎えるごとに、打ち上げをしたそうで、そこで菅原が貴一さんにこう言った。

これから俺は、お前を撮影では支えられないけれど、『武田信玄』の1番のファンになる。これはな、貴一、お前の番組だ。
わがままを言っていいんだ。
それがお前の番組ということだ。
撮影には来ないけれど、ファンとして俺が見てるってこと忘れないでくれ。


重臣・板垣信方を演じる菅原文太  NHKオンデマンドより


菅原もかつて大河主役の重責をになった一人である。この若き後輩が背負った重責や耐えがたい軋轢に気づいていただろう。
菅原のこのことばは涙が出るほど嬉しかったのではないか。

信玄は老いて53歳で死ぬ。
20代の貴一さんは、晩年の貫禄ある老いた信玄の演じなければならなかった。

お年寄りを観察して歩き方を真似たといい、先輩俳優を観察して時代劇の発声を勉強したという。

セリフを上手く言えるかどうかではなく、どういう声を出すか。
でも、その声を出そうということはしません。その感情を持っていった時に自然と出る声というのは大事にします。


武田信玄を演じる中井貴一  NHKオンデマンドより

貴一さんは大河ドラマを時代劇として捉えているようだ。そして、それは先輩から後輩へと継承されるものだと。
それがわかったのは信玄よりもずっと後のことだったという。

時代劇は役者の世界で唯一、継承ができるものだということです。(略)
時代劇がなくなったら、その瞬間にその文化も消える。ゼロから新たに立ち上げるのは不可能です。脈々と続いていることに意義があるんです。


今、時代劇を連続で見られるのは、大河ドラマくらい。
日本のエンターテインメント界に大きな役割を果たしてくれている。
今後も時代劇の美しさ、所作、日本人の心はきちっとありながら、新しい大河にトライしてほしい。
改革をしながら伝統を守ってほしいです。


一昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が終わった後、脚本に関わった三谷幸喜氏の授賞式の席で、出演者の一人だった俳優の佐藤浩市氏はこう言った。

いまの時代劇も二極化してきて、われわれが知っている、そして先人先達が作ってきた時代劇と、いま若い人のフトコロにポンと飛び込んでいける時代劇。


(三谷氏は)それを作られる。


しかも、それをいい意味でコンサバティブな大河ドラマの中でやられた三谷幸喜という人はやはりすごい。

改革と伝統。

佐藤氏と貴一さんの言っていることは、ある意味で同じだろう。

貴一さんは、20代で大河ドラマの主役を演じ、得がたい体験をした。
大河ドラマで越え難い壁を越え、その後の俳優人生への大きな果実を得た。
愛着もあろうし、大切に思う心もあろう。

たとえば、大河ドラマ『徳川家康』で主役を演じた滝田栄氏は述懐している。

「家康」が終わった時、石坂浩二さんに「大河ドラマをやったら10年は引きずる。滝田君、家康も10年は消えないよ」と言われまして。
たしかに、そうでした。
あの頃は普段も家康のままだったんでしょう。家族も迷惑だったと思います。


貴一さんは、主役への思いを言い方を変えてこう言っている。

1年3カ月も撮影した『武田信玄』への思いは今も強いです。
他の作品で別の役者が信玄を演じているのを見ると、なんで俺じゃないんだろうと、今でも思いますね。


『武田信玄』は最高視聴率49.2%、平均視聴率39.2%。
なんと史上最高だった前年の『独眼竜政宗』の平均視聴率39.7%と0.5%差に肉薄。堂々の大河史上2位だ。最高視聴率では『独眼竜政宗』の47.8%を超えたのである。



貴一さんはいま、62歳。
私にはさしたる壁も果実もなかった半生のような気もするが、貴一さんは35年前のあの壁と果実によって、いまも信念を持ち輝いている。

壁を作るのも人間なら、それを越えるのも人間であり、その背中を押すのも人間だ。
ようやく私にも、そのようにして自分の人生が紡がれることだけはわかるようになった。


27歳で信玄の死までを演じた  NHKオンデマンドより


以下は余談になる。

貴一さんは、いままで俳優を続けてこれた理由について話している。
ただ、この話は本稿のはじめに、中井貴一は俳優でありながら、努めてサラリーマンに代表される普通の勤め人の意識や気配が濃くあるのではないかということの答えでもある。

春日太一氏著『すべての道は役者に通ず』から引用して、この稿を終わりたい。

貴一さんのデビュー作『連合艦隊』の次作は映画『父と子』だった。その撮影時の話だ。
父親役は小林桂樹氏(1923〜2010)。

 

小林桂樹の言葉が中井貴一の役者人生を決めた NHKアーカイブスより

『連合艦隊』を観て小林さんが指名してくださったようです。東北地方を移動書店で回る親子という設定で、撮影は1か月ずっと東北でしていました。
その間、小林さんは僕を毎夜、飯に連れていってくれたんです。
その時『就職するか?』って聞かれました。

当時僕も二十歳で、『役者としてダメだったら就職したい』と言ったところ『それなら口を利く』と。
飯を食う度にその話をされるんです。
遠回しに『役者に向いてない』と言われてるんじゃないかと思いまして、三十日の撮影のうち、二十日過ぎたくらいには就職をお願いする気になっていました。

ところが、最後に飯に連れていってもらった時、『俺はさ、貴一ちゃん。お前に役者になってもらいたい』って言うんですよ。
『これからの時代はアウトローが主役をする時代になる。俺らの頃はサラリーマンが主役だった。サラリーマンがいるから、アウトローも存在できる。サラリーマンを演じられる人間がいなくなったら、アウトローも存在しない。お前には、王道を歩む俳優になってもらいたい。
アウトローに比べ、正統派と言われる俳優は、評価されない。でも、お前はそれを貫ける。それを貫いた時、周りのアウトローは輝ける。アウトローの時代に、みんながアウトローしかできなかったら、映画は輝けない。お互いが分をわきまえることで映画の成功はある。お前には、その道を歩んでほしい』と。

その時、小林さんの真剣な目を初めて見ました。それまでの二十九日は、この時の『振り』だったんです。
この三十日目の言葉を僕に強く伝えるためのね。
その言葉で、僕は役者を続けようと決めたのかもしれません。


【参考】
春日太一『すべての道は役者に通ず』(小学館)
春日太一『大河ドラマの黄金時代 』(NHK出版新書)
『大河のころ 中井貴一(1)〜(5)』(サンスポWebサイト)