生きている敗者たち〜4つの不死伝説、その向こう側〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

源為朝
朝比奈義秀
大塩平八郎
西郷隆盛

彼らはみな敗者である。
敗れて非業の死を遂げた。

しかし、彼らはみな生き延びて、そして、違う人物となって蘇っている。
ひとはそれを不死伝説とよぶ。

冒頭の彼らに共通しているもの、それは民衆から愛されていることであり、惜しまれていることである。
生きていてほしいという強い思いが、彼は生きているという伝説となるのだろう。

◉源為朝

源為朝は鎮西八郎の名で知られている。
2メートルを越す大男であり、強弓の使い手であり、前に出して弓を支える左腕が後で弦を引く右腕よりも12cmも長いという剛勇無双の者だ。
つまり超人なのである。

保元の乱にあって、時運味方せず、為朝は戦いに敗れ逃走。しかし、捕縛され死罪となるところ、その武勇を惜しまれ、弓が引けないようにひじの腱を切られて、伊豆大島に流刑になった。
やはり為朝は異常なほど剛勇であった。
源頼信以来、源氏には剛勇の血が多量に流れている。
為朝はその最たるものだ。
流罪の身でありながらも大暴れして、伊豆七島を攻め取り、とうとう最後は官軍に攻め込まれて自害した。

正一位為朝大明神肖像(画・歌川国芳) Wikipediaより

が、異説がある。
為朝は伊豆大島で死んではおらず、琉球に渡ったというのだ。

琉球王国の正史『中山世鑑』には、為朝が琉球へ逃れ大里按司の娘(妹?)との間に子ができ、その子が初代琉球国王・舜天になったとしている。

為朝の伝説が大きく流布したのは、滝沢馬琴の功によるところが大きい。

滝沢馬琴は江戸時代後期の作家で、有名な『南総里見八犬伝』の作者だ。

馬琴は八犬伝より前に『椿説弓張月』を書いている。
挿画は葛飾北斎。

大弓を引く源為朝・『椿説弓張月』より(画・葛飾北斎)Wikipediaより

正式な作品名は、『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』。
後世のいまは八犬伝の方が有名だが、当時はこちらのほうが有名で、庶民から絶大な支持を得た。
北斎の挿絵の妙もあって、庶民の想像力を掻き立てたろう。
商業的に大成功を収め、馬琴の作家としての地位を確たるものとしたのである。

不死伝説はただでは生まれない。
剛勇、非業など敗者のキャラクターのほかに、虚実ないまぜになったメディアの存在が、伝説となるには必要なことがわかる。


◉朝比奈義秀

あまり聞かない名前だ。
通称、三郎。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場した鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛の三男だ。

為朝同様、義秀もまた剛勇の者である。
水練が達者で将軍頼家の前で、海底に潜り3匹のサメを抱きかかえて浮かび上がってきたといい、また怪力の持ち主で鎌倉にある朝比奈切通を一夜にして開削したという。

朝比奈義秀サメ退治(画・歌川国芳) アフロウェブサイトより

『源平盛衰記』には、母は巴御前だと書いてある。巴とは木曽義仲の愛妾で女武者といわれた豪女だ。義仲敗死後、捕虜となったのを義盛が頼朝に乞うて身請けをした。
その後、義盛と巴の間に生まれたのが義秀だというのだ。
五輪の金メダリストを父母に持った強健な若者のようなものだったのだろうか。

和田合戦は幕府軍と和田一族の間に起きた鎌倉市街戦である。
1213(建暦3)年5月、和田勢は北条義時の挑発を受けて挙兵、御所を襲撃した。
義秀は獅子奮迅の勢いで暴れまくり、『吾妻鏡』は

神の如き壮力をあらわし、敵する者は死することを免れず

と書いている。
しかし多勢に無勢、翌日には和田勢は疲れ、次第に数を減らし、やがて弟が討たれ、父・義盛も討ち取られた。

 

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の和田義盛(演・横田栄司)(C)NHK サンスポウェブサイトより

 

一族の者たちが次々と討ち死にする中、剛勇の義秀のみは死なず船6艘に残党500騎を乗せて所領の安房へ脱出した。
あまりに強かったため、死場所を探しても死ぬことができなかったのだろう。

その後、義秀は生きて朝鮮に渡ったともいい、熊野灘で遭難し紀伊国太地に漂着して住みついたともいわれている。
太地は日本の古式捕鯨発祥の地だ。その開祖とされるのが和田忠兵衛という人だが、この人は朝比奈義秀の末裔にあたるというのだ。

しかし、生死定かならぬなかで幕府は討ち取ったものとして義秀の消息を処理している。
彼もまた、剛勇勁烈の者であり、追い詰められて立ち上がり、陥穽に落ちて滅亡した悲運の一族だ。

『吾妻鏡』は幕府の記録文書だ。
幕府がそれに仇した義秀を賊と呼ばず、その剛勇を称賛していることはめずらしい。
北条義時らが、罪なき和田一族を陥穽に落としたことへの後ろめたさがそうさせるのか、はたまた、為朝や鎌倉権五郎のような剛勇無双の者をリスペクトする鎌倉武士の気風なのか、おそらくはその両方であろう。

◉大塩平八郎

大塩平八郎は、為朝や義秀のような剛勇の者ではない。
江戸時代の大坂町奉行の与力であった。
大塩は飢饉による農民の困窮に無策であるだけでなく圧政に及ぶ幕府に対して、武装蜂起して反乱を起こした。
結局、乱は鎮定され包囲され、子の格之助とともに自爆して死んだ。

しかし、遺体が丸焦げで本人と判断できなかったため、生きて逃亡したという風説が広まったのだ。

 

大塩平八郎像(画・菊池容斎) Wikipediaより

異説では、大塩平八郎父子が乱を逃れ、中国に渡ったという。
世界史で習った「太平天国の乱」の指導者、洪秀全は大塩平八郎もしくは子の格之助だというのだ。
洪秀全は元は占術師であったが、広西地方一帯の飢民を救済し、やがて四方を経略して南京に太平天国を建国した。

日本脱出もふくめ、その経緯がすこぶる面白いので書き留めたい。

反乱後、大塩平八郎父子は行方不明となった。
大坂町奉行所はこれをなかなか見つけられない。
幕府の目を気にした奉行所は、大塩宅へ出入りしていた商人の屋敷に隠れている者と断定しこれを襲撃。
中にいた天龍寺の旅僧二人を焼き殺し、大塩父子はこの者たちであるとし、焼死体を磔けにし、市中引きまわしのうえ、捨札を出して事件解決としてしまった。
顔もわからなくなっていただろう。

町の人々は大塩の死を信ずるものは一人もなく、必ず生ているものと信じられていた。
生き延びて米国船に乗り込んだとも、また小笠原島に渡ったという噂が流れたという。

伝説での大塩父子の脱出経路は、まず肥前天草に逃れ、それから長崎に出て、商船に身を投じて中国に亡命したのだという。

太平天国はキリスト教信仰の組織が元になっている。
大塩平八郎が太平天国を建国という結果から遡及して、天草・長崎という地名を用いたとも思われるがどうだろう。

大塩父子ははじめ中国(当時、清)の福州・黄檗山にたどり着いた。この寺の開祖は超然といい、かつて明の滅亡により日本に亡命してきた者で、亡命者同士という因縁を感じさせる。

大塩父子はしばらく黄檗山に滞留し、やがて中国漫遊の旅にでる。

そこで大塩は周雲山という商人と邂逅するのだが、この周雲山がのちに洪秀全の配下として太平天国の南王となる憑雲山だというのだ。
あとは、中国史に現れた洪秀全と憑雲山の2人が太平天国を建国する物語のとおりである。

この話は、石崎東国(?〜1931)の『大塩平八郎伝』に拠って書いた。

 

洪秀全 Wikipediaより

洪秀全は、アヘン戦争とその後の混乱を経験している。

中国が西洋列強に蹂躙される現実と宗教上の対立から、ふがいない清朝に反旗を翻したのだ。

 

太平天国の乱 世界の歴史まっぷより

『大塩平八郎伝』が書かれたのが1920年。
このころの日本は、第一次世界大戦に参戦し青島や南洋諸島を占領、シベリア出兵するなど大陸進出を強めている。さらに1932年には五族協和をスローガンに満州国が建国された。
大塩平八郎=洪秀全伝説は、当時のこうした日本の政情と大きな関連性があるようにも見えるが、このことは意外に大きいかもしれない。

そういう意味では最初に登場した源為朝の場合にも、ある政情が見え隠れしている。

徳川幕府は琉球に対して従属を求めたものの、琉球はそれを拒絶した。
幕府は琉球との交渉を島津氏に命じた。
1609年、島津氏は兵3千で琉球に侵攻し首里城を陥落させた。
琉球王は薩摩に連行され二年間も抑留され、

子々孫々まで島津にはそむかない

と誓わされた。
琉球国民にとっては大きな屈辱だった。

ところで島津氏の家祖・忠久は源頼朝の落胤とされている(諸説あり)。
一方、為朝は頼朝の父・義朝の弟にあたる。
伝説では為朝が初代琉球国王・舜天の父であるから、薩摩・島津氏と琉球国王は同祖ということになる。

もっといえば、為朝は清和源氏であり、琉球王家の遠祖は天皇家ということになる。
憎悪や怨念を同祖であることを強調することによって解消しようという政情がそこにはなかっただろうか。

 


沖縄・運天港に立つ源為朝上陸記念碑 じゃらんウェブサイトより


話を大塩平八郎にもどす。

大塩には別の伝説もある。
大塩平八郎が、川口雪蓬と名を変えて沖永良部島に潜伏しているうちに、ここに島流しにされてきた西郷隆盛と知り合った。
雪蓬はのちに西郷家の寄食し、西郷の子供らの家庭教師となって、西郷の死後も生きて1890(明治23)年に鹿児島で死んだ。

西郷の死後、そのことを知らずに西郷家を訪れた若者に雪蓬が大塩平八郎の書いた『洗心洞箚記』を取り出して、

これ、西郷が南島謫居中愛読して措かざりし書なり

と言ったと、その若者の記録に残っている。

たしかに西郷は大塩のその著書を所蔵し愛読していた。
この事実が結節点となって、大塩平八郎=川口雪蓬になったのかもしれない。



西郷隆盛流謫の地・沖永良部島 沖永良部島観光サイトより


◉西郷隆盛

史実の西郷は西南戦争に敗れ、鹿児島の城山で自刃して死んだ。

西郷ひとりの首だけがない。探索中である。詳細はあとより。

戦争終結後、そう大久保利通が漏らしたひとことで西郷生存説が生まれた。

そして、西郷は逃亡中にロシア軍艦に救われたという噂が流れた。

具体的な話は1891(明治24)年3月25日の鹿児島新聞に掲載された投書だというから、ずいぶん後になってからだ。

西郷がシベリアでロシア兵の訓練を行い、1884(明治17)年には黒田清隆が西郷を訪ねて、2人で日本の将来について議論を重ね、1891(明治24)年に帰朝すると約束した。

そういう内容である。

西郷隆盛 西郷南洲顕彰館ウェブサイトより

実は、西郷の首は官軍の千田という中尉によって発見され、山県有朋によって首実検されている。

しかし、西郷は死んでも人々にとっては英雄だった。

とくに明治政府に向けられる声なき国民の批判は、生きている西郷への大きな翹望となってゆく。
その正体は、不平等条約やロシアの脅威という明治政府の重い課題を、西郷なら解決してくれるという国民の熱い期待であった。


ロシアにいる西郷は、1891(明治24)年にロシアの皇太子が日本に来るとき同行してやってくるという噂がたって、日本中が大騒ぎになった。
大騒ぎというのは、大津事件のことである。

ニコライ皇太子は、京都から滋賀への日帰り観光中に暴漢が襲われ重傷を負ったのだ。
犯人は津田三蔵という巡査。津田はサーベルを持って、ニコライを斬りつけた。

 

大津事件 探検コムウェブサイトより

事件より前に、明治天皇が語ったということばが新聞に載った。

もし西郷が帰ってきたなら、西南戦争の官軍側の勲章を取り上げるか。

津田はこの言葉に激しく反応した。
津田は西南戦争において官軍として参加しており、勲七等に叙せられていた。
生涯の栄光であった。

西郷が帰ってきたら西南戦争の勲章を取り上げる

それだけは避けなければと、津田は西郷を連れてきたと噂されるニコライを暗殺しようとしたというのだ。

明治天皇の言葉の虚実はわからない。
しかし、たとえ事実だとしてもそれは、根強い西郷生還説への天皇のジョークなのである。

津田の動機は一つではなかろうが、まぼろしの西郷伝説によって大津事件が起きたともいえる。

 

西南戦争後、その死を悼む人々はそれを西郷星と呼んだ(画・梅堂国政) Wikipediaより

いにしえ、武家が歴史に現れる前は皇族や貴族が不遇の死を遂げると怨霊となってあらわれた。

長屋王
藤原広嗣
井上内親王
早良親王
伊予親王
橘逸勢
菅原道真

それが武家になると死んで怨霊になってたたるのではなく、生き延びて他者として復活した。
彼らに共通しているもの、それは民衆から愛されていることであり、惜しまれていることである。
生きていてほしいという強い思いが、彼は生きているという伝説となる。
そして、時々の政府や為政者の思惑で敗者たちの不死伝説が〝利用〟されるのである。


為朝は、義秀は、大塩は、西郷は生きている。
不死伝説もひとつの歴史の仮説だ。
史実として否定する証拠がなければ、推理で穴埋めして仮説になる。
不死の可能性はゼロとはいえないだろう。


作家の海音寺潮五郎氏はいう。

この推理というやつほど頼りないものはない。

仮説の立て方で白にも黒にもなるのだ。

つまり、史論の結論は最初から論者の胸中にきまっている。
論理はあとからさがされるのである。
だから、史学は科学より文学に近いのであり、文学より哲学に近いものだとぼくは思っている。


私は思う。
不死伝説が史論の結論なら、限りなく頼りなく脆い。

だけど、だからこそ心おどるほどにおもしろいのだと。

【参考】
海音寺潮五郎『歴史余話』(文春文庫)
真山知幸『西郷隆盛「ロシアで生存」説が生んだ大事件の真相』(東洋経済オンライン)
石崎東国『大塩平八郎伝』(大鐙閣)