望月の世への道⑦〜藤原摂関家・欲望という名の喜劇【後】〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

兼家をこのままにしておけるか。
絶対にそうはさせぬ。

兼通は、このまま死ぬわけにはいかなかったのだろう。

かつぎ起こせ!

と、さけんだ。
公卿らがただただうろたえていると、

車の支度をさせよ!

と命じ、衰弱しきったからだをかつぎ起こさせ、装束をつけ内裏へと向かったのである。

兼家参内の目的はなにか。

兄の死は、おのれの栄達。
 

◉兼家の権勢欲、兼通の近親憎悪

 

この一幕は、後世の私たちに「歴史とはこうだ」と見せるために演じた名ドラマのようである。

海音寺潮五郎の『悪人列伝』の一節を借りよう。

兼家は、兄の死は自分の栄達とばかりに、参内し、清涼殿で円融に謁して、関白にしてもろうことを請願していると、ふと物音がした。
みかども兼家も何気なくふりかえると、昆明池の障子のはずれから、幽鬼のようにやつれた兼通が「目をつづらかにして」立ちあらわれた。
おちくぼんだ両眼を激怒にらんらんとかがやかせていたのだ。

おどろいた兼家はつと立って、鬼の間の方に去った。

 

「目をつづらかにして」とは、目をかっと見開いてという意味だ。わずかに残された命をしぼり切るかのようだ。

 

兼通はよろめきつつご前に来た。
愚管抄によると四人に扶けられてとあるが、とにかくもご前に来てかしこまり、怒りに燃えた様子で、
「最後の除目をいたすためにまいりました」
と言い、蔵人頭を呼んで、関白には左大臣頼忠を任ずることとし、兼家からは右大将・按察使等の官をはいで治部卿におとし、中納言済時を右大将にした。
(略)
兼家の権勢欲も驚くべきだが、兼通の憎悪と執念もおどろくべきものだ。
これが兄弟なのだから、あさましさは一層である。

もっとも兄弟だからかえって憎悪が深刻になったと言えるのかも知れない。

 

なんと兼通は危篤状態から参内し、兼家の左遷人事を執行したのだ。
『大鏡』はこの日の兼通の所業について、こう寸評している。

意地っぱりだった兼通であって、あれほど死期が迫った状態であったが、兼家に対する憎らしさゆえに、内裏に参上して除目を申し上げなされたことは、ほかの人にはできるはずもないことであったよ。

兼通は堀川の屋敷に帰り、まもなく死んだ。享年53。

兼家とその周辺人物については、現在放送中の大河ドラマ『光る君へ』の主要人物として登場している。結果として重複する内容があるかもしれないことを許されたい。

海音寺氏は『悪人列伝』で藤原兼家を題材として取り上げているが、その理由についてこう述べている。

当時の廷臣らの権勢に対する欲望の熾烈さは、われわれの想像を絶する。
従ってそのための苛烈な競争や、敵手をおとしいれるための深刻な陰謀等は、そうめずらしいことではないが、天皇をだまして出家させるようなことをしたのは、兼家一人である。
悪人伝に入る資格は十分にあろう。


天皇出家の話は『大鏡』に出てくる有名な話で、私の中学時代の古典の教科書にあったのを覚えている。

 

大河ドラマ『光る君へ』の藤原兼家(演:段田安則)(C)NHK オリコンニュースより

頼忠の後塵を拝した兼家は、ようやく外祖父になることによって摂政になったのは57歳のときだ。
満を持してというべきだろう。
しかし、兼家の命が尽きるのはその4年ののちであった。
天皇を騙して出家させるという悪謀を成してまでして得た権勢であったが、かくもはかないものだった。


◉道兼の家人の異様さ〜武を厭わぬ者

 

つくづく因果なものだと思う。
かつて伊尹、兼通、兼家の兄弟が争った権力の座を、ようやく最終勝利者となった兼家の息子三兄弟が、激しく争うのだから。

兼家の悪謀、天皇出家の実行犯となったのは次男の道兼だった。
道兼は父の跡を継いで関白になるのは自分だと信じていた。
にもかかわらず、兼家が関白を辞したあと、次の関白に指名されたのは長男の道隆であった。
道兼は、汚れ仕事の対価が関白と思っていたのにアテがはずれた。
わたしの手は穢れ、被害者の怨念の対象はわたしとなってしまった。
その憤怒と憎悪は、父と兄・道隆に向けられた。

私が特筆したいのは、このときの道兼の家人の言動の異様さである。
家人とは、貴族に仕える家臣・従者のことで、彼らはたとえば藤原摂関家に名簿(みょうぶ)を提出して主従関係を結び、あるじとなった者に武技や律令知識などの家業とする専門技能で奉仕し、代わりに官職などの利益を得たのである。

このころ都は盗賊が横行して治安が悪かったため、上級貴族の多くは護衛のため武技に秀でた屈強な家人を雇っていたのだ。

そのひとりに源頼信という者がいた。
本シリーズで7回にわたって藤原冬嗣から人々を追ってきて、藤原氏とその周辺には禍々しい出来事もあったが、都にこのような雰囲気の人物はいなかった。

頼信には兄がいる。頼光という。
頼信は、道兼が父や道隆への憎悪をかり立てて、遺恨が胸中にあふれ、憤懣を顔色に表していたのを見て、頼光を前にこう言った。

わが君(道兼)を関白にし奉るために、中ノ関白(道隆)をオレが殺す。
オレが刀を引き抜いてあの御殿に突入するなら、防ぐことができる者など誰もいやしないのだ。


さすがに頼光は驚いて頼信をとめた。

やめておけ。
第一に必ず殺せるかといえばわからない。
第二に殺せたとしても、その罪がおよんで関白になれないかもしれぬ。
第三にたとえ関白になれたとしても、先方は報復を考えるだろう。
一生の間、お前は殿様をお守りできるのか、できないであろう。


源頼信 (国会図書館蔵) Weblio辞書ウェブサイトより

 

頼信は、かつて坂東から逃げ帰った源経基の孫であり清和天皇の玄孫だ。
しかし、家人(武士)ともなると、こうした殺人を厭わない殺伐な気風、主君と仰ぐ者に対して理非を問わない忠義心をもつ者なのだということがよくわかる。

余談だが、鎌倉幕府が成立すると、その長たる鎌倉殿の家人のことを、鎌倉殿への敬意を表す「御」をつけて呼んだ。
これが御家人のはじまりである。

ついでながら、頼信が殺そうと思った関白・道隆は在任5年で亡くなり、晴れて道兼が関白になることができた。
が、それも束の間、わずか7日で死んでいる。

 

◉望月の世の裏側で進む地殻変動


藤原道長は道隆、道兼の弟である。
道兼の死後、道長が摂政になるまで20年の歳月が流れている。
娘の彰子が産んだ後一条天皇の即位により天皇の外祖父として摂政となったのだ。

ほかの娘、妍子、威子も天皇の中宮になり、道長は三天皇の外祖父となって、世間では驚愕の思いでこれを見た。

この世をば 我が世とぞ思ふ望月の かけたることも なしと思へば

この歌をよんだのはこの頃とされている。

1027(万寿4)年に道長、死去。享年62。
その後、子の頼通が50年近く摂政関白となり、父子二代にわたって全盛時代を築いた。

天皇の無力化、政治の空洞化と私物化、そして官位官職の任命というエサで厖大な私有地を得た。
その究極形が道長・頼通だったのだ。
望月の世への道は、こうして終着点を迎える。

 

大河ドラマ『光る君へ』の藤原道長(演:柄本佑)(C)NHK オリコンニュースより

とはいえ。
地方の騒乱をなかば放置したことにより、歴史という大地の地表が何も変わりなく見えていても、地下の岩盤は大変動を起こし始めている。

平将門の乱は、地方の大土豪が地方の中小土豪とともに、独立割拠という幻想を抱いて武力蜂起したのだが、道長の死んだ年には将門の孫にあたる平忠常が坂東で反乱を起こしている。

以前にも忠常は坂東で内紛を起こしたことがあった。
そのとき常陸介(次官)だったのが源頼信である。頼信とは、主君のために関白・藤原道隆を殺そうとしたあの頼信である。
頼信は軍略をもって忠常を畏服させ、頼信の家人となることで内紛は鎮まった。

その忠常が安房国府を襲ったのである。朝廷はこれを反乱とみなした。
追討使に任命されたのは、平直方という能登守や検非違使を歴任する桓武平氏嫡系の武家貴族で、鎌倉にも所領を持っていた。



直方は忠常征伐の追討使に任命され、自らの軍勢と東海、東山、北陸の三道の軍を結集して討伐に向う。

直方は持久戦で忠常軍を追い詰めるが、坂東を押さえて士気の上がる忠常軍を攻めきれない。

直方は3年もの間、忠常を鎮定できなかった。


公の権威の点でも軍費の点でも、政府は直方の不首尾を見過ごすわけにはいかなくなった。



政府は、過去に平忠常を畏服させ、家人としていたことのある源頼信を、甲斐守に任じて討伐を命じたのである。


忠常は、頼信を見て、掌を返すように神妙にして、頼信の前に拝跪したのだ。

平直方は、面子が潰れ武人としての名誉を失った。

悲観した直方は、娘に自分の領地・郎党などを譲るかたちで頼信の子・頼義に縁づかせ、そのすべてを頼義に譲ったのだ。


鎌倉の所領と居館、直方の家の子郎党たちも頼義のものとなった。


直方の娘は、やがて頼義の子を産む。
幼名を不動丸、通称八幡太郎、源義家である。

源氏が坂東に足場をつくり、頼義や義家が坂東の武士たちを率いて、奥羽で頻発した蝦夷や土豪の乱を平定してゆく(前九年の役、後三年の役)。

義家の子孫が源頼朝であり、坂東武士の子孫が三浦義村、梶原景時、上総介広常、土肥実平、千葉常胤たちであった。

 

 

藤原頼通の死から頼朝挙兵までは約100年。
本稿冒頭の兼通最後の除目から頼通の死までも約100年である。

 

源義家が大きく飛躍した後三年の役 Wikipediaより

人の皮膚はかすり傷ができると、やがてそこにカサブタができる。
カサブタができるとすでにその内部には新しい皮膚の組成が始まっている。
たとえば平将門や興世王がつけたかすり傷は、藤原兼家から三代の全盛期の間にカサブタになり、一方で頼信から頼朝へいたる武士による東国国家という新しい皮膚組織が育っていたのである。

望月の世のぬしである藤原道長らに、私欲に貪して権力闘争をしているヒマがあるなら、歴史を鑑としてほかに何かできることはなかったかなどといっても詮ないことなのだろう。

最後に、道長の若いころの逸話を紹介したい。

あるとき、道長は兄の道兼とすごろくを打っていた。

父兼家の地位を継承するのは長兄の道隆に決まっている。彼ら二人の分け前はタカが知れているという認識を共有していた。

そういう意識が彼らを親密にさせていた。

すごろくの勝負は次第に熱が入り、一方が

畳六!(※)

と多い目を狙って気合いを入れてサイコロを振れば、

やったかッ

と相手も思わず身を乗り出す。


※ 二つの賽 の目が、ともに六と出ること。

 

盤双六をする貴族たち 国語専門塾みがくウェブサイトより


そのとき、道長の視線が、なにげなくあぐらをかいた兄の足の裏を通り過ぎた。
そのまま何事もなかったかのように勝負は続けられたが、道長はそのときに目に入ったものを決して忘れはしなかった。
兄の足の裏には、

道長

とはっきり書いてあったのだ。
道兼はおもてでは仲良く接していながら、〝道長〟を毎日踏みつけて歩いていたのだ。
道兼が道長を人知れず呪っていたことがわかる。
もうこれは欲望という名の喜劇だ。
歴史の必然のように、彼らはこんな喜劇を何代も続けてきたのだ。
権力者は何を見ているのだろう。
しかし、これを嘲笑うことができるだろうか。

この時代はその名のとおり平安だったという。

いま現在、日本は長い平和が続いている。
いつの世にあっても、そういう時こそ権力者は歴史を鑑にして、変わりゆく次の世も安寧であるよう努めてもらえればしあわせである。


 

【参考】
武田友宏編『大鏡』(角川ソフィア文庫)
海音寺潮五郎『悪人列伝(一)(ニ)』(文春文庫)
海音寺潮五郎『歴史余話』(文春文庫)
永井路子『悪霊列伝』(角川文庫)
中村修也『続日本紀と日本後紀』(青春出版社)
所功『歴代天皇知れば知るほど』(じっぴコンパクト新書)

高森明勅『歴代天皇事典』(PHP文庫)