望月の世への道③〜宇多天皇の悲願と断絶と挫折と【後】〜 | 天地温古堂商店

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◉宇多天皇・藤原氏に吹くすきま風

余ら父子がともに皇位を得る運命になったのはすべて大臣(基経)の力による。
いのちある限り、決して忘れてはならぬ。


光孝天皇は息子・源定省にそう言った。
奇跡の皇籍復帰のすえ、宇多天皇となることができたのは基経のひとことに尽きる。

宇多は基経を憚ることが甚だしく、次のように勅した。



 

万機巨細、百官己れに総べ、皆太政大臣に関(あずか)り白(もう)し、然る後に奏下すること、一に旧事の如くせん



 

関白という言葉が歴史にあらわれたはじめが宇多のこの勅旨である。

 



実は宇多は即位早々、基経とトラブルを起こしていた。
阿衡事件と呼ばれるものだ。



 

宇多が橘広相という学者に命じて書かせた勅旨に、基経が難癖をつけたのだ。



 

基経卿よ、よろしく首相となって任をまっとうしてくれ



 

そんなつもりで書いた勅旨だが、基経におべっかを使う別の学者が、



 

これは関白解職の意味ですぞ



 

と曲解して吹き込んだ。


基経もそう知っていて、政治的擬態を示したのかもしれない。



(宇多)帝がそう思うのなら、私は用無しだ。無用の者になったということだ。

 



と言って、私宅に引きこもり、届けられた決裁文書に目も通さない。
あげくのはてに飼っていた馬を市中に放つ始末。

宇多は困り果て、言葉をつくして丁重に翻意を促す。


基経は頑として無視。
 


ついに宇多は、正しく起草した橘広相の勅旨を取り消し、

 



広相は朕の意を誤って起草した



 

と詔したという。

宇多の無念は想像がつく。



濁世のことかくのごとし、長嘆息すべし



と自分で日記に書いたくらいだから、よほど悔しかったのだろう。

父・光孝への孝心も自らが抱いた深甚な憎悪には及ばない。



内心、藤原の専横許すまじという気持ちが芽生えたのだろう。


宇多は、ひたすら待った。

基経の死を。

 

宇多天皇は出家して初の法皇となる 仁和寺ウェブサイトより

少しだけ余談をはさみたい。

基経の家人にひとりの皇族がいる。
皇族といえるかどうか。
桓武天皇の曾孫・高望王である。


同じ曾孫なら文徳天皇や光孝天皇がいる。

天皇の曾孫でも、藤原氏と縁のない者はすでに官位にも官職にもありつけなくなっていたのだ。

基経の家人を勤めながら、無位無官の高望王は、なんとか官職にありつこうと必死に健気に仕えたのだろう。
やがて、高望王は臣籍に降り、平高望となる。
武士の起こりとなる桓武平氏の始祖となった人である。



◉菅原道真の登用とバランス政治



関白という極官についた基経だったが、2年半後の891(寛平3)年1月に死んだ。


娘は天皇に嫁いではいたが、基経の生前に皇子はまだいなかった。




宇多はただちにひとりの男を蔵人頭に任じている。

基経が死んで1ヶ月後のことだ。


この日を待ちに待っていたのだろう。


宇多はこの男をテコに藤原氏専横の世をひっくり返そうとしたのではないか。




菅原道真




宇多は譲位して上皇となり、天皇には基経の血縁のない第一皇子を即位させた。



醍醐天皇である。



 

宇多は醍醐に申し送っている。



 

道真はすぐれた学者である。

しかも深く政治を知っておる。
余も道真よりたびたび諫言された。破格の登用をしたが、それに応えた功績は賞賛にあたいする。
道真は余の忠臣であるだけではない。

そなたの功臣であるぞ。



蔵人頭から8年。
899年(昌泰2年)、道真は右大臣に昇進した。道真は藤原専横阻止の橋頭堡であった。そういう宇多の人事である。

その年、宇多上皇は出家して法皇となった。
空海のもたらした密教に傾倒したのだ。
宇多は密教界から何を成そうとしていたのだろう。

宇多天皇に重用された菅原道真 太宰府天満宮ウェブサイトより

菅原道真は門閥の人ではない。
曽祖父は土師と名乗っていたが、従五位下をもらい菅原と改姓した。しかし、それも住んでいた菅原村からとった菅原であった。 



官僚としても学者としても、また人格者としても超一級だったとはいえ、これ以前に道真のような出世をした者は一人としていなかった。




一方で、藤原氏をなおざりにはできなかった。

基経の長男で氏の長者である藤原時平を、つねに道真の一階級上に置くことを忘れなかった。


時平は左大臣に任じられている。




道真は慎み深い性格である。

また、政治の怖さも十分わかっている。


宇多法皇にテコとして寵用され、されればされるほど時平ら藤原勢と対立してゆく。

 


はたからみても危うさを感じ取っていたのだろう。


右大臣のころ、道真の学問上のライバルで文章博士の三善清行は、手紙を書いて政界引退を勧めている。

 



私もそうしたいと本気で思っている。

しかし、どうにもならないのだ。



 

そう言いたかっただろう。


道真はすでにいくども、学業に専念したいので政治家を引退したい、と宇多法皇に上申していたが、ことごとく却下されているのだ。

◉宇多法皇・醍醐天皇に吹くすきま風

901(昌泰4)年1月、道真は従二位に叙せられた。ただし、時平も同様だった。
従二位は公卿の最高位である。
これは朝廷では大事件だったのではないか。

少なくとも時平ら藤原一門の驚きは大きかったと思える。

時平の記憶に新しいのは父・基経が右大臣であった正三位のとき、従二位に叙せられたことだ。

従二位への叙位は摂政就任のためだ。
道真はいま、正三位で右大臣である。
そして、宇多も醍醐も成人であるのだから、その上は太政大臣か関白しかない。

たとえば、宇多の第三皇子に斉世(ときよ)親王がいる。
斉世の母は橘義子。阿衡事件で、基経にイチャモンをつけられた橘広相の娘である。
妻は菅原道真の娘であった。
斉世夫妻の間には英明(ふさあきら)という男子もいた。
まさに生粋の非藤原系皇族だ。

その気になれば、斉世親王を醍醐天皇の後継に、そして

宇多上皇
斉世天皇
道真関白

という非藤原政権を考えていたとしても不思議ではない。

かつて宇多は醍醐に譲位するときの申し送りに

道真は余の忠臣であるだけではない。そなたの功臣であるぞ。

と言ってはいたが、醍醐は次第にその意に反する行動をするようになっていった。

そのひとつが藤原穏子の入内だろう。

穏子は基経の娘、時平の妹だ。
この時はまだ二人のあいだに子はいなかったが、誕生すれば藤原系の皇子となる。

もうひとつ気になるのは彼らの年齢だ。
このとき醍醐天皇は15歳。
藤原時平、31歳。
宇多法皇、34歳。
菅原道真、55歳。

宇多にしてみれば道真は父に近い年齢だ。彼への賛辞は尊敬をともなった深い信頼だった。
一方、醍醐は15歳。イケイケの跳ねざかりだ。

父のお小言などあれば、反抗心がググッとわき上がってきたのではないか。
道真は清廉実直だが頑固なところがあった。

とがった若者にしてみたらまじめくさって面白くもなんともない。
それに比べて時平は円転滑脱、ひとまわり上の気の合う兄のようだった。
時平の弟・忠平は醍醐の5歳上、聡明で寛容な若者だ。
妹の穏子も若く可愛い。
かつての嵯峨天皇をとりまくサロンのようだったのだろう。

 

道真を排斥し父から独立した醍醐天皇 Wikipediaより

昌泰の変を主導した藤原時平 武将ジャパンウェブサイトより

醍醐天皇と左大臣・時平の間柄がわかるこんな逸話がある。

醍醐天皇が世の中の度を越した贅沢を取り締まろうと腐心していると、ある日、時平がご禁制の装束を身につけて宮中に参内してきた。
それを目撃した醍醐天皇は蔵人を呼び、こう命じた。

左大臣がたとえ臣下で最高位の身とはいえ、格別に華美な服装をしていることは不都合である。

すぐに退出するように言え。

蔵人は時平の前におそるおそる進み出て、震えながら天皇のことばを伝えると、意外にも時平は恐れかしこみ、あわてて退出した。
その後、時平は、

天皇のお咎めが重い

と言って、1か月ほど家に閉じこもったままだった。
これにより、世の中の贅沢の風潮はなくなった。
もちろん醍醐と時平の出来レースである。

こんな二人ではあったが、宇多法皇にしても一矢を放つこともできたはずだ。
例の非藤原政権構想の実現である。

◉宇多法皇の挫折、それから…

しかし、先に動いたのは藤原時平のほうだった。

菅原道真が醍醐天皇を廃し、斉世親王を立てる陰謀を企てているというのだ。

道真の陰謀は、時平の讒言とする資料がある一方で、平安時代中期に書かれた『政事要略』には、この一件には醍醐天皇の意向が働いてるとしている。

道真が低い家柄から大臣に引き上げてもらったにもかかわらず、それに飽きたらず専権の野心を抱いて、宇多法皇をあざむきだまして醍醐天皇の廃立を企てて、(宇多との)親子の慈しみを離間させ、(斉世との)兄弟愛を破壊した

そのように時平ではなく醍醐天皇が非難している。
醍醐天皇は父への非難は避けているものの、親子兄弟間の確執が実際にあったことを認めているのだ。

時平の〝讒言〟は薬子の変の冬嗣を彷彿とさせる。

白刃は、抜けば一閃
眼にもとまらぬ速さで鞘におさめてこそ、凄みが加わるのだ。

時平は気配も見せずに、901年(昌泰4)年1月25日、白刃一閃、讒言し、醍醐天皇は右大臣・菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷したのだ。
世にいう昌泰の変である。


本来なら宇多法皇が道真らと組んでクーデターを起こさなければならなかったはずだ。
しかし、そうはならなかった。

想像だが、宇多が出家して法皇となったのは、非藤原政権が実現するように祈祷を行うためだったのではあるまいか。
この時代、祈祷は仏の呪力によって何かを成し得る科学的な方法だった。
祈祷を行う儀式である修法には大きく分けて息災・増益・敬愛・調伏の4つの体系があり、これにより除災招福などの現世利益を期待した。
宇多が行ったそれは自らの増益と敵方の調伏ではなかったか。

 

高野山に1200年伝わる護摩祈祷 HOT HOLIDAYウェブサイトより

しかし、それが宇多法皇の限界だった。

宇多上皇は899(昌泰2)年10月に出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。

さらに高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣していたという。
都を離れていれば、道真との連繋もおろそかになるし、醍醐天皇の様子もわからない。

案の定、道真に陰謀の嫌疑がかかっているという情報を知ったとき、宇多は内裏の外にいた。
知らせを受けた宇多は急きょ内裏に向かったが、宮門は固く閉ざされ、その中で道真の処分は決定してしまった。

太宰権帥は、九州地域の最高責任者の次席である。
しかし、道真は刑罰としての異動だから、官職は名ばかりで職掌もなければ実権もなかった。
俸給もなかったらしい。
悲惨な生活を続けて2年後に亡くなった。

大宰府政庁跡 福岡県観光ウェブサイトより

宇多法皇はその後どうしたか。
まず、長く生きた。

901(延喜元)年12月、東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となる。

これによって宇多は真言宗と朝廷との関係強化や地位の向上に役割を果たした。
そして真言宗の発言力の高まりは宇多の朝廷への影響力を回復させる足がかりになった。

藤原時平 909(延喜9)年4月4日死去

時平の後を継いだ忠平の嫡男・実頼が元服した際に、宇多は醍醐に対して実頼への叙爵を指示している。

醍醐の健康状態が悪化していくと、宇多がその代理として政務を代行している。

醍醐天皇 930(延長8)年9月29日崩御

宇多は、天皇の遺詔があったとして醍醐の皇子・朱雀天皇の摂政となった藤原忠平の要請を受ける形でその後見となる。

宇多法皇は、931年(承平元)年7月19日に崩御。享年65歳。

天皇の無力化という意味で、藤原氏の前に立ちはだかった一代の傑物が去り、藤原氏の歴史は新しい段階に入ってゆく。