望月の世への道④〜藤原氏暗転・我を怨霊とするは誰ぞ〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

903(延喜3)年2月、菅原道真は都からはるか西の大宰府で死んだ。
宇多法皇は、醍醐天皇と藤原時平の新政権に遠ざけられ、真言宗の阿闍梨として仏道に傾斜してゆく。

時平ら藤原氏は、基経以来のわが世近しと欣喜雀躍していたことだろう。

しかし、現代からみればバカバカしいことかもしれないが、ひとりの男のタタリが平安の世を不安のどん底にたたき落としてしまう。

菅原道真

道真は死の直後、神号を得て神となっていた。
徳川家康が死んで東照大権現という神になったように、道真は天満大自在天神という神になった。
いまの天神様である。

菅原道真 太宰府天満宮ウェブサイトより

この男の死後、相次ぐ天変と人の死がつづくのである。

まず、道真の死んだ903(延喜3)年の7月、翌年の4月、翌々年の4月に都にすさまじい大雷雨に見舞われた。

当時は、死んだ鳥が落ちていたり、わずかな血痕があったりしただけで、おそれおののいていた時代だ。

古代の人々にとって雷は神であった。
雷の猛威に対する畏れや、稲妻とともにもたらされる雨の恵みに対して、農耕民族であった古代日本人はこれを神と考えたわけだ。

それだけならまだよかったが、それが人の死と結びついた。

道真を告発して失脚のタネをまいたふたり、藤原定国と藤原菅根。

そのひとりの藤原定国が906(延喜6)年に40歳の若さで謎の死をとげた。
定国は昌泰の変ののち、道真の後任として右近衛大将となった男だ。

そしてもうひとりの藤原菅根も908(延喜8)年10月の雷雨のとき、雷に打たれて死んだ。
菅根は道真左遷のとき、道真を救おうとして参内しようとした宇多法皇を内裏の門前で阻止した男だった。

これはおかしいぞ、となる。

まだある。

909(延喜9)年、道真の政敵であった藤原時平が39歳の若さで病死した。
彼は道真が宇多法皇に信任され、その後宮に娘を入内させているのを警戒し、でっちあげの事件によって、政権の座から追い落とした張本人だ。

913(延喜13)年、道真排斥グループのひとり、源光は3月12日に鷹狩に出るが、不意に塹壕の泥沼の中に転落して溺死してしまい、遺体が上がらなかった。

いよいよ人々はこれを道真の怨霊の仕業としておそれおののいた。

道真のタタリを恐れてその御霊を鎮めるために、919(延喜19)年、醍醐天皇の命を受け、朝廷は道真の墓所の上に社殿を造営した。大宰府天満宮の始まりである。

 

道真の遺骸をひく牛車 北野天満宮ウェブサイトより

しかし、それで済むはなしではなかった。

災禍はついに醍醐天皇にも及び出した。

923(延喜23)年というから道真の憤死から20年、時平の病死から14年が過ぎている。醍醐天皇の皇子で皇太子の保明親王が亡くなったのだ。行年20歳。
病気らしい病気もしないで死んだという。
母は時平の妹、藤原穏子である。

奇しくも落雷で死んだ藤原定国は道真の死から5年後、溺死した源光は10年後、そして保明皇太子は20年後の死だった。

天災は忘れたころにやってくる。

という格言がある。
安政の大地震から関東大震災まで68年、関東大震災から阪神淡路大震災まて72年。
いまでも地震、台風、冷害などは忘れたころにやってくる。
最近は忘れないころにやってくる災害も増えてきたように思うが…。

この頃も、またまた偶然だが、地震、台風、落雷、干ばつ、疫病さらにインフルエンザ(咳病)の大流行などが次々とやってきた。

さすがに都では道真のタタリだと噂が流れた。
冤罪となって流罪なった人、死罪になった人はたたる。そういう信仰に近いものがこの時代にはあった。

かつて桓武天皇の周囲では、井上皇后、他戸親王、早良親王など多くの人が流罪となり憤死している。
桓武は彼らの怨みを抱きながら死んだ彼らが怨霊となりタタリが人を殺し災害を及ぼすとして、それを鎮めるために御霊神社を建てた。



人はまことに都合のいいことを考えるもので、この恨みを残して非業の死をとげた者の怨霊は、これを復位させたり官位を贈ってその霊を鎮め神として祭れば、御霊となり、世に平穏を与えるという考え方が起こったのである。

そうだ、そうしよう。

と、右大臣・藤原忠平は思い、朝廷は道真をもとの右大臣に復位させた上に、正二位の位を追贈して名誉回復をおこなった。


道真の名誉回復を行った藤原忠平 刀剣ワールドウェブサイトより


道真の怨霊のせいで話がなかなか進まないが、亡くなった方を省略するのは忍びない。

その2年後の925(延長3)年、今度は早世した保明親王と時平の娘との子で皇太子の慶頼王が死んだ。わずか5歳。痢病だという。

930(延長8)年6月、清涼殿という内裏の中の殿舎で閣議が行われているときに事件は起きた。

醍醐天皇、藤原忠平も出席して干ばつ対策について会議中。
この日照りなんとかならぬものか、などと神妙な顔の面々。
その衝撃を永井路子の『悪霊列伝』の著述を引用してみる。

このとき、稲妻が庭前を截り、それに蔽いかぶさって、前よりひもきわ大きな雷鳴がとどろいた。
「や、や…」
思わず耳をふさぐもの、座にひれふすもの。

さらに彼らに突き刺さるように稲妻が一閃、二閃ー。

地唸りに似た雷の咆哮につつまれたとき、居あわせた誰もが、完全に度を失っていた。(略)


どうやらただの雷雨ではないと思ったのか、左大臣忠平は、ときの帝、醍醐天皇の側に近づいた。

堰を切ったように雨が降りだしたのはこの瞬間である。


が、一堂の誰も、
ーー恵みの雨だ。
と頬をほころばせる余裕はなかった。
ーーこの稲妻、この雷鳴。
喜びより恐怖が先だった。

 

急にあたりが夜のように暗くなって来た。

と、そのとき、突然、ぐわっという音とともに、何者かの巨大な手で天地が引き裂かれたかと思うと、紅い火柱が殿上に投げこまれた。
「うわ、わっ」
その場に撥ねとばされながら、人々は、中の一人が火柱もからみあいながら宙に浮き、そのまま火の玉となって、激しく座に叩きつけられるのを見た。(略)


「あっ!」

彼らは思わず息を呑んだ。

「こ、これはっ」

海老のように身を丸めた黒焦げの死体が転がっている。

「大納言清貫様でいらっしゃいます」

人々は二の句がつげなかった。

火の柱とからみあうように転げ廻ったのは彼だったのか。

つい今しがた皺の深い顔をふりふり、軒先から戻って来たあの男がこんなむざんな姿になってしまおうとは…。

 

道真が雷神と化して時平を襲う(北野天神縁起絵巻) 日本の美術ウェブサイトより

 

藤原清貫、即死。

彼は道真が左遷された後、九州に出張した際に大宰府に立ち寄っていて、帰京後、道真のことばをこう報告している。

今度の配流のことはあきらめている。少なくとも無罪だとは思っていない。

清貫は本当にそう言ったのか。タタリを受けるための後世の付会なのか。

この清涼殿落雷事件は、朝廷だけでなく都じゅうの人々を、つまりこの国の人々に、菅原道真の怨霊のせいだということを決定づけた。
人々は道真を雷や天候をつかさどる神、雷神であるとして畏怖の念をこめて

火雷天神


と呼ぶようになった。

ちなみに、いまはあまり聞かないが、雷が鳴った時に、

くわばら くわばら

と雷除けの呪文を唱える。
道真公の所領だった桑原という地にだけは雷が一度も落ちなかったという言い伝えから、そう唱えるようになったといわれているのだそうだ。

雷について続ける。

人がこの自然の中で生き始めた遠い遠い昔から雷の脅威はあった。
清涼殿の落雷は人が見える形で経験する最大級の脅威だった。
古事記に書かれている黄泉の国の神話では、イザナミの死体に沢山の雷が張りついていたし、それを見てしまったイザナギが逃げる場面では追いかける雷が恐ろしく語られている。
 
一方で、雷は神鳴りでもある。
イナズマは稲妻でありイナビカリは稲光であり農業と深く関わっている。
雷神は脅威や災害をもたらす厄神であったと同時に、慈雨をもたらす農業の守護神でもある。
雷は脅威と慈恵の二つの顔をもつ自然神といえる。

しかし、この時の朝廷に雷の慈恵など考える余裕など微塵もなかっただろう。

海老のように身を丸めた大納言清貫の黒焦げの死体。
この惨状を間近でみた醍醐天皇の衝撃の大きさは計り知れなかった。
すでに皇太子も皇太孫も失っている。こうした心労が重なったこともあり体調を崩し、数ヶ月後、ついに崩御されてしまった。

これで何人目なのか。
道真左遷の関係者が死んでゆくのは。

 

青森ねぶた祭の「火雷天神 菅原道真」

もはや、非科学的だとか偶然だとかバカバカしいとは誰もいわない。
そうだとしたら延々と史書に冗談を書き続けるわけもないだろう。
当時の人々は本気でそう信じたのだ。

ただ、人々はただ道真の怨霊を恐れていただけでないことに私たちはこのあと気づくことになる。

長々と道真の死後の天変地異と関係者の死に触れてきたのは、歴史の糸でつながれたような二人の人物にたどり着きたいためだ。

二人は藤原氏と血縁をもたない天皇の子孫である。
皇胤諸氏。
あるいは王氏と称する。


このふたりとは、

平将門
興世王


である。

このふたりが菅原道真の霊威を〝利用〟して大騒乱を起こし、それに続く者たちが摂関藤原氏のみならず日本の古代という岩盤の地殻をぐずぐずと突きくずしてゆくことになる。