『脱亜論』という福沢諭吉の卓論があるが、私にはよくわからない。
日本が独立を達成するには,西洋文明を導入してアジアなるものを脱却し,列強から存在を認められるようになる以外にない。
ということらしい。
日本はアジアにあってアジアではない。
と言ってしまうと語弊があるだろうか。
ただ、アジアの巨大文明国である中国の隣にあるという地政学上の宿命を抱く日本が、その影響をつねに受けながら、その都度、車が脇道にそれるように異なる独自の進展を遂げてきた。
その脱亜の祖型が、平安時代にあるように思える。
6世紀の東アジア note24ウェブサイトより
◉藤原氏が期せずして進めた日本の「脱亜」
大化改新(645年)以来、この国の政治は文武百官を自らが統べる天皇親政であった。
それが古代律令社会の鉄則であった。
律令制度は、地方国家の集合体であったこの国土に、真の中央集権国家を作るための手品のタネだった。
日本は地政学上、文明文化の輸入国である。それにつねに西方から来る。
隋
518年から618年、中国にあった統一国家である。
隋の皇帝は、581年、律令というものを制定した。
律とは刑法であり、民法にある戸籍や婚姻などの規定を含んでいたという。
令は行政法で、三省六部制、科挙による官吏登用制のほか、均田制や租庸調制、など唐の律令のもとになる内容をすでに持っていたと推定されている。
当時の日本は、隋に有為な人材を使節として派遣した。
中学の歴史にも出てくる遣隋使である。
高向玄理、南淵請安、僧旻というおなじみの面々である。
彼らの多くが隋から何を学び何を持ち帰ってきたが、のちに大化改新が起き大宝律令が制定されたことを考えあわせると、おのずと明らかだ。
おそらく、律令制度は、歴史上、「西」から流入したもっとも大きな文明の一つであろう。
それが平安時代にも続いていたのである。
中国の皇帝は、天帝そのものを意味する絶対的な権力であり、それは地上の人々の支配によって成立するとされる。
大化改新に始まる一連の改革は、中国律令政治の輸入であるから、日本の天皇は律令によって絶対の権力者であると定められている。
ゆえに、皇族以外の一般人(貴族も含む)の道徳や常識や感情によって、その家族や姻戚を厚遇して、政治にあずからせることは禁忌であった。
天皇は、血縁や姻戚にとらわれず、広く人材をえらんで官職に任じ、もっとも優秀な官僚組織をつくり、公正な政治をおこなうべきものであった。
なのに、である。
日本はどうも、ある意味アジアではない。
多武峰縁起絵巻に描かれた大化改新 世界の歴史まっぷウェブサイトより
藤原冬嗣の娘が天皇に嫁ぎ子を産み、その子が天皇になった。
冬嗣の息子の娘も天皇に嫁ぎ子を産み、その子が天皇になった。
清和天皇といった。
唐突だが、中国に三大悪女というのがいる。いずれも皇帝の后であり、皇帝の母である。
漢の呂后
唐の武則天
清の西太后
彼女らに共通するのは日本のそれとまったく比べものにならないくらいの権力の強大さである。ときには皇帝以上という。
現に武則天は夫である高宗の死後、帝位を奪い新王朝を建て、中国史上唯一の女帝となった。皇后、恐るべし。
日本はそうならなかった。
しかし、変容はした。
孝という徳目が儒教にある。
孝という道徳が中国ではもっとも重んじられる。孝とは親を敬い、これによく仕えることである。
皇帝はその父なる前皇帝にも母なる皇后にも孝道を尽くした。
日本も平安時代にその影響を強く受けたことはすでにのべた。
清和天皇のころになると、父だけでなく母に対しても孝道を尽くすようになる。
ただ、日本は武則天の中国とは異なり、母后には権勢欲はなく夫に代わって政治を行うことはない。そのかわり、母后の父(外祖父)がその権力を肩代わりするかたちで政権の主宰者になるようになる。
天皇は、血縁や姻戚にとらわれず、広く人材をえらんで官職に任じ、もっとも優秀な官僚組織をつくり、公正な政治をおこなうべきもの、という律令政治の鉄則を藤原氏が大きく逸脱させることになってしまった。
◉藤原基経、苦肉の策・源定省の復籍
どう逸脱したかをいましばらく続けたい。
藤原良房が外祖父になるや否や、太政大臣、摂政に登官した。
いずれも今までは皇族の専任であり、しかも徳川幕府の大老と同様、常置の職ではない。
天皇の秘書官だった冬嗣の子の代にはすでに非常な大権を握り、天皇は飾り雛のような存在になってしまった。
良房の子に基経がいる。
基経の妹・高子が清和天皇の女御として親王を産み、即位して陽成天皇となった。
陽成天皇はわずか7歳で即位し、8年間在位したあと、基経によって廃位させられている。
君徳がないとか狂疾があった、とかいわれているが、どうであろう。
基経は、陽成の母であり自らの妹である高子と険悪だったともいうし、要は基経にとって陽成では都合が悪かったのだろう。
天皇の即位や廃位をコントロールすること自体が、基経とは何者かという問いの答えになるだろう。
人臣初の関白となった藤原基経 読売新聞オンラインより
基経は次の天皇を探さなければならないが、外孫にあたる者や冬嗣・良房の血縁につながる者がいない。
そこで、基経は時康親王という55歳の老皇族を探し出した。
嵯峨天皇の孫にあたる人だ。
そのスカウトの動機がおもしろい。
基経がまだ若いころのこと。
父・良房が大臣に就任した祝賀パーティーがあった。
饗宴の膳にはかならず雉の足の料理が出るのが当時の習慣らしい。
何かの手違いがあって主賓の膳にそれがついていなかった。
配膳の者はそばに座っていた時康親王の膳にある雉の足をとりあげて主賓の膳に置いたのだ。
なんたる無礼、なんたる侮辱。
時康もそうとう軽く見られていたのだろう。
若い基経は下座のほうからそれを見ていてどうなることかとヒヤヒヤしていたところ、時康は自分のそばにある灯りを消して、侮辱行為の一幕が人目につかないようにしたのだ。
これによってだれも傷つかないし咎められない。
そんな記憶があったので、基経は時康親王を選んだという。
時康が光孝天皇だ。
基経がスカウトした光孝天皇 武将ジャパンウェブサイトより
光孝は元来温厚な人だったのだろう。
それに推挙してくれた基経に恩を感じてもいた。
老齢の光孝は4年後に重病となり、基経を呼んで跡継ぎの相談をした。
そなたに任す
という。
光孝には多くの皇子がいたが、いずれも臣籍降下をしてしまっている。
光孝源氏というやつだ。
基経は意外にも、
定省王こそ
といった。
臣籍降下していた光孝天皇の子、源定省(みなもとのさだみ)のことだった。
いったん臣籍に降った者を皇族に復籍するなど史上あったのだろうか。
光孝の感激はひとかたならないもので、右手で定省の手を握り左手で基経の手を握って、涙を流していう。
余が皇位につくことができたのはこの大臣のおかげである。
いままた大臣はそなたを推挙してくれた。
余ら父子がともに皇位を得る運命になったのはすべて大臣の力による。
いのちある限り、決して忘れてはならぬ。
定省は皇籍に復して立太子、その翌日に光孝天皇は薨去した。
定省親王は即位して宇多天皇となった。
臣籍降下のあと皇位についた宇多天皇 Japaaanウェブサイトより