望月の世への道①〜嵯峨天皇の焦燥、藤原冬嗣の遠謀〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

世の中は短期間で目まぐるしく変わってゆく。
私の親世代は、戦争経験者だ。
伯父は兵隊として出征し、外地で亡くなった。
彼らの十代は、明治憲法のもとの大日本帝国民であった。
それが、いまではSNSや生成AIの時代になっている。
戦後78年。
時代が大きく変わるときは、時の流れの速さを感じるものだ。

 

 方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり


はるかいにしえ、平安のころ。

新都造営
蝦夷征伐
政治改革
軍事改革
土地政策
仏教改革

781(天応元)年に即位した桓武天皇は、これだけのことを独裁的に推し進めていった。
彼は皇位につくためにかなりの無理もしてきた。
先帝の皇后と皇太子母子を廃し、自分の皇太弟も流罪に処した。
そうまでして皇位についたのは、その絶対的権力をもってこうした英雄的な事業をしたかったからだ。
とくに蝦夷との戦いは30年以上も続けられた。

その結果、北は秋田、志波(盛岡)、南は喜界島まで国土の拡大に成功している。

独裁的帝王だった桓武天皇 NHK for schoolより

桓武朝の最北の城柵・志波城 ホテルエース盛岡ウェブサイトより

しかし、ついに国力が尽きてしまう。
古代の人物の声は、なかなか記録されておらず、頼朝や義経、信長や家康のように実感をともなわないのだが、桓武天皇に諫言した参議・藤原緒嗣のこのひと言はいやに生々しい。

方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。此の両事を停むれば百姓安んぜん。

 

いまに訳すとこうなる。

いま天下の人々が苦しんでいるのは、蝦夷平定と平安京の建設です。
この二つをやめれば国民はみんな安心するのです。


桓武晩年の805(延暦24)年のことだ。

みかど、もう金がないんです。これ以上続けたらこの国は保ちませんよ。

実際はそんな言い方だったかもしれない。
桓武は英雄事業の完遂をあきらめこの意見を聞き入れざるを得なかった。
無念だったのか徒労感か、その翌年、一度も左大臣(首相)をおかなかった独裁的帝王はその波乱の生涯を終えた。

◉薬子の変後、集まった嵯峨ファミリー

前稿のように、その後に薬子の変があり、嵯峨天皇が登場する。
嵯峨も父・桓武に劣らず英明の君主であったが、タイプが父とはだいぶ違っていた。

彼は桓武のような英雄的事業には見向きもしなかった。というより、すでに国土は疲弊し財政難におちいっていた。
そんな出費の余裕などなかったろう。

嵯峨は中国文化に傾倒した。
とくに漢詩と書は耽溺といえるほどで、事実、彼にはその才能があった。
漢詩の相手は異父弟の良岑安世であり、書のそれは空海であった。

作家・司馬遼太郎の『空海の風景』にも嵯峨天皇が出てくる。

嵯峨は、サロンの気分のひとであった。
かれはあるとき思いたち、宮城の諸門の額の文字をことごとく書き改めようとした。宮城の建物は奠都以来、まだ二十四、五年しか経っておらず、額もまだ真新しく見え、文字も鮮やかであったが、能書家のかれにはその文字が何とも粗末なように見えたのだろう。

筆をとるのは、自分と空海と、それに空海の友人である橘逸勢に決めた。
このあたり、いかにも嵯峨の仲間気分が出ている。


孝のため異母弟に譲位した嵯峨天皇 Japaaanウェブサイトより

たとえば、宮門はそれぞれの門を守る氏族の名前がつけられている。
大伴門、的(いくは)門、壬生門…。
これが田舎くさく見えたのだろう。嵯峨はこれを中国風に、それぞれ応天門、郁芳門、美福門と改めさせて、それを理由に額を掛け替え、それに自ら筆を入れている。

政治、経済、文化…。
嵯峨の周辺にも仲間によるサロンが形成された。

嵯峨の皇后は、檀林皇后の名で有名な橘嘉智子である。
嘉智子の姉・安万子の夫は藤原三守といい、三守の姉・美都子は藤原冬嗣の妻である。
また、嵯峨の父・桓武天皇は後妻・百済永継との間に良岑安世がいる。安世は嵯峨の漢詩仲間であった。

まぎらわしいが、百済永継の前夫は藤原内麻呂でありその間の子が藤原冬嗣なのである。
嵯峨と安世は異母兄弟であり、安世と冬嗣は異父兄弟であった。

嵯峨天皇 
橘嘉智子
藤原冬嗣
藤原美都子
良岑安世
藤原三守
橘安万子

ここに出てきた男女7人が嵯峨を中心にひとつのサロンを作っていた。

嵯峨天皇の皇統を守るため冬嗣に同心した橘嘉智子 Wikipediaより

この短期間に、謀略と遷都と創業と独裁の桓武の時代から、財政難ながらも平和と文化と信頼できる絆でつながった嵯峨の個人サロンの時代に移り変わったのである。

◉嵯峨天皇の皇統を守れ!どうする冬嗣⁈

冬嗣は嵯峨天皇のためにあらゆる工作をしたと思われる。
静かに目立たずにだ。

前稿の終わりにこう書いた。
藤原冬嗣は、ごくおだやかに、なにげなさを装いつつ、古代律令制社会をへし折ろうとしている。

律令社会とは公地公民のことだ。
土地と民はすべて朝廷のものであって、原則私有地は存在しなかった。

天皇といえども国の税収の中から俸禄をえていた。それが9世紀になると勅旨田という私有地を与えられるようになる。
ちょうど嵯峨朝あたりからだ。

嵯峨天皇は、漢詩と書芸にすぐれた才能があり、強い趣向があった。おそらく文物の収集欲も半端なかったのではないか。

想像だが、嵯峨の贅沢ともいえる文雅のために勅旨田による収入をあてたのではないか。


また、同じころ親王賜田という別種の私有地も出現した。
実は嵯峨には50人もの皇子皇女がいた。彼らの厖大な費用のためにひねり出したのが親王賜田だったのではないか。
そしてこの勅旨田、親王賜田を合法的に実現させたのが参議である冬嗣だったのではなかったか。

『日本後紀』の親王賜田に関する記事(関西学院大学所蔵)宝塚市ウェブサイトより

 

嵯峨には、まだ難題があった。
皇太子のことである。

このころ中国の儒教が道徳のかたちで日本の貴族階級に入ってきた。



という道徳が中国ではもっとも重んじられる。孝とは親を敬い、これによく仕えることである。

桓武のときもそうだったが、嵯峨においても同じだった。
嵯峨には妻である橘嘉智子との間に一子があったが、父への孝を表すために異母弟の大伴親王を皇太弟にしたのだ。
本心のはずはない。

 

有力貴族をもたないまま亡くなった淳和天皇 Wikipediaより

その後、嵯峨は皇位にしがみつくことなく大伴に譲位。
大伴は即位して淳和天皇となる。
実はここで、皇太子の座を狙って虚々実々の駆け引きかけひきがあったような気がする。

嵯峨上皇
淳和天皇

この二人は桓武を父にもつ異母兄弟だ。
2人にはすでに皇子がいる。

嵯峨には正良
淳和には恒貞

このとき嵯峨と淳和の父・桓武はすでに亡く、孝の対象はいない。
孝を尽くす皇太子選びは必要がない。

ここからは想像だが、冬嗣が嵯峨にこう助言したのではないか。

恒貞親王は母親が内親王(嵯峨の娘)、対して正良親王の母親は嘉智子皇后です。
このことに貴賤の差はありますまい。
父系でいくと、正良様はミカドのお子さま、恒貞様はお孫さまになります。
ミカドにとっては正良様のほうが血が濃うございます。


しかし、それでは弟・大伴(淳和)が納得しないだろうよ。

困り顔の嵯峨に冬嗣はこういっただろう。

ですから正良様を皇太子に指名することと、その次の皇太子を恒貞様にすることをセットでお決めなさるのです。

それはそうだが、両統迭立のようなことをすれば、いつ皇統が向こう側にいってしまうかもしれん。

いえ、そのようなことは決してありません。
ミカドの姫君に潔姫(きよひめ)さまがおいでですね。その姫を我が子・良房とめあわせてくださいませ。
縁が重なり深まれば正良様と我が娘・順子との間に生まれた皇子(道康親王)に、良房らが命を賭して皇位におつけあそばします。


薬子に罪をなすりつけ兄・平城を見事に出家させ、世を平らげたお前のことだ。
おそらくお前たちならやり遂げるであろうな。


あるいはそんなやりとりがあったのではなかろうか。

 

嵯峨と淳和の合意のもと、淳和は即位後10年で退位し、皇太子・正良親王が即位して仁明天皇となった。

そして、淳和の子・恒貞親王が皇太子となった。

 

嵯峨天皇夫妻の子であり冬嗣の娘婿・仁明天皇の深草陵 山の辺の道散策ガイドより


◉藤原冬嗣の悲願・外祖父誕生

冬嗣のことだ。
早くから自分の死後の布石を着々と打っていただろう。

そのひとつは、正良親王にわが娘・順子を入内(嫁入り)させていたことだ。
またひとつは、嵯峨の子女の多さに目をつけたことだ。我が子・良房の妻に嵯峨の皇女を迎えたいところだが、人臣が皇女と結婚することはルール上不可能だ。
そこで冬嗣がそれをクリアするためのある秘策を用いた。

臣籍降下

嵯峨の子らは親王賜田という私有地をもらったものの50人もいればたちまち財政を圧迫する。そこで考えたのが臣籍降下である。
皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。
人臣となって職につけばその俸禄で食っていくことができる。
嵯峨の子らは結局、皇子17名と皇女15名が「源」の姓をもらい臣籍に降っている。

その一人、源潔姫を良房は妻にしたのである。実態は嵯峨天皇が良房の舅になったのであり、生まれた子は嵯峨の孫になるのだ。

ちなみに、ほかに臣籍降下した者に源融がいる。嵯峨の十二男にあたるが、彼は紫式部の『源氏物語』の光源氏のモデルといわれている男である。

 

清和天皇の外祖父で人臣初の摂政となった藤原良房 Wikipediaより

冬嗣の悲願は天皇の外祖父になることであろう。
娘順子は仁明と皇太子時代に結婚したが、二人の間に皇子(道康親王)が生まれた前年、そのことを知らずに冬嗣は没する。
826(天長3)年7月。享年52。
 

淳和上皇、840(承和7)年没。

嵯峨上皇、842(承和9)年没。

 

このタイミングで、冬嗣が仕掛けておいた地雷が爆発する。

承和の変という皇太子・恒貞の廃太子事件が起こるのである。

 

地雷とは、嵯峨と冬嗣の血統をもつ道康親王が皇位を継ぐよう宮中で無血クーデターを起こすことである。

実行者は藤原良房、協力者は嘉智子皇太后だろう。

 

嘉智子皇太后、850(嘉祥3)年3月没。

仁明天皇、850(嘉祥3)年3月没。

道康親王の即位は850 (嘉祥3)年5月。皇位を継いで文徳天皇となる。
冬嗣が外祖父になることはついに叶わなかった。

淳和天皇の皇子で廃太子となった恒貞親王 Wikipediaより

恒貞親王失脚で皇位についた文徳天皇 Wikipediaより

しかし、冬嗣の遠謀は開花する。
息子の良房を嵯峨の娘・源潔姫との間に生まれた明子は、文徳の女御(妻)となって、皇子を生んだ。
清和天皇である。
このときわずか9歳であった。  

幼少のため実権は外祖父・良房にあった清和天皇 Wikipediaより

冬嗣が成せなかった悲願を、良房が成した。
ついに藤原北家に天皇の外祖父が誕生したのである。


冬嗣は、権力の源泉である財力を蓄えようとしている。それは大化改新以来の国是である公地公民の律令社会をみずから壊すことになる。

このころ、冬嗣と良房の代で荘園という私領を増やしに増やした。
冬嗣に言わせると荘園とは農地ではない。
藤原氏の別荘の庭園だという。
そこに何が生えようが、それは庭園の草花だ、庭園の草花であれば課税の対象にはならないという。
実質非課税!(最初は払っていたが次第にうやむやに…)
人間の欲、権力者の欲というものが公地公民の社会を壊してゆく。

天皇の外祖父誕生までと律令社会の溶解にかかった歳月は77年。
終戦からいま現在まで78年。

長い平和が続く70年余。
世代をひとつまたぐほどの年月で、目まぐるしく変わる時代の相似を私は実感している。

平和の時代こそ、目に見えるものも見えないものも大きく変容するようだ。