天皇の雑用係だった男〜影薄きレジェンド・藤原冬嗣〜 | 天地温古堂商店

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兄弟は他人のはじまり

たとえ仲良く育った兄弟であっても、それぞれが結婚し家庭を持ち、やがて子どもが生まれれば、情愛もそちらに移り、アカの他人のような関係になることもあるという意味のことわざだ。

平安時代にあって、「兄弟」は歴史を変えるほどのNGワードであったといえる。

来年の大河ドラマ『光る君へ』の舞台は平安時代の真っ只中。
主人公は、紫式部。そして、藤原道長。

 


大河ドラマ『光る君へ』の紫式部(演:吉高由里子)と藤原道長(演:柄本佑) 朝日新聞デジタルより


このふたり、そんなに昔にさかのぼらなくても先祖は同じ人物にいきあたる。

紫式部の父系をさかのぼると、

為時
雅正
兼輔
利基
良門
冬嗣

一方の道長は、

兼家
師輔
忠平
基経
長良
冬嗣

ふたりの高祖父の祖父、つまり六代前は同じ人である。

藤原氏は大化改新の立役者・藤原鎌足に始まり四家に分かれた。
そのひとつ北家である藤原冬嗣からこの家の栄えが始まる。

 

藤原冬嗣 Wikipediaより


繁栄のきっかけはある。

そのことは冒頭の「兄弟」と少しばかり因縁がある。
紫式部の時代からさかのぼること約200年前の794年に都が平安京に遷った。
平安時代の始まりである。

遷都したのは桓武天皇。

本ブログでは何度か登場している人物だ。
本来は異母弟が皇位につくところ、桓武を擁立した藤原氏の面々が謀略をめぐらし成功した。
そのことについては以前に書いた。

 

 

 

 

 

桓武には、自分がそれまでの天皇と異なり、新しい王朝の創始者という意識が濃厚にあった。
中国の皇帝は、毎年冬至になると都の南に天壇を設けて天帝をまつった。
桓武はこれを真似て、都の南の交野の地に郊祀壇(こうしだん)なるものを設けて、天帝と父である光仁天皇をまつったという。

いきおい誰からか補弼されるというよりは独裁的で、政治は文武百官を自らが統べる天皇親政であった。それが大化改新以来、古代律令社会の鉄則である。


このころ中国の儒教が道徳のかたちで日本の貴族階級に入ってきた。



という道徳が中国ではもっとも重んじられる。孝とは親を敬い、これによく仕えることである。

桓武においてもそうであった。
天帝とともに父帝をまつったことも孝の発露のかたちといえよう。

父に孝道を尽くす。

孝はまた、皇位継承にもあらわれた。

桓武が自分の意にそわない弟の早良親王を皇太弟に立てたのは、父帝の意を容れてのことだ。

この兄弟をめぐる皇位継承が不幸のはじまりだ。
早良親王は、ある暗殺事件の計画犯として、桓武によって流刑に処せられてしまう。
異常なのは早良親王が流刑地に移送中、抗議の断食をして命を絶ってしまったことだ。
冤罪だったのだろうか。

後年、桓武はこれをあわれんで(悔やんで?)、崇道という天皇号を贈っている。

兄・桓武天皇 NHK for schoolより

弟・早良親王 歴史人ウェブサイトより

事件の真相は闇の中だが、早良親王を葬りたい動機は桓武にはある。孝心から皇太弟を立てたが、皇位は我が子に継いでほしい。そのためにはどうすればよいか、それが動機である。

早良親王の死は、平安時代の兄弟の悲劇のはじまりとなる事件だ。


桓武にはふたりの男子がいる。

思いどおり皇位は我が子が継いだ。
兄の安殿(のちの平城天皇)と
弟の神野(のちの嵯峨天皇)である。

天皇が住み執務を行う宮殿を内裏という。
当時の内裏は男子禁制で、天皇のほかはすべて女官であり、その最高官を尚侍(ないしのかみ)といった。
尚侍は天皇の言葉や文書を大臣や役人たちに伝える。
平城天皇の尚侍は藤原薬子といった。
平城天皇はこの薬子とデキてしまう。

その後、病気を理由に平城は弟・神野親王に譲位。
神野は即位して嵯峨天皇に。
平城は薬子とともに奈良に移り天皇と同じ権限をもつ太上天皇となった。
さらに皇太子となったのは嵯峨の子ではなく平城の子であった。

平安京と平城京。
ふたつの朝廷が並立するはずもない。

嵯峨天皇は薬子尚侍のような轍を踏まないために律令に定めのない蔵人所を設けた。
尚侍に代わり蔵人所(くろうどどころ)の長官である蔵人頭が、その役目を負う。
天皇の秘書官長といったところだ。
それに藤原冬嗣が任命されたのである。

桓武、平城、嵯峨のころは天皇親政で、藤原氏といえども人臣に特別な権力などなかった。
しかし、蔵人頭についたところに冬嗣は権力の本質を知悉していた証しが見える。


知っていたからこそ冬嗣は、蔵人所の設置と長官への就任を嵯峨に進言したのかもしれない。
蔵人とは、黒子であった。影であった。
天皇のために文書を運んだり、ときには着替えを持って行ったりする雑用係だ。
しかし、彼らは天皇と秘語を交わすことができる。
表職の人たちをつなぐことができる。


弟・嵯峨天皇 Japaaanウェブサイトより

兄・平城天皇 歴代天皇ウェブサイトより

 

平城上皇は、奈良遷都を宣言。
奈良遷都は事実上、京都朝廷の消滅を意味する。
嵯峨天皇はこれを拒否。
平城上皇は激怒し、壬申の乱の大海人皇子のように東国に向かって兵を動かそうとする。

冬嗣はこの前後、黒子として暗躍する。

彼の父・内麻呂は政府首班の右大臣であり、その妻は征夷大将軍・坂上田村麻呂の妹だ。
冬嗣は彼らと嵯峨の間を行き来し、最善の収拾策を画策した。

すべてを愛人・薬子に罪を負わせ、戒厳令を敷いて田村麻呂率いる軍を平城のいる奈良に出動させたのである。

史書は明示していないが、嵯峨と内麻呂、田村麻呂らの結節点になれるのは冬嗣しかいない。

平城上皇は出家、平城の子は廃太子、薬子は服毒自殺して事件は終わる。
世にいう薬子の変だ。
実相は、兄弟ゆえの悲劇である。

嵯峨は、勝った。
朝廷を統べる権力を手にしたのだ。
冬嗣は影としてこの事件を主導し、成功した。
嵯峨に権力を運び込んだ殊勲者として栄達を約束された。以降、急速に昇進を重ねた。

参議、中納言、大納言、右大臣、左大臣。

そのように栄達の階段を駆け登った藤原一族の者はたくさんいた。
冬嗣以上の極官まで登りつめた者もいる。

しかし、彼はいままでの栄達者とは違っていた。肩書きは同じでも歴史のフェーズがまるで違うのである。

紫式部にとっても、藤原道長にとっても、その後の藤原氏にとっても、冬嗣の存在は唯一無二、特別な存在であろう。
冬嗣がいなければその後の藤原氏はない、ということだ。
どうもそういう存在のようである。

平安宮付近 Wikipediaより

藤原冬嗣とはいったい何者なのだろう。

作家・永井路子氏の著作『王朝序曲』。
そのなかでえがく主人公・冬嗣の内なる姿は、こうだ。

その後、権中納言から大納言、そして右大臣と昇進しても、常に冬嗣は、さほど嬉しそうな顔を見せなかった。もっとも、中には
ーーあの大同末年のみぎりは、すさまじいお働きぶりをなさったのにな…
と首を傾げる者もいたが、あまりその折のことに触れたがらない様子である。


大同末年のみぎりとは、薬子の変のことである。

しぜん、話がそこへいっても、
「あれは坂上田村麻呂どののお働きで」
と、自分の存在をつとめて隠そうとした。


冬嗣がそうしたのは、おのれの性格もあったろうが、今までの権力者としての藤原氏の失敗を学んでいたからだろう。
だから、本当は権力の座に着きつつあるのに影のようにふるまうのだろう。

たとえば、奈良時代には、藤原仲麻呂がいる。近くでは藤原百川が、藤原種継がいる。
彼らは武力をひけらかし権力を誇示し、ぎらぎらした存在だった。
そして、ある者は天皇の敵となって敗死し、ある者は暗殺されるという末路をたどった。
冬嗣も、いつのまにか武力を握り、廟堂にも強力な人脈を張りめぐらしてしまっていた。

だからこそ、彼は、かえって、その権力から人の眼を逸らそうとする。彼自身さえ、その実態に気づいていないように、おだやかに振る舞う。
後世、彼に対して「温裕、弘雅」の評があるのはそのためである。


冬嗣は武力行使はもとより、それをちらつかせるのもやめようと思っている。
そしてこうも思う。

白刃は、抜けば一閃
眼にもとまらぬ速さで鞘におさめてこそ、凄みが加わるのだ。


冬嗣が天皇の雑用係になったのは、木下藤吉郎が信長の草履取りになって出世の糸口にしたのとは似ているようでそうではない。

冬嗣は、ごくおだやかに、なにげなさを装いつつ、古代律令制社会をへし折ろうとしている。
天智以来継承され、歴代の王者が、その維持、建て直しに躍起になっていたその社会をである。


その起点となるのが、天皇の雑用係である蔵人所という臨時で例外の事務機関であった。
蔵人所は、律令社会の実質的な転換(へし折る)となる大変革だった。

その大変革を、冬嗣は白刃も振りかざしもせず、静かに進行させてゆく。
それ以前の古代社会を否定するほどの変革であるがゆえに、わざとそれを気づかせまいとするかのように…


その彼が、たしかに律令社会を破壊したのである。
どう破壊したのかは、その後の歴史が明確に物語っている。

 

【参考】

永井路子『王朝序曲(下)』(角川文庫)

中村修也『図説 地図とあらすじでわかる! 続日本紀と日本後紀 』(青春新書インテリジェンス)

所功『歴代天皇知れば知るほど 』(じっぴコンパクト新書)

海音寺潮五郎『悪人列伝(ニ)』(文春文庫)