私の書きたいものは…〜司馬遼太郎が選ぶ最高傑作〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

司馬遼太郎と親交のある考古学者が、ふたりきりの席で、司馬にこう尋ねたという。

司馬さんのベストワン小説はなんですか。

本人にはそれぞれが愛着も思い入れもある作品だろう。
長編小説だけでも39作はある。
さぞ答えに窮する質問だと思う。
答えかねる、というところだろう。
質問者はよほど親しいか、それとも大胆不敵というべきか。

しかし、意外にも司馬は真面目に考え込んだすえ、やがてこう答えたという。

一冊というのは難しいわな。
せいぜい二冊ということでいえば、


『燃えよ剣』と
『空海の風景』かな。


また、ある時。
ある新聞記者が、

司馬文学の最高峰は何ですか。

と質問した。
今度は司馬、戸惑いの表情をみせたあと、

君はどう思う?

と逆質問をした。
その新聞記者は思わず、

『燃えよ剣』だと思います。

と答えると、司馬は、

ぼくもそう思う。

と答えたという。
新聞記者のみごとな明察だ。

 

小説『燃えよ剣』 新潮社ウェブサイトより

『燃えよ剣』

新選組副長・土方歳三が主人公のこの長編小説は、1962(昭和37)年11月から1964(昭和39)年3月にかけて週刊文春に連載された。

1959年の『梟の城』から1987年の『韃靼疾風録』までを考えるとだいぶ初期の作品だ。

直木賞受賞の『梟の城』は完全に創作された架空の人物が主人公だが、『竜馬がゆく』や『国盗り物語』、『花神』、『翔ぶが如く』、『坂の上の雲』と続く作品は、途中からもしくは最初から主人公は史実に縛られて、作家の自由な想像のつばさを広げることができない。

それが歴史作家の必然とはいうものの、巷間、司馬文学とか司馬史観などといわれ重々しいテーマと格闘してきた本人が、ふと作家人生をかえりみるとき、若い情熱にかられて自由の想像のつばさを広げ、存分に自分の世界を愉しく書き切った作品が、『燃えよ剣』だったのではなかろうか。

なぜ自分が歴史作家になったのか。
そして何を書こうというのか。


そのことがわかる一節が『この国のかたち』の中にある。

司馬は先の戦争を体験して、戦前の二十年のことを、戦後こう思ったという。

あんな時代は日本ではない。
と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである。
(略)
(日本や日本人は、むかしから今のようなぐあいだったのか)

という茫々とした思いを持った。

ひょっとするとむかしの日本や日本人はちがっていて、昭和という時代だけがおかしいのではないか、とも思ったりした。

そういう〝日本と日本人〟の証明をしたいという欲求が司馬の作家の原点のひとつであることに間違いはなさそうだ。

しかし、それだけでは多少堅苦しすぎやしないか(失礼な言い方だが)。
ほかにも子供のように純な、それでいて真を突くような理由があるのではないかと思っていたら、やはり別の著作でみつけた。

『燃えよ剣』のあとがきにこうある。

男の典型を一つずつ書いてゆきたい。
そういう動機で私は小説書きになったような気がする。
(略)
男という、この悲劇的でしかも喜劇的な存在を、私なりにとらえるには歴史時代でなければならない。

なぜならば、かれらの人生は完結している。筆者とのあいだに時間という、ためつしかめつすることができる格好な距離がある。

まず最初は、これが本音だったのではなかろうか。

その男を書くにあたっての最高の素材が、土方歳三だったというわけだ。

 

土方歳三 Yahoo!Japanニュースウェブサイトより
 

司馬をよく知る文芸評論家・尾崎秀樹は、こういう。

司馬遼太郎は、〝漢〟(おとこ)という字を好む。
ここでは、〝男〟の一字をあてているが、実際には〝漢〟を用いたかったにちがいない。


〝漢〟の字とは、熱血漢や硬骨漢、ときには悪漢や痴漢などと使われる。

男女の性別をあらわす〝男〟でなく、気持ちが強い男らしいとされる性質をもち、何かに固執してまでそれを押し通そうとする一途さをもつ人を〝漢〟として描きたかったのではないかと思える。

若い情熱にかられて自由の想像のつばさを広げ、存分に自分の世界を愉しく書き切った作品。
それが『燃えよ剣』だと前述したが、坂本龍馬や織田信長や大村益次郎などとちがい、土方歳三はある意味で自由に書くことができた男であったろう。
自由とは、何か。

この男は、幕末という激動期に生きた。
新選組という、日本史上にそれ以前にもそれ以後にも類のない異様な団体をつくり、活躍させ、いや活躍させすぎ、歴史に無類の爪あとを残しつつ、ただそれだけのために自分の生命を使いきった。
かれはいったい、歴史のなかでどういう位置を占めるためにうまれてきたのか。


司馬の次のことばこそが、自由の中で男としての土方を書き、自ら最高の作品と言えた理由だと思うのだ。

わからない。
歳三自身にもわかるまい。
ただ懸命に精神を昂揚させ、夢中で生きた。
そのおかしさが、この種の男のもつ宿命的なものだろう。その精神が充血すればするほど、喜劇的になり、同時に思い入れの多い悲劇を演じてしまっている。

(『燃えよ剣』あとがきより)

 

テレビドラマ『燃えよ剣』の面々(左から2人目が土方歳三役の栗塚旭) タワーレコードウェブサイトより

 

土方は出自が多摩の農民であった。
性(さが)としか言いようがないが、彼は武士にあこがれた。激しく武士になりたいと思った。
剣術にうちこんだのはそのための手段だったからだ。
やがて機会があり、無名の浪士として仲間たちと京都へ上った。
そこで京都守護職・松平容保の会津藩に働きかけお預かり浪士となった。
まがいなりにも彼は武士になれたのである。

土方の考える武士像を体現したのが新選組であった。

士道不覚悟の者は切腹

こんな激烈な思想をもつ組織などこの時期の幕府や諸藩のどこにもなかっただろう。
土方の精神が昂揚し充血すれば喜劇になるというのは、そこであった。

土方の士道こそが幻想だからである。
その幻想によって、多くの隊士が粛清にあい死なざるを得なかった。

それが多くの悲劇を生んだのだ。

たとえば、坂本龍馬は非業の死を遂げるが、倒幕に大いに貢献し、また、近代日本の多くの種子を残した。
織田信長も同じく非業に死ぬが、神が宿ったような合理主義と異常な貫徹力で中世を破壊し近世の扉を開いた。

しかし、土方歳三は…。

かれはいったい、歴史のなかでどういう位置を占めるためにうまれてきたのか。

進歩が歴史の必然であるならば、土方は司馬が言うように、歴史に何も残さなかった、ともいえる。
その生きざまと死にざまだけが、男の典型として見事なまでに、書くに値する、傑作を生むに値する人物だったのだ。



新選組の隊旗 和楽ウェブサイトより

話はかわる。

司馬遼太郎より30歳ほど年上というから、親子ほどの違いになる人物に、歴史作家・子母沢寛〔しもざわかん〕(1892〜1968)がいる。

子母沢の祖父は、彰義隊の生き残りの幕府御家人で箱館戦争でも五稜郭に籠城して戦っている。いわば、土方歳三とは戦友にあたる。

そうした出自によるのか作家になってからは、幕府側の人間を多く書いた。
勝海舟、その父・小吉、高橋泥舟などがそれで、もっとも代表的な作品が『新選組始末記』(以下、『始末記』)である。

実に1928(昭和3)年の作品というから、古い。
逆に考えると、歴史小説などといえないほど新しい。
なにせ土方歳三の死から59年しか経っておらず、永倉新八(二番隊隊長)の死からはわずか13年しか経っていないのだ。

『始末記』は、試衛館時代から土方歳三の死までが綴られている。
小説というよりは新選組に関する代表的な資料ととらえられており、その後の幕末を題材にした作品に影響を与えたといわれている。

子母沢のころは、新選組は完全に幕末の裏面史として、打ち捨てられ埋もれていた。
それを史料を片っぱしから調べ、生き証人やそれを伝え聞いた人を探し出しては取材した。
『始末記』によって初めて、近藤勇や土方歳三や沖田総司などの人物が生き生きと描かれて、現代に残っている人物像の祖型となった。

子母澤寛 新潮社ウェブサイトより

 

子母沢は取材魔であった。
子母沢は作家になる前は新聞記者だった。
記者の仕事を終えた土曜日、会社のある東京から夜行列車で京都へでかけた。
新選組の壬生屯所があった八木為三郎という老人の家を訪ねるためだ。
子母沢はこの為三郎翁から、話をきいた。

ある夜、雨の降りしきるなかを起き出して若い為三郎が雨戸のすきまからのぞいてみると、隊士が忍びあしで屯所の暗闇の中を忍び歩いていく様子が見えたという。

初代局長の芹沢鴨を殺しにいく土方や沖田であろう。

沖田総司のことも為三郎翁から聞き取っている。

沖田総司は20歳になったばかりくらいで、新選組の中では一番若いのですが、背の高い肩の張り上がった色の青黒い人でした。
よく冗談をいっていてほとんど真面目になっていることはなかったといってもいいくらいでした。
酒は飲んだようですが女遊びなどはしなかったようです。
(子母沢寛『新選組遺聞』より)


と、こんな具合だ。

子母沢はこうした話を集めに集めている。
ホントもあれば盛っているものもあればウソもあったかもしれない。
しかし、まだ歴史が生きている時代の証言が作品に生かせるということはきわめて大きい。

子母沢の古文書や史料の大量一括買いも有名で、新選組と名のつくものはミソもクソもなんでも買い漁った。
まちがって『新選編物研究』などという編み物の本まで買ったとか買わなかったとか。

1962(昭和37)年は、司馬にとって大きな年であった。

『新選組血風録』
『竜馬がゆく』
『燃えよ剣』

の連載を開始した年である。

司馬はこれらの連載を前に、子母沢の私邸をはじめて訪問している。
幕末維新の資料をめぐる談義は尽きることがなかったというから、新選組のことも多く話されたことだろう。

司馬遼太郎と子母沢寛は、1968(昭和43)年に「中央公論」の企画で対談している。
子母沢はこの翌年に亡くなるから、最後の対談だったわけだ。

対談のなかで司馬はこう言っている。

私は新選組を調べていましたとき、子母沢先生の『新選組始末記』がどうしても越えられない。
あれを最初に読みましたとき、私はまだはたち過ぎでしたが、非常に鮮やかな驚きを覚えました。
(司馬遼太郎『歴史を動かす力』より)


おそらく司馬は子母沢の『始末記』執筆までの資料一括買いや驚異的な取材について聞き知っていただろう。
リスペクトしていたのかもしれない。
それを含めて『始末記』には敵わないと言ったのだ。

司馬はなにも子母沢を真似たのではないだろう。しかし、大いに共感し、触発されたかもしれない。

 

小説『新選組始末記』 講談社ウェブサイトより

有名な話だがこんなことがあった。

『竜馬がゆく』連載開始の1962(昭和37)年よりも前。
東京・神保町の古書店に司馬から注文が入った。

坂本龍馬に関する史料をすべて集めてほしい。

店主は、龍馬関係のあらゆる書籍、古文書のたぐいはすべて大阪の司馬宅へ送った。軽トラック一台分はあったという。
全部で1千万円。
当時の価格である。

子母沢の死後のことか生前かは定かではないが、子母沢が集めた資料の譲渡話があったという。
量が膨大で出版社などでも引き取り手がなかなか見つからなかったのを、一括購入を引き受けたのは司馬遼太郎であった。

すでにベストセラー作家だった司馬は、収入のほとんどを資料の購入にあてていたように見える。

彼自身も言っている。

短編などの場合、本代のほうが稿料よりもうわまわることがある。

そういう話を知人にすると「商売でいえば、モトを切ったことになるな」と笑われるのだが、それではミもフタもない。

考えてみればへんぺんたる私の作業よりも資料のほうがはるかに重い。
私の小説は読みすてられてそれでしまいのものだが、資料は後代にまでのこってゆく。(略)

それだけに、私にとって資料は大事な宝物のようなものだ。
(司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと2』より)


約2万冊の蔵書が収められた司馬遼太郎の大書架 日本経済新聞新聞ウェブサイトより

 

取材についても、子母沢のこれを重んじる姿勢や逸話にふれて、司馬には感じるところがあったのかどうか。

司馬も元新聞記者であるが、取材魔であることについては人後に落ちない。
土方歳三の故郷である東京・日野については少なくとも2度は訪れている。

土方歳三の生家を訪ね、当主に会って話を聞くうち、土方家にはかつて石田散薬という家伝の打身の薬があったことを知った。

土方家では、多摩川の支流の河原に自生している雑草を蒸して砕いて散薬にするといい、そのために雑草を刈る、運ぶ、陰干しする、釜に入れる、釜から上げる、薬研で磨る、袋に入れるという工程を大人数で進めるための組織づくりと運用を、歳三が14歳の頃からやっていたことを知るに至った。

この石田散薬プロジェクトの経験から、土方が組織への情熱とそのノウハウの基礎を得たと司馬は考えた。

司馬にとってこうした現地取材は、資料のなかに仰臥している人物たちを起こさせるような創作の大きなエネルギーになっている。

土方歳三の生家 土方歳三資料館ウェブサイトより

繰り返しになるかもしれないが。

なぜ自分が歴史作家になったのか。
そして何を書こうというのか。

いわく、

男の典型を一つずつ書いてゆきたい。

『燃えよ剣』のあとがきにそうある。

そういえば、ことあと司馬は次々と男どもを描いていった。

『奇妙なり、八郎』の清河八郎
『人斬り以蔵』の岡田以蔵
『鬼謀の人』の大村益次郎
『英雄児』の河井継之助
『酔って候』の山内容堂

どれもこれも何度でも読みたくなる魅力的な作品である。

『燃えよ剣』連載開始の半年ほど前、司馬はくだんの問いに対する核心をこう述べている。

私は、作家として、一生、男の魅力とはどんなものかを考えつづけ、私なりに考えた魅力を書き続けようと思っている。
女に魅力があるように、男には、どの男の中にも、きわめて魅力的な部分がある。
私は資料をよむとき、この男の魅力はどこか、と考える。(略)

資料をよむたのしみは、男のそういう魅力に接するたのしみである。この魅力は現代小説では表現できない。(略)
私は資料をよみながら、ぼうばくとした「時代」を背景にその男の魅力を置いてみせ、美術ずきの者が美術品を鑑賞するような、舌なめずるような楽しさでさまざまに想像する。

このたのしみは、病気になろうがどうしようが、やめられるものではない。
(司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと2』より)


おそらくは『燃えよ剣』を執筆することで、こうした思いがかたまっていったことは間違いない。
彼は確信し、そして覚醒したのだ。

この作品を自身の最高傑作というはずである。

 

【参考】

森史朗『司馬遼太郎に日本を学ぶ』(文春新書)

子母沢寛『新選組遺聞』(中公文庫)

尾崎秀樹『歴史の中の地図 司馬遼太郎の世界』(文春文庫)

司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと2』(新潮文庫)

司馬遼太郎『歴史を動かす力』(文春文庫)

司馬遼太郎『手掘り日本史』(集英社文庫)