寿命が半分になってもいい〜司馬遼太郎の詩情な思い〜 | 天地温古堂商店

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歴史作家・司馬遼太郎にはぬきさしならない〝病気〟があった。
といっても、医学的な病気ではない。
そのことは、かつて自身が告白している。

場所は中国新疆ウイグル自治区のイリ高原で、である。
1980年4月から1年間、NHK総合テレビで『シルクロード』が放送された。
その撮影に司馬遼太郎も参加し、出演している。

1976年9月、中国では毛沢東主席が死去。
10年にわたった文化大革命の時代が終わり、新しく実力者として登場した鄧小平副主席は近代化・改革開放路線を採ろうとしていた。
国交正常化から6年後の1978年8月、日中平和友好条約が締結された。
そうした時代の追い風もあった。
その年の暮れ、「NHKにシルクロードの取材・撮影許可を与える」という連絡がもたらされた。

企画から7年。
ようやくその悲願は、NHKと中国中央電視台の日中共同取材による『シルクロード〜絲綢之路〜』の番組制作となって結実した。
いまから43年前のことである。

 


NHK特集「シルクロード-絲綢之路-」のワンシーン NHKアーカイブスより


司馬遼太郎が訪れたのはイリ。
漢字で書くと「伊犂」。

イリ地方は、中央アジアの中央部、イリ川畔の地域。
現在は中華人民共和国新疆ウイグル自治区北部のイリ・カザフ自治州の中にある。
天山山脈の北麓にあたり、すぐ先はもう中ソ国境(現在はカザフスタンとの国境)だ。

そのイリの北端にセリム湖という草原のなかの美しい湖があり、司馬は多くの少数民族が集まるその湖畔の交易会を訪れたのだ。

 


セリム湖 Wikipediaより

交易会場を眼下に臨む草原のなかで、ディレクターを相手に話し始める。

イリ地方という広大な地域はわずかな人口ですが、そのなかに13種類ほどの民族がいます。
世界の民族の博物館といわれてましてね。それぞれが歴史を持っています。
青い目の人もいれば、隆い鼻を持っている者もいれば、われわれに似たような顔の人もいます。


ディレクターは司馬にたずねた。

先生はどうして少数民族に興味をもっているのですか。

司馬はこう答えた。

若いときからそうなんですが、理由がよくわからないんです。
年をとってたんだんこじつけるようになりました。
2つあります。


ひとつは、(彼らは)ガンコな人が多いでしょ。
世の中が進んでもいまでも遊牧していたり、採集生活に近い暮らし方をしているというのは、多民族国家に融合して行ったのに、(そうならずに)残っている人でしょ。
一種の品格を感じるんですね。


もうひとつは、モンゴル高原を思いますと、ものすごい空間でしょ。地球の何割かという大空間です。
吸い込まれそうな中に遊牧して暮らしている。
大空間で、彼らには文化がない。
紀元前の司馬遷が書いたとおりの暮らしをしています。

農耕民族はいろいろと文化を持ちますが、騎馬民族の彼らは何もない。ほんとにからっぽです。

すごいことですよね。
それが感動となっていつもこのへんにあるんです。

こういうところへくると、自分が天地のなかにいるような気持ちになるんです。


そして司馬氏はこういう。

それだけなんですが、これはひとつの病気みたいなもんです。

少数民族への異常な関心が、自分の病気だというのである。

いまでも鮮明に覚えているが、さまざまな民族が色とりどりの服装を着て賑やかに物を売り買いするバザー会場の中で、

あなたはウイグル族か?
シボ族はいるか?
ハザック族はいるか?


とさかんに声をかけていた。

NHK特集「シルクロード-絲綢之路-」のワンシーン NHKオンデマンドより

この数年前にも、司馬は作家・井上靖らとともにこの地域に取材旅行に出かけている。
そのときも、その変わらぬ強い思いをこう話している。

街路ですれちがう人々もすべて私があこがれつづけた中国の中の少数民族のどれかに属していた。
それらの顔を見たり、しぐさを見ているだけで飽くことがなく、人々を見ることだけで待ち合わせのエネルギーを消耗し、それ以外の好奇心が出てくる穴がすべて塞がれてしまった感じで、いわば痴呆状態になった。


少数民族への異常な関心

それは、司馬が若いころにすでに芽生えている。
中学時代は典型的な学校嫌いだった。
規律という空間がどうにも苦手で、授業中も隣の子と私語ばかりしていたという。

ある日、英語の教師から、

台湾の高砂族には熟蕃と生蕃がいる。お前は生蕃で王化に浴していない。

といわれたことから、英語などは勉強してやるものか、と思ったという。

その代わり司馬は図書館にいりびたった。
立川文庫から十八史略まで、閉館間際までかたっぱしから読み漁った。
それと母の実家、奈良竹ノ内村での土器掘り石鏃集めに夢中になった。
村を通る竹内街道は古代遥かにユーラシア大陸につづいており、さぞ司馬少年の想像と愛着をかき立てたと思われる。

 

竹内街道 大和ロイヤルホテルウェブサイトより

そんな司馬は旧制高校への進学を目指した。
旧制高校は、戦前の日本社会ではエリート層の養成の場であった。
司馬の家業は薬局だったが、彼にその気はなく、新聞記者か小説家をになるつもりだった。

しかし、司馬は挫折する。
旧制大阪高校を受験し落ちたのである。
司馬は数学が大の苦手で、問題の意味すらわからなかったという。
一浪して旧制弘前高校を受験したが、またも落ちた。

当時、旧制高校→帝国大学は唯一無二のエリートコースであり、その道を閉ざされた挫折はいまの比ではなかっただろう。

司馬にその時のエピソードがある。

受験不合格の発表を見ての帰り道で、合格した友人がしきりと司馬に話しかけてきた。
その友人は喜びが大きかったのだろう。高揚しながら自分の将来を語り続け、そのうち司馬の浮かない顔に気づいて言った。

そうや、お前はいったいどうするつもりや。

司馬はみじめな自分に泣きたくなりながら、すべての栄光から生涯背を向けて生き抜いてやろうと覚悟してこう答えた。

おれか、おれは馬賊になったるねん、おれには馬賊が似合いや。

友人は、「弱そうな馬賊やなあ」といって吹き出したという。

しかし、司馬は本当に馬賊になるつもりで大阪外国語学校蒙古語科に入学した。

司馬が幼少年期の大正末期から昭和初期にかけては、〝日本を捨てる〟というムードが強かったらしい。
1932(昭和7)年、中国東北部につくられた満州国は、五族協和・王道楽土の建設というキャッチコピーをかかげ、それに惹かれた多くの日本人が満州に新天地を求め、次々と大陸へと渡っていった。

当時の流行歌に「馬賊の唄」というのがある。

僕もいくから 君もいけ
狭い日本にゃ 住み飽いた
浪の彼方にゃ 支那がある
支那にゃ 四億の民が待つ

可能性を夢みて馬賊にあこがれ渡満した青年たちはたくさんいた。
馬賊とは、治安の悪い満州と蒙古(モンゴル)を、自分たちで守ろうとする自警団のような集団のことだ。
その後、関東軍の特務機関(諜報などを行う軍事組織)の諜報員を指すようにもなった。

げんに司馬の蒙古語学科の卒業生には、満蒙に渡って諜報員=馬賊になった者も少なくなかった。

 

満州の馬賊 季刊現代の理論ウェブサイトより

中国では万里の長城の外側を、塞外という。
馬賊が活躍する満蒙は、その塞外の地だ。

司馬の将来に向けた大きな挫折は、気分として、日本を捨て塞外の地へ渡って生きるというアウトサイダーへの一歩だったことは間違いなさそうだ。

しかし、司馬は結局、さまざまな理由から馬賊になることを諦めた。

司馬には姉がいる。
その姉が使っている世界地図を見ているうちにあるものの虜(とりこ)になった。
中学生のころのことである。

渤海
韃靼

獫允

鮮卑
匈奴
蠕蠕

司馬はこれら奇態な文字を当てられた連中が漢民族王朝の北方にいて、農耕民族と異なる遊牧騎馬民族であることを知った。
これらは歴世、漢民族の農耕地帯に侵入する悪者として記録されてゆく。

馬賊の次に思ったのは、大学を出た後は、張家口というモンゴル人の住む町にある日本領事館の書記生になって小説を書くということであった。

しかし、その夢がかなうことはなかった。
戦争が起きたのである。
学徒出陣が決まり、戦場へゆくことになったのである。

中国戦線を走行する97式中戦車 毎日新聞ウェブサイトより


敗戦ー。
司馬は生還した。

戦後、彼は小さな新聞社を経て、産経新聞京都支局で記者になっていた。

そこで記者のまま、ある懸賞小説を書いた。
舞台はペルシャ、登場人物はモンゴル軍を率いる若き王子とその命を狙うペルシャの幻術師。
それが講談倶楽部賞を受賞した『ペルシャの幻術師』だった。

以前の稿でも触れたが、この作品には司馬のゆずれない強い思いがあったのだ。
それを彼はこう表現している。

私は少年のころ、いわゆる匈奴といわれる人種に興味をもった。
匈奴が東洋史上数千年のあいだ北方の自然に追われてときには南下し、さらには漢民族の居住地帯の文化と豊穣にあこがれ、それを掠奪すべく長城に対してピストン運動をくりかえしてきた歴史と、その人種の、歴史のなかでの呼吸のなまぐささをおもうとき、心がふるえるようであった。

もしそういう自分の気持が文章にできるとすれば、寿命が半分になってもいいとおもったりした。

NHK特集「シルクロード-絲綢之路-」のワンシーン NHKアーカイブスより

 

作家として司馬は次々と作品を発表する。
『戈壁の匈奴』と『兜率天の巡礼』。

前者は、モンゴル皇帝チンギスカンが西夏に侵攻して絶世な美女を略奪する話。西夏とは中国北西部にあった異民族の王朝だ。
後者は、発狂した妻の遺伝をさぐる夫・道竜が、妻の祖先はユダヤかペルシャ人の流れを汲む秦氏の子孫であり、秦氏が日本に古代キリスト教を伝えた景教徒であったことを知る話だ。

これらに登場するのは、いずれも西域の、塞外の、辺境の少数民族だ。

彼が最初に書いた小説の舞台が塞外の少数民族なら、最後に書いた長編小説『韃靼疾風録』もまた同様であった。

司馬は少年の頃よりずっと、思っていた。

ケモノかムシのような差別的な漢字を当てられ、蒼穹というべき大空間の下で、草原をかけまわり、何の記録も残さず消滅した辺境の少数民族の悲しみを。

 

それを司馬は、「詩的感情」だと言っている。

それは、少年の頃も、デビューの頃も、『韃靼疾風録』の頃も、そして天山北路のイリの草原の中でも、変わらずに抱いていた司馬遼太郎の〝病気〟であった。

たとえばそれは、病人を見れば相手がたれであろうと可哀想でたまらなくなるという緒方洪庵の性情のようでもあり、可哀想な人を見れば感情が多量にあふれ出て自らの境遇を忘れてしまう西郷隆盛の性情のようでもある。

資料を調べる司馬遼太郎氏 毎日新聞ウェブサイトより

冒頭の風景にもどる。
天山北路のイリ高原の風に吹かれながら、司馬遼太郎は思ったはずである。

10世紀ごろに匈奴に追われてモンゴル高原から逃げてやむなく西域に定住するにいたったウイグル族を。
清の乾隆帝のころ、西域に強制的に派遣されそのまま政府に忘れ去られてしまった軍夫の末裔であるシボ族を。

彼らの祖先は辺境の地を好んで土着するようになったのでは決してなかった。
しかしいま、彼らの末裔たちは何事もなかったかのように、文明から遠いところで紀元前の司馬遷が書いたとおりの暮らしをしている。
蒼穹と大草原のなかを、馬とともに。

勝手な想像であるが、司馬遼太郎の生涯通しての〝病気〟の正体は、いちばん近い感情でいえば憐憫の情であり、惻隠の情であったに違いない。
そう思える。

いま、彼の自由な魂は、青い風となって天山北路の草原を吹き渡っているだろうか。

 

イリの風景 中国国際放送局より





【参考】

磯貝勝太郎『司馬遼太郎の風音』(NHK出版)

福間良明『司馬遼太郎の時代』(中公新書)

司馬遼太郎『古往今来』(中公文庫)

海音寺潮五郎・司馬遼太郎『日本歴史を点検する』(講談社文庫)

井上靖・司馬遼太郎『西域をゆく』(潮文庫)

司馬遼太郎・NHK取材班『シルクロード第六巻 民族の十字路』(日本放送出版協会)