われ、不遇なり〜天才・宮本武蔵の憂鬱な渡世〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

だいぶ以前の稿で、吉川英治と司馬遼太郎について書いた。

二人はともに日本を代表する歴史作家だが、親子ほどの年の違いがあり、吉川英治のほうが年長で先輩である。

司馬の著作が直木賞候補となったときの選者であった吉川は、意外にも受賞に反対した。
結局は他の選者たちがこれを推し、受賞となったといういきさつがある。

歴史作家として正統な継承者と見られがちだが、必ずしもそうではない微妙な関係がうかがえる。



この二人はそれぞれの作品で、同じ人物を描いている。

たとえば、宮本武蔵。

『司馬遼太郎の風音』(磯貝勝太郎)というおもしろい本があって、そのなかで司馬遼太郎と吉川英治を比較しており、冒頭のエピソードもこれに書かれている。

ここには、二人が小説の題材として取り上げた〈宮本武蔵〉についても比較している。

『宮本武蔵』というと、作品としては吉川英治のそれのほうが圧倒的に有名で、小説のなかの人物として私たちにとってスタンダードになっている。

『司馬遼太郎の風音』によると、吉川の描く武蔵は自分自身の投影だという。

吉川は、『五輪書』の武蔵が到達した晩年の心境に思いをめぐらせ、粗暴であった若いころを推察して、逆境にめげずに自己修養に努力しながら、剣禅一如の道を歩む武蔵像を描き、それに自分自身を投影した。

武蔵の前半生はわからないことが多い。
そこで吉川は、逆境にありながら自己修養に努力し,文学の道を歩んだ自分の前半生を武蔵のそれに重ね合わせて書いた。
それが情緒的な日本人の心情をとらえ、大衆の共感を得たというのである。


吉川英治はいう。

もとより武蔵の剣は殺でなく、人生呪咀でもない。
護(まもり)であり、愛の剣である。
自他の生命のうえに、きびしい道徳の指標をおき、人間宿命の解脱をはかった、哲人の道でもある。


クライマックスは、佐々木小次郎との巌流島の決闘。
小説ではあるが、これが多くの人々の知る宮本武蔵の姿であろう。

 

映画『宮本武蔵 一乗寺の決闘』の宮本武蔵(演:萬屋錦之介) Mcuraウェブサイトより

 

司馬の描く武蔵は、自己の投影などない。

ゆえにそれをして読者の情緒に訴えようとする意図もなかった。


そもそも司馬は、自分の小説に微塵も自己を投影させない。

それは、司馬が「なぜ私は歴史小説を書くのか」という問いにはっきりと答えている。

人間にとって、その人生は作品である。この立場で、私は小説をかいている。
裏返せば、私と同時代の人間を(もしくは私自身を)書く興味をもっていない。


司馬は宮本武蔵の史料を丁寧に読み込みながら、定着している虚像とは別の実像に近い創作をおこなっている。
虚像を崩すその描き方は、時として主人公に対する意地わるさすら感じさせる。
本稿では、司馬遼太郎が描く宮本武蔵の姿を追ってみたい。

冒頭、幼き武蔵の登場のしかたは異様ですらある。

武蔵の父は新免無二斎という兵法者である。
晩年の子、武蔵は可愛げがない。
無二斎は幼きころより武蔵が嫌いであった。
無二斎も異常人だった。

武蔵は、父の刀さばきをからかい悪口をいった。
それを聞いた父は武蔵に向けて小刀を投げ、武蔵はこれをかわした。

これだけでも異様だが、父はさらに刀から小柄を抜きとって投げた。

武蔵は器用にかわしてあざけり笑ったという。
無二斎が逆上して武蔵にとびかかったところを、武蔵はそのまま逃げた。

『巨人の星』の星一徹・飛雄馬父子にも似ているが、相互の憎悪が存在する点でまったく次元が違う。

作者は、こうした父の暗い狂気に注目し、それが武蔵に遺伝していて、兵法者としての武蔵のエネルギーになっていたと、見ている。

宮本武蔵生誕地記念碑 美作市ウェブサイトより

武蔵は13歳の時、初めて果たし合いをして、相手を殺している。
相手は兵法者・有馬喜兵衛。

武蔵は樫の棒でするどく喜兵衛に飛びかかったのを、喜兵衛は飛び下がって真剣を抜いた。

武蔵は狡智だ。
勝てぬとわかると、「組もう」と叫んだ。

武蔵はまだ子どもだ。
素手の武蔵に、いきおい喜兵衛も太刀を捨てた。
武蔵は長身で、天性のつよい膂力と機敏さがある。
喜兵衛を投げとばし、頭を打ってふらっとした瞬間、棒をひろってぐわっと喜兵衛の脳天を打ち込んだ。打って打って打ちまくり、喜兵衛は目をおおうほど無惨な姿となって死んだ。

そのすさまじさは人ではない。

しかし、戦乱の時代に後世のような武士道など存在しない。武蔵にとって勝つためにはいかなる手段をとってもよく、卑怯は悪ではないのだ。


そのことを武蔵は『五輪書』にいう。

剣術の正しい道は、敵と戦って勝つことであり、これは絶対に変わらない。
正しい方法で負けるのと、間違った方法で勝つこと。
世間的には前者を良しとしがちであるが、後者の方がいいに決まっている。


13歳の宮本武蔵 Genoh.netウェブサイトより

ひとことでいえば、武蔵とは、

千万人に1人の天才であり、
自分のPRに余念のない自己顕示欲のかたまりであり、
戦乱の時代相にあった合理主義者であった。


武蔵非剣豪説がある。
彼の剣歴が吉岡憲法一門以外はいずれも二流、三流の剣客ばかりであったといい、なぜ、将軍家指南役の柳生宗矩を訪ねなかったのか、というわけだ。

一方で、武蔵と同時代の渡辺幸庵の手記『渡辺幸庵対話』によると、柳生宗矩より武蔵の方が強かったという。
渡辺によると、武蔵は風呂嫌いで一生に一度も風呂に入ったことがなかったという。
服はめったに新調せず、垢だらけでも一向に平気であった。調髪もせず、月代も剃らなかった。

それ故、歴々に疎して近づかず

というが、田舎剣客とばかりやり合って一流の兵法者と交わらなかったのは、武蔵の偏執者にちかい狷介孤高な性格によるものと、司馬は書いている。

宮本武蔵肖像(島田美術館蔵) Japaaanウェブサイトより

渡辺の武蔵評はつづく。

武芸のみならず、詩歌、茶道、碁、将棋など諸芸に長ず。


また、武蔵の書いた『五輪書』は、名文で論理性が高いといわれる。
間違いなく武蔵は千万人に1人の天才であった。
しかし、その明確な自覚と強烈な自負が、彼の不幸であったろう。

武蔵はその晩年に、自分は若いころ六度の戦さを経験した、と言っている。
武蔵はなぜ、戦さ場に出たのか。

侍大将か、大名に。

彼は立身出世がしたかったのだ。

17歳のとき、関ヶ原の戦いがあった。
武蔵にとって境遇を一変させる最後のチャンスであったはずだ。

このとき武蔵は、無名であった。
大きな手柄を立てるにはある程度の身上が要る。
そういう意味では彼は天才でありながら生まれてきたのが遅すぎたのかもしれない。

無名の武蔵は、足軽として宇喜多秀家の軍勢に加わったとされる。

武蔵は後年、自分は若いころに六度合戦に参加して四度の先駆けをしたと言っている。
本当かどうか不明だが、仮にしたとしてもこのとき属していた宇喜多秀家は敗軍であった。

武蔵は無名のまま放浪した。

武蔵の主な戦歴は

21歳 京の剣客・吉岡憲法一門と戦い勝つ
24歳 伊賀の鎖鎌の使い手・宍戸梅軒に勝つ
また、奈良で槍使いの僧・奥蔵院道栄に勝つ
29歳 巌流島で佐々木小次郎と戦い勝つ

有名な佐々木小次郎との決闘を制し、武蔵は出世したか。
それは否であった。

その後、31歳のとき大坂の陣があり、大坂城の浪人募集に応じて入城した。
このとき功名を立てたともいうが、武蔵の活躍やその名前すらどの資料にも残っていない。

武蔵は浪人のまま、長い歳月が過ぎた。

40歳を過ぎて、武蔵は親交のある幕臣を通じて猟官運動をしている。

当時、兵法者としてもっとも栄達していたのは柳生宗矩であった。
もとは大和の小領主で、歴戦して徳川家に尽くし、兵法指南役として3000石の大旗本になっている。

武蔵は江戸で直参旗本の地位を狙っていた。しかし悲しいかな、時代はすでに偃武となり戦場で戦闘指揮のキャリアのない武蔵は仕官することができなかった。

武蔵は次なる希望は、将軍家に次ぐ御三家・尾張家であった。
当主は徳川家康の九男・義直である。

徳川義直(徳川美術館所蔵) Wikipediaより 

武蔵は、尾張藩に仕官し、兵法指南役として千石を得たいと考えていた。
しかし、すでに尾張には柳生兵庫助が500石で仕え兵法指南役になっていた。

武蔵は仕官を願い出て、ついに藩主・義直の前で剣術を披露する機会を得た。
勝負はあっという間に決した。猛烈な気合いとおどろくべき早業である。
武蔵は、その相手を徹底的に打ちのめした。

時代の流れは、幕府が武力で押さえつけて治める政治から、不戦平和の政治へと移りつつあった。
兵法はもはや治世の道具となっている。

剣術の正しい道は、敵と戦って勝つことであり、正しい方法で負けるのなら、間違った方法で勝つほうがよいと信じていた武蔵に、義直は違和感を抱いた。

義直は、武蔵の天才性を認めていた。しかし、それが世間のどれほどの役に立つかといえば、また別の話であった。
藩の組織のなかで、多数の士卒を統御する将たり得るかと義直は考えた。

武蔵は仕官するにあたり千石以上を望んでいることも義直は知った。

当家の指南役である柳生兵庫助でさえ500石である。千石となれば有事における大将、平時における執政官に相当する。

余の存念とはあわぬ。

義直の意が武蔵に告げられた。

武蔵は失望した。
尾張藩は500石ではどうか、と再考を促したが、武蔵は、

それでは面目をうしない申す。

と言って名古屋城下を去った。

彼は〝芸〟としての兵法で生きることを拒んだのだ。

彼はたしかに不世出の天才であった。
しかし、戦乱の時代相を背景とした勝利至上主義の信者である彼は、治世にあるべき兵法とのズレの存在に気がつかない。
いや、気がついていたとしても強烈な自負心と自尊心が、あるべき兵法の存在を否定したであろう。


武蔵はただ、おのれの不遇を嘆いた。


武蔵が晩年に記した『五輪書』 nippon.comウェブサイトより

武蔵は剣客よりも兵法者よりも、将に憧れていた。

武蔵は転々とし、54歳のとき島原の乱が起きた。
武蔵はこの間、伊織という養子をもらい、その伊織の後見人という立場で伊織が仕える小笠原忠真勢に加わり島原の乱の城攻めに参加した。

一乗寺下り松、巌流島で剣名をあげて剣聖などと称された不世出の天才・宮本武蔵。
それは武蔵のいう生涯六度の戦歴の最後の戦場だった。
この戦いは、ある意味で象徴的だ。

その部分を司馬遼太郎の『真説宮本武蔵』から引用したい。

武蔵は勇躍した。
半生をかけて丹精した兵法や軍学の威を発揮するのは、このときぞと思った。
かれは、小笠原家の先手の物頭になっている伊織をはげまし、みずからも進み、翌日、諸兵とともに城塁のそばまで肉薄した。

ところが敵は意外に頑強であった。城塁の上の宗徒たちは、斃れるまで武器をとって戦い、弾丸がなくなると、城塁の上から大小の石を落下させた。
たちまち何人かが、その石の下に押しつぶされた。
寄せ手のほとんどは、はじめてみる戦闘の悲惨さに足がすくんだ。そのなかにあって武蔵は大喝した。

「伊織、このときぞ。士とはこの時に駈ける者をいうぞ」
武蔵は刀を背負い、槍をすてて、石垣にむかって武者ぶりついて行った。
その勇姿にはげまされて士卒がどっと石垣にとりついた。

落石はさらにすさまじくなった。
前後左右で、落石に頭をつぶされる者、肩や手足にあてられて石もろとも落下する者が続出した。

 

武蔵が島原の乱で攻めた原城 ながさき旅ネットより


伊織は、武蔵の養育に恥じない勇者だった。
ただひたすらに石垣をよじのぼっていたが、ふと武蔵がいないのに気付き、
「養父上、いかに」
と首を左右に振ってさがした。さらに下をのぞいてみた。
ところが石塁の根もとに目をやったとき、武蔵はむざんにも落石にあたって草の上にころがっていた。
(略)
武蔵が後日、日向延岡の城主有馬左衛門佐直純に出した書簡によると、この日の落石はすねにあたったらしい。

傷は、老人だけに意外に重く、骨にひびいたのか、武蔵はこの負傷のためにその日ながく立てなかった。

武蔵の培ったすべてが、その集大成というべき最後の戦いで役に立たず、その身は落石にあたって草の上に転がっただけであった。

彼はこの戦いのあと8年間生き、『五輪書』を書いて62歳で死ぬ。

自分のもつ能力を世間でどう使い、どういう役に立つか。
それが大きいことで人生の価値をはかるとするならば、武蔵の一生とはいったい何だったのだろう。

つくづく勘定の合わない渡世だったというほかあるまい。

 

武蔵が『五輪書』を書くため籠った霊巌洞 熊本市観光ガイドウェブサイトより


【参考】

司馬遼太郎『真説宮本武蔵』(講談社文庫)

司馬遼太郎『宮本武蔵』(朝日新聞社)

司馬遼太郎『歴史と小説』(集英社文庫)

磯貝勝太郎『司馬遼太郎の風音』(NHK出版)