だから、いやなんだ~文豪・吉川英治の或るつぶやき~ | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

歴史小説の大家は大勢いる。
物故者だけを五十音順でならべても、
 

池波正太郎

井上 靖

大仏次郎

海音寺潮五郎
五味康祐
早乙女貢
司馬遼太郎

柴田錬三郎
子母沢 寛
津本 陽

葉室 麟

藤沢周平
船橋聖一
村上元三
山岡荘八
山本周五郎
そして、吉川英治


文字通り、枚挙にいとまがない。
Yahoo!知恵袋にこんな問答があった。
 
吉川英治、海音寺潮五郎、山本周五郎、山岡荘八、松本清張、池波正太郎、司馬遼太郎、遠藤周作、藤沢周平…などなど、ひと昔前まではキラ星のごとく、それも巨星級の歴史・時代小説家がゴロゴロいたと思うんですが、最近全くいないのは何故ですか?
 
という問いに対し、
 
1.原書を研究した上で小説の世界を構築する能力ある作家が不在

2.歴史に現代風の解釈をつぎこんだ作品が多く、はっきりいってつまらない→読者離れ→作家も歴史小説から違う分野へ

3.歴史に対する関心の薄さ(読者も含めて)

4.大物作家を愛読した層がまだ残っており(かく言う私もそうですが)、今の作家の作品とついつい比較してしまう。

5.1.と共通しますが、原書・資料等を十分こなしきれておらす、その作家の特徴がでていない。格調がない。
 
との解答。
 
そういわれるとなるほど、いちいちうなずける。
解答された方の眼識には敬意を表したい。
 
歴史小説家には、歴史書を正史といわれる一等史料から野史、稗史、軍記、伝記などを渉猟して、史実の点と点のはざまを短くし、想像の補助線がいかに読者をワクワクさせ物語の世界に引きずりこませてくれるかという力が、なににもまして重要に思う。

 

さて、ことのよしあしは別にして、よく「国民的作家」という使われ方をする。
 
国民的作家とは何だろう。
ある人は、いう。
 
明治から現代に至る近代文学の歴史のなかに登場し、幅広い読者の心をつかんだ代表的な作家たちは、いずれもその時代の日本という自国、日本人という自民族のあり方に批判的な眼を向け、それを作品に盛り込んできた。
しかし、そうした営みをおこなうことは同時に日本への愛着の表現でもあり、その愛憎の二面性を動機として作品を生み出してきた作家たちがいつしか「国民作家」と見なされるようになる。
そして、7名の名を挙げた。
 
夏目漱石
谷崎潤一郎
三島由紀夫
遠藤周作
大江健三郎
司馬遼太郎
村上春樹
 
依怙贔屓するわけではないが、前者にも後者にも、司馬遼太郎がいる。
 
自分勝手を言うと、「純歴史小説」と区切ったとき、「国民的作家」の系譜は、吉川英治→→司馬遼太郎へと繋がっている。
 
私的には、その間にぜひ海音寺潮五郎をはさみたい。

吉川英治は文字通り、純歴史小説家の先人にして泰斗である。



公益財団法人吉川英治国民文化振興会 提供 青梅市吉川英治記念館HPより

宮本武蔵
新平家物語
三国志
私本太平記
新書太閤記

などなどの人気のある題材を、シンプルな文章で数々の人間ドラマを描き、読みごたえがあるのに、読み始めたら止まらないストーリーの面白さで、読者を最後のページまで魅了し続けた国民的作家だ。

戦後、吉川作品は映像化され、「宮本武蔵」は映画では五部作の長編で、萬屋錦之介が武蔵を演じた。大河ドラマでは「武蔵 MUSASHI」(2003年)を、市川海老蔵(当時、新之助)が主演。
大河ドラマでは他にも、太閤記、新平家物語、太平記の原作は吉川英治のものだ。

吉川英治
司馬遼太郎
海音寺潮五郎
の生没年を見てみるとこうだ。

吉川 英治 1892年(明治25年)8月11日 - 1962年(昭和37年)9月7日

司馬 遼󠄁太郎 1923年(大正12年)8月7日 - 1996年(平成8年)2月12日

海音寺 潮五郎 1901年(明治34年)11月5日 - 1977年(昭和52年)12月1日

吉川が最も年長で、海音寺の9歳上。司馬の31歳上で、親子ほど違う。

この純歴史小説家のビッグスリーは、運命的な交錯をしている。

1959年下半期の直木賞に、若き司馬遼太郎の作品がノミネートされたのだ。
審査員には、大仏次郎、源氏鶏太、吉川英治、村上元三のほか海音寺潮五郎もいた。

審査員は、司馬遼太郎の作品をどう評価したか。


直木三十五(1891〜1934) 写真 Wikipediaより

興味深いのは海音寺、源氏、村上ほかほとんどの審査員が◎=積極的賛成・最も高い評価をつけたのに対し、吉川英治は□=消極的評価・やや評価と最も低い評価をしたのだ。

結果、司馬の候補作は見事、直木賞を受賞する。
ご存知、「梟の城」だ。

<海音寺の選評>
何よりも、この人のものには、「梟の城」にかぎらず、人を酔わせるものがしばしばある。これは単にうまいとかまずいとかいうことと別のものである。

<吉川英治の選評>
私は読みながらこの才筆と浪曼のゆたかな作家にもっと求めたい工夫を随所に感じずにいられなかった。このスケールの大きな作家は今後かならず衆望にこたえて新しい領野をみせてくるに違いない。


(いずれも「直木賞のすべて」ホームページより)

記録には、少し微妙な表現もあるが、こうした賛辞が残っている。

しかし、実際はこういうことだったという。

文芸評論家・磯貝勝太郎の著書「司馬遼太郎の風音」から適宜引用する。

『梟の城』を読んだ海音寺は、忍者のあやかしの世界と奇怪な行動を描いている文章には読者を興奮させ、酔わせるものがあると感じ、直木賞にもっともふさわしい作品だという自信をもって、選考会に出席した。
選考がはじまると、意外なことに選者吉川英治が反対した。
その記録は残っていないので、理由は不明である。

だが、その時のことを回想した海音寺は、つぎのように書いている。


引用を続ける。

どうして先生がこの作品をお気に召さないのか、ぼくにはわかりませんなあ。この人の作風はお若い頃の先生を髣髴とさせますよ。

とぼくが言うと、

だから、いやなんだ

と言った。その気持ちはわからないではなかったから、ぼくは苦笑して黙った。吉川氏はなおこう言った。

この人は才気がありすぎる。歴史の勉強が不足だ。もっと歴史を勉強しなければ。


ここからは海音寺の述懐だ。

ぼくは心中、『先生よりたしかですよ。勉強しているだけでなく、自分のものにしていますよ』と思ったが、それを言うわけには行かない。
いろいろとねばったが、落ちるのではないかとはらはらした。しかし、吉川氏以外には買っている人が多かったので、ついに当選ときまった。いろいろな雑誌の小説の選者をしたり、直木賞の選者になってから十年にもなると思うが、こんなにうれしかったことはない。

(海音寺潮五郎「司馬君との初見参」)

海音寺は、司馬の熱烈なシンパだったのだ。まだ未知な存在ながら、歴史小説へのアプローチや史観が自分と同類であり、ひょっとすると自分を上回る力量の持ち主ではないかと想像したのではないか。

彼は司馬に、自分の持つ知識のすべてを自由に使って構わない、というような意味のことをのちに言っている。
海音寺は、優れた歴史小説がひとつでも多く、優れた歴史小説家が一人でも多く世に出ることを、自分の利害を超えて強く思っていたに違いない。

比較するわけでも、批判するわけでもない。

吉川英治は、海音寺が司馬の作風が若いころのあなたのそれに似ている、と言ったのに対して、

だから、いやなんだ

と答えた。

吉川はこのとき、歴史大作「私本太平記」を執筆中。文化勲章ももらった。
作家として成長して成功を見て地位も名誉も得た。

吉川は、かつて、伝奇小説を描いていたころの自分を思い出し、自己嫌悪を感じて『梟の城』の入選に反対したのかもしれない。

司馬遼太郎の文壇デビューの強敵は、吉川英治だった、と言っては言い過ぎだろうか。

 司馬遼太郎の直木賞の授賞式で、吉川は司馬に近寄り、こう言ったという。
 
自分は若いころ、つまらぬものを書きすぎた。

あなたも、その轍を踏まないようになさったほうがいいですよ。

 吉川は吉川なりに、身を刻むような痛みとともに、その後継者に金言を贈ったのだろう。