橘薫る風は微風なれど〜栗隈王、三千代、諸兄、そして〜 | 天地温古堂商店

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源平藤橘

とは、言うまでもなく平安時代以降に権勢を誇った氏族、源氏、平氏、藤原氏、橘氏の総称である。

源氏、平氏は皇族が臣籍降下したときに与えられた氏で、有名なところでは桓武天皇の桓武平氏、清和天皇の清和源氏が挙げられる。藤原氏は中臣鎌足に下賜され、その子不比等の時代から権勢を誇った一族だ。

よくある話だが、子どものころ、源氏、平氏、藤原氏から出た歴史上の人物の名前は言えても、橘氏となると、どうもいけなかった。

橘諸兄
橘奈良麻呂
橘逸勢

と指を折ると、もう次が出てこない。

橘家圓蔵は、噺家だし、
橘右近は、寄席文字だ。

洒落にもならない。

江戸時代の国学者・本居宣長も言っている。

よに源平藤橘とならべて、四姓といふ。源平藤原は、中昔より殊に廣き姓なれば、さもいひつべきを、橘はしも、かの三うぢにくらぶれば、こよなくせばきを、此かぞへのうちに入りぬるは、いかなるよしにかあらむ。
(本居宣長「玉勝間」より)

世間では源平藤橘と並べて四姓と言っている。
源平藤原はとても広く勢力を持っていた姓だから、そういうことになったのだろう。
でも、橘は必ずしもあの三氏に比べるとこの上なく勢力は狭い。
四姓の内に入ったのはどのような理由からだろうか。

と、言われるほど、氏族としての影が薄い。

橘姓を初めに賜ったのは、奈良時代の政治家で、正一位左大臣・橘諸兄。


橘諸兄(前賢故実) Wikipediaより


諸兄は皇族の出身で、元の名は葛城王という。
葛城王の皇族の系譜は、意外に勇ましい。
諸兄の父は、美努王(みのおう)。
その父、諸兄の祖父の名を栗隈王(くるくまおう)という。
栗隈王は、敏達天皇の孫にあたる。

栗隈王は壬申の乱が勃発したとき筑紫大宰の地位にあって筑紫にいた。
栗隈王が任命される8年前に、日本は白村江の戦いで完敗し、半島から完全に撤退した。
むしろしばらくは唐の日本侵攻があるのではないかと朝廷は疑懼していた。
だから筑紫大宰の役割は軍事・外交ともにきわめて重要であった。

672年6月、壬申の乱のときのこと。

近江朝廷は、真っ先に西国における軍事的拠点であった筑紫を押さえようとした。

長官は栗隈王か。
よし、もし命令に服従しない様子があったら殺せ。


近江朝廷は佐伯男(さえきのおとこ)という使者にそう命じた。

佐伯は来た。
栗隈王の前に立ち、筑紫の兵を近江に送れという大友皇子からの命令書を見せると、栗隈王は厳しくこれを拒絶してこう言った。

筑紫の軍は外敵を防ぐためにあるのを大友皇子はお忘れか。
城壁を高くし、堀を深くして、玄界灘に臨んで日夜まもりを固めているのは、国内の敵に対するものではない。
いま、命令に従って軍を発するなら、筑紫のまもりは空になり、火急の際には、国の存亡にかかわることになる。わかるか。
私は命令に背こうというのではないぞ。
これは朝廷の臣筑紫大宰、栗隈の任務である。


もし命令に服従しない様子があったら殺せ、といわれてきた佐伯は刀の柄に手をかけにじり寄ろうとするが、栗隈王の両脇に二人の息子、美努王と武家王が大刀を携えて父を護衛していて、容易に近づけない。
佐伯は返り討ちにあうような気迫を恐れ
ついに目的を達することなく、近江に引き返していった。

栗隈王の硬骨、赫赫たり。

乱後、即位した天武天皇は論功行賞を行い、栗隈王を兵政官長に任じた。
軍の最高責任者になったのだ。


大宰府正殿跡(都府楼跡石碑) Wikipediaより

 


天武天皇は、自己の新しい政権内に大臣を置かず、自らの皇子や皇族を、従来であれば有力な豪族が就いていた要職に任命した。

太政大臣は、天武の長子・高市皇子。

天武の跡を継いだ持統天皇もこれを踏襲した。


そもそも大化改新は天皇制の確立が大目的だ。それを踏まえて作られた大宝律令では、皇族でなければ皇后や妃になれないというルールがある。

葛城王(諸兄)にしても、皇子・皇族が要職を占める皇親政治が続いていれば、自らが皇位につかないまでも、宰相の地位を子孫に受け継がせることができたかも知れない。

さて、橘の話。

厳密にいうと橘姓の初めは、和銅元年(708年)に、諸兄の母親、県犬養三千代が元明天皇から与えられたもの。

県犬養三千代の出身は県犬養氏という地方の中級官人であった。
その一族には天武天皇の舎人(親衛隊)だった者もいるが、三千代は一般求人で採用された女官がキャリアのスタートだ。

この三千代が嫁いだのが、栗隈王の息子で筑紫で父が殺されそうになったとき、その傍らにいてこれを護衛した美努王。

美努王は、残念ながら官歴はあまりぱっとしない。治部卿などを務め708(和銅元)年死去。
三千代との間に葛城王ら二男一女がいる。

橘三千代は、したたかだ。
ひょっとすると史上最大の女傑かもしれない。

三千代は持統天皇に見いだされ、軽皇子(文武天皇)の乳母となると、何と美努王と離別し、藤原不比等と再婚する。

男を乗り替えたのだ。

701(大宝元)年、三千代は不比等との間に女児を産んだ。
光明子である。

三千代の不比等との再婚は、文武天皇の死と深い関係があることは明らかだろう。
文武の死に疑問があるのではない。

文武には、忘れ形見の一粒種がいる。
首皇子。
701年生まれというから光明子と同い年だ。

藤原不比等は、すでに娘を文武への入内に成功しており、首皇子はその子だから、不比等の外孫になる。

三千代と不比等は長年宮中にあって気心は知れていよう。
その後の二人を見ると天武・持統の血脈のみを唯一の皇統として護持することで同心したとしか考えられない。

光明子は、将来の天皇・首皇子の許嫁者として計画的に誕生したのだ。

三千代は、前夫が亡くなった708年11月には、早世した文武天皇の母で、その跡を継いだ元明天皇から橘宿禰姓を賜った。
宿禰とは、天武天皇が定めた八色の姓の上から3番目であり、三千代はこれによって貴族となった。

先夫の子・葛城王の出世は遅々として進まなかった。

710年(和銅3)年までは無官。その年、従五位下。
724(神亀元)年、14年かけて、従四位下。
藤原不比等の子などは、正三位・中納言になっている。
皇親政治など、とうの昔の話だ。

葛城王と藤原光明子は異父兄妹になる。
724年は光明子は聖武天皇の夫人になっている。
さらにその5年後、ついに皇后になる。

三千代の宿願であった皇族以外の身分からの立后だった。
先例はたった一例。
仁徳天皇の皇后・磐之媛の葛城氏だけだ。
光明皇后は、以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。


光明皇后 (下村観山 画・三の丸尚蔵館 蔵) Wikipediaより


葛城王は、2年後の731(天平3)年、参議。
翌年、従三位。

そして、母なる人・橘三千代は733(天平5)年、死去。
3年後の736(天平8)年に、葛城王は、

母の橘宿禰の姓を受け継ぎたい

と天皇に申し出た。
認められ、葛城王は臣籍にくだり、橘宿禰諸兄となった。
諸兄は、皇族を捨てた。

やはり、妹・光明子が皇后となった年に起きた長屋王の変が諸兄に与えた影響は大きかったのだろう。皇統を争う暗闘の末の冤罪事件だ。

おれはごめんだぞ。

もはや血を絶たれることへの恐怖といっていい。

皮肉にも臣籍にくだり橘諸兄となった翌年、天然痘が大流行して、藤原の氏長者・武智麻呂ら兄弟全てが病死。

諸兄は右大臣、さらに左大臣に昇進。
あっという間に日本の首相になったわけだ。

しかし、それも束の間。
光明皇后は若き実力者、藤原仲麻呂を重用。

諸兄の子・奈良麻呂は仲麻呂の専横に不満をもち謀反を画策したが未遂に終わった。

諸兄はこのことを知り756(天平勝宝8)年2月に辞職を申し出て政界引退。

諸兄の辞世の句はわからない。
引退直前に息子・奈良麻呂の家で詠んだ和歌がある。

高山の巌に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪

降る雪のように年々白髪が増え続けてゆく老いた私ではあるが、(橘氏は)菅の根のようにしっかりと絡みつき、千切れることなく長く続けばよいものだ。

自らの氏族の弥栄をうたった諸兄であったが、ひとの運命などすぐ先のことでさえわからぬものだ。
この2年後の1月、橘諸兄死す。
享年74。

高齢とはいえ不自然なまでに急速な失落だ。
奈良麻呂もこの年、拷問のすえ獄死したとみられる。


栗隈王の血をひく皇族で、橘三千代を母にもつ葛城王は臣下となり橘諸兄に。
一時、国政を担うも権力抗争に敗れ、その族葉は「此かぞへのうちに入りぬるは、いかなるよしにかあらむ」と言われるほど衰退した。

一方、異父妹の光明子は官人夫妻の子として生まれながらも、皇子を産み、多くの犠牲を払いながら皇后に登極した。

年の離れたこの兄妹の人生の上り下りは、まるで交差線のようだ。


余談になる。

光明子の血は、2人の子一男一女に受け継がれた。
が、男児の基王は夭折。
阿倍内親王も子はなく、光明子の死の10年後には途絶えた。

一方、諸兄の血は橘逸勢の書家、橘広相の学者、武者小路などの公家や楠木正成などの武家に繋がってゆく。

さらに、奈良麻呂の遺児に清友というのがいる。清友も32歳の若さで亡くなったが、子が多かった。
その一人に嘉智子がいた。

比類なき美人だっという。
後宮に入り、神野という皇子に見染められ結婚した。
神野はのちの嵯峨天皇、嘉智子は皇后となる。

橘氏で最初にして最後の皇后。

檀林皇后は、この人のことである。

 

橘紋 Wikipediaより