粛慎(みしはせ)憧憬〜見えてきた蝦夷の北の世界〜 | 天地温古堂商店

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辺境へのあこがれ

などと人はいう。

司馬遼太郎は辺境への愛着から紀行「街道をゆく」で、モンゴル、アイルランド、オホーツクを旅した。
小説「戈壁の匈奴」や「韃靼疾風録」も同じ理由だろう。

辺境となる外縁の基点となるものは、文明国家やそれに準ずる先進国家なのか。

しかし、その考えはひょっとすると傲慢なのかもしれない。
古代だろうが、太古だろうが、人類史でみればほんの瞬き程度のものだ。
そのさらに昔々の文明なき世々であれば、その濃淡は逆転していたのかもしれない。

たとえば青森県の丸山三内遺跡(縄文時代)である。
従前まで縄文時代の人々は50人くらいで集落をつくり、その場所で獲物が少なくなれば別の場所に移動する生活をしていたと考えられていた。
土器という煮炊きが可能な便利な道具を得ていたとはいえ生活内容は狩猟と採取の石器時代とあまり変わっていない。
ところが三内丸山遺跡では、約500人前後の人間が約1500年間に渡って生活していたことがわかっている。
集団墓地もある。
このことは、世代交代を繰り返し定住生活を営んでいた証拠であろう。

この北辺の地は、ひょっとしたら関東や畿内よりも文化的に先進的な社会があったかもしれないのだ。


西蝦夷図巻 坤(北海道大学蔵) 苫小牧市ページより

 


古代、奥州がまだ日本の版図といえなかったころ、北辺には蝦夷がいた。

古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた。

7世紀の飛鳥時代には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。
平時には和人と交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などと引き換えに、米・布・鉄器・工芸品を得ていた。
蝦夷はまだ、化外の地であった。

平安時代、803(延暦23)年、征夷大将軍坂上田村麻呂が遠征し蝦夷に勝利し、志波城を築城し、蝦夷征討の目的がほぼ達成された日本の版図となった。

では、その北には何があったのか。
何もなかったのか。

「日本書紀」によると、

655(斉明天皇元)年7月には、北蝦夷99人と東蝦夷95人を饗応したとある。
北蝦夷とは越の国(北陸・新潟)、東蝦夷とは奥羽地方を指すらしい。

一方、658(斉明天皇4)年4月には阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討伐している。
また、同年に渡島にわたり粛慎の討伐とヒグマの献上を受けた記録がある。
ヒグマは本州には生息していないため、渡島(または渡った先の島)は北海道か樺太ではないかといわれる。
斉明天皇とは大化改新の立役者中大兄皇子の母にあたる人だ。

粛慎は、ミシハセ

と訓む。

日本の正史には、蝦夷の北に粛慎がいたと言っているのである。

粛慎は、日本の正史である「日本書紀」や「続日本紀」などの中に記述が見られる民族である。

粛慎が、正史に現れる時期は3つ。

◉欽明天皇の時に佐渡島へ粛慎が来たこと
◉斉明天皇の時の阿倍比羅夫の粛慎討伐
◉天武天皇・持統天皇の時の粛慎の来訪と官位を与えたこと

では、粛慎とはどのような集団あるいは民族だろう。

諸説あるようだが、よくはわからない。

司馬遼太郎は「街道をゆく」の第38巻・オホーツク街道の中で言っている。

ミシハセとは何人なのか。

諸説があり決定的な考え方はない。
ここでは、素人として気楽にのべる。
いま網走のモヨロ貝塚や常呂の遺跡、さらには網走から稚内までのオホーツク海岸に、びっしりと連鎖して残る遺跡と関係があるのではないか、ということである。
つまりこの稿で仮称している〝オホーツク人〟こそミシハセではないかということである。
証拠はない。
ただ、私の気分だけである。


正史のなかの粛慎とはいかなるものだろうか。

粛慎の初見は、欽明朝の佐渡国。
土地のものではない見知らぬ人が船に乗ってきて海岸に留まっている。
書紀では彼らを粛慎人という。
春と夏は魚をとって食料にしている。
地元民は

あいつらは人間じゃない。鬼だ。

と言って近づかなかった。
また、物がなくなると彼らのせいにされた。
彼らは、瀬波河浦という地に移った。彼らはまったく孤立していた。
人の形をしていても鬼といわれるくらいだ。話す言葉も通じなかったのだろう。
彼らは、のどが渇いたのでその浦の水を飲んで、やがて死んでしまった。

次は、斉明朝。
三度にわたって朝廷軍と粛慎軍は戦っている。
最大の戦いは、660(斉明天皇6)年3月。

朝廷は、阿倍比羅夫を遣わして200艘の船を率いて粛慎討伐に出発。
このとき、なんと朝廷軍は陸奥の蝦夷を自軍の船に乗せて、大河のほとりに着いた。

青森県の十三湊あたりともいい、北海道の渡島半島あたりともいう。

比羅夫は、渡島の海岸に蝦夷が1000人ばかり宿営してるのを見た。
その中の2人が進み出て突然叫んでいう。

粛慎の水軍が多く来て私らを殺そうとしているのです。
だから、河を渡って朝廷に仕えたいと思っています、お願いです。


比羅夫は2人の蝦夷に、粛慎の軍船の数を尋ねると、蝦夷らはすぐさま隠れているところを指して、船は20艘あまりだという。

比羅夫は、粛慎に使者を遣わせて呼んだが、来ようとしなかった。

そこで、比羅夫は色とりどりの絹・武器・鉄などを海岸に置き、粛慎の欲心をかきたてた。

粛慎は来た。
持ち帰れば和平の意志がある。
果然、彼らはそれらの品物を持ち帰っていった。

しかし、しばらくすると帰ってきて品物を返しにきた。
比羅夫は、あきらめずいくつかの船を遣わして、粛慎を呼んだが、ついに来なかった。

粛慎はベロベノ島に帰った。
しばらくして、粛慎が講和を請うたものの、ついにあえて許さなかった。
やむを得ず粛慎は自分の砦によって戦った。このとき、能登臣馬身龍が敵方の粛慎に殺された。
朝廷軍も粛慎軍を攻めて死者が出た。

微妙なかけひきの結果、和平交渉は決裂。仕方なく戦闘となり多少の死者が出て終わったようだ。

その後、粛慎との戦いの記述はない。


阿部比羅夫(月岡芳年画) Wikipediaより


戦いから36年後の696(持統天皇10)年3月12日の条には、朝廷が蝦夷と粛慎に錦の上着と袴、赤い太絹・斧などを下賜したという記録がある。

この粛慎の名前がわかっている。

志良守叡草

シラスエソウ、という。

最近の研究で、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部で同一の文化を共有した海洋漁猟民族の存在がわかっている。彼らは

オホーツク人

と呼ばれ、以前に司馬遼太郎が自ら仮称したオホーツク人の存在が証明されたともいえる。

粛慎の正体。

このオホーツク人が「日本書紀」に現れる粛慎と考える見方が有力だ。

近年に北海道大学の研究グループがおこなった人骨の遺伝子調査から、オホーツク人はニブフ人やウリチ人などと共通性が強いことがわかっている。
彼らは樺太北部やアムール河下流域に住んでいる人々だ。


オホーツク観光連盟ホームページより

 


ニブフと聞いて思い出した。

間宮林蔵の樺太から沿海州への渡海を手伝ってくれたのがニブフ族の酋長コーニだった。
コーニが林蔵を、アムール川の中流域にある清朝の出先機関・デレンまで連れて行ったのだ。

粛慎(みしはせ)はオホーツク人。

この新説通りならば、コーニも粛慎の遠い子孫ということになる。

 

 

 

 

おそらく、この蝦夷の北に棲む民族は古くからミシハセという音で呼ばれていたのだろう。
後世、日本書紀ができたころ、ミシハセに「粛慎」の字があてられたのではないか。

中国の史書「晋書四夷伝」に、粛慎のことが出ている。こちらはシュクシンという。
おそらく、ミシハセとは別の人々だろう。

粛慎氏は一名を挹婁といい、白頭山の北に在り、夫余から60日ばかりの行程である。東は大海(日本海)に沿い、西は寇漫汗国に接し、北は弱水(アムール河)にまで達している。


紀元前1世紀頃の東夷諸国と粛慎の位置 Wikipediaより

日本書紀の編纂責任者は舎人親王。
天武天皇の子だ。

天武天皇は親新羅の外交姿勢だが、当然新羅などから半島や大陸の情報は詳しく知らされている。
半島の北方、沿海州にいる人々がシュクシン(粛慎)であることは知っていよう。

舎人親王が、蝦夷の北にいる阿倍比羅夫と戦ったミシハセと聞いたとき、

ああ、弱水といえば、父の言っていた高句麗の北にある靺鞨という国を作った粛慎人のことか。

などと言ったかもしれない。

粛慎という日本には、いくぶん奇妙な民族名について長々と書いた。

ただわかったことは、国境や国家がまだはっきりとしない時代に、むしろ民族は大陸や島などを東へ西へ自由に移動し、北に南にあくせく交易して、地球をすみかとしていたということだ。
 

地球として俯瞰すれば、国境はあとから来たもので、したがって「辺境」などという言葉は、後から来た者の傲慢な物言いなのかもしれない。

 

流氷のオホーツク海から紋別を望む tenki.jpホームページより