「麒麟がくる」が、またくる。
2021年7月31日午後6時から総集編4本立てだ。
長谷川「光秀」、本木「道三」、染谷「信長」、佐々木「秀吉」、風間「家康」の魅力ある男どもに再び会うことができる。
近世日本の成業は、道三・信長・秀吉・家康と連なる英雄ラインで成し遂げられる。
この間、70余年の出来事だ。
「麒麟がくる」の重大性は、この国の現代社会の直接の原点が、この時代にあることだ。
信長が生まれてきた時代には、まだ日本全体を覆う公権力(大公儀)が存在していなかった。
大公儀は、信長の生まれた濃尾平野から生まれたといっていい。
美濃の斎藤道三が光秀に言った「大きな国」がそれで、時を同じくして尾張の信長はその実現を目指して大公儀の主人である天下人となるべく猛進した。
斎藤道三像(常在寺蔵) 写真 Wikipediaより
信長の核心は、合理性・合目的性である。
強くはないが貴い権威や世俗の権力に抗う信仰の非合理性が、信長の大きな国造りを阻害した。
信長は、徹底的な性格を持っている。
合理性・合目的性を徹底するために、時としてその行動は残虐性をともなった。
比叡山焼き討ち、伊勢長島一向一揆など権威・信仰との戦いがそれである。
その者たちから見れば、信長は乱暴者であり、秩序破壊者であった。
信長は、鉄と血と火による戦いの連続であった。
そうしてこの国に、暴力でもって国内を統御するという、史上初の中央集権的な権力を信長は作り上げた。紙本著色織田信長像(狩野元秀画、長興寺蔵) 写真 Wikipediaより
光秀は、違う。
権威や信仰を壊さず、中世を続けたかった。いわば今の中世を洗浄して、新しい中世を作りたかった。
歴史学者の磯田道史氏は、この英雄ラインにおける明智光秀の存在をこう見ている。
信長がすさまじい早足で時代を駆け抜けていく。しかし、信長と同じ速さで駆ける人間の視点では、並行して走る車が隣の車を見るように、その速さを実感できません。
そこで、光秀の目から見た信長、つまり室町幕府的な中世の考え方を引きずった古い視点から、その上を飛び越えて進んでゆく信長の新常識を描き出すと言う手法をとったわけです。
中世から近世に突き進む信長と、中世を続けようとする光秀その対比は秀逸です。
※磯田道史「司馬遼太郎で学ぶ日本史」より
つまり、時代を勢いよく前に進めるアクセルを踏む信長を際立たせるために、ブレーキの役割で光秀を出したという。ブレーキとは、マイナスの意味で言うのではない。
「麒麟が〜」終盤の劇中、光秀が家康に信長後の天下統治を期待する場面があったと思う。
光秀は、家康に何を見出したのか。
明智光秀像(大阪府岸和田市・本徳寺所蔵)
家康は、信長とは違う。
家康は信長からは学ばなかった。
軍事は武田信玄から学んだ。
民政は北条早雲から学んだ。
秀吉からは、石高制を学んだ。
家康は独創性がなかった。信長の後だけに、なかったことが幸いした。
経済史に「経路依存」ということばがあるそうだ。
経路依存とは、制度や仕組みが過去の経緯や歴史的な偶然などによって拘束されることをいう。
前出の磯田氏はいう。
日本社会には経路を大事にして激変を好まない傾向があります。
それまでの行きがかりを大事にする人物が最後には天下を取るのが世の常です。
ということは、経路を破壊する信長のような人物は淘汰されていくという側面も、じつはこの物語(注:国盗り物語)に描かれているのです。
光秀は、経路依存を核心にもつ家康に期待したのではないか。
そして、激変を好まない日本社会の嫌悪感の発露を運命的に光秀が負ったことになる。
合理的でリアリズムを持ちつつ、暴力でもって国内を統御する中央集権的な権力を作り上げた信長。
その信長の二面性が、その後の公権力の二面性になった。
ひとつは、モノやコトを機能としてとらえ合理的で明るくリアリズムを持った「正」の一面。
もうひとつは、権力が過度の忠誠心を下の者に要求し、上位下達で動くという「負」の一面。
信長以降の世俗権力はそもそも暴力体で、天皇の権威も「玉」などといい利用する。
その力が暴走し始めると破局するまで止めることができない。
信長が始めた公権力の直系である近代国家日本は、このような恐るべき負の側面を胎内に宿していた。
もうおわかりのことと思う。
70余年前、権力が過度の忠誠心を下の者に要求した末に、例えば私の伯父も若くして大陸で、その生を畢らざるをえなかった「破局」がこの国に来た。
その源泉が戦国期の濃尾平野にあったことを、私たちは心に留めてよいのではないか。
再放送情報 大河ドラマ「麒麟がくる」総集編 全4回一挙放送
濃尾平野