非常の人、非常に生き、非常に死す〜平賀源内の腹悶〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

俳優の杏さんは筋金入りの歴女だそうだ。

 

彼女の最も好きな建造物は中尊寺だという。奥州藤原氏の最後の当主泰衡の首桶の中から見つかった蓮の種子が平成10年に810年振りに花を咲かせた。この泰衡蓮の話を何かの番組で披露していた。

 

そう聞いて、心当たりがある。

 

奥州藤原氏の開祖・藤原経清と奥州の覇者となるその子・藤原清衡、源頼朝に滅ぼされる藤原泰衡が主人公となる大河ドラマ「炎立つ」。

そのドラマで藤原経清と泰衡を演じたのが、彼女の父(渡辺謙)だったのだ。

 

さて、奥州藤原氏から話は変わる。

彼女の最も好きな歴史上の人物は、

 

平賀源内

 

だという。

 

日本のダビンチ。

別の名を、

風来山人(ふうらいさんじん)

福内鬼外(ふくうちきがい)

天竺浪人(てんじくろうにん)

貧家銭内(ひんか ぜにない)

 

太平記の楠木正成にしても、義経記の源義経にしても、忠臣蔵の大石内蔵助にしても、彼らの名や生き様を歴史に刻むには、必ず喧伝する逸話や文学作品が存在している。

古典ではないが、源内にも、それがある。


1971年から一年間、NHK総合テレビで放映された時代劇ドラマ「天下御免」だ。


早坂暁氏のオリジナル脚本で、伝説といっていいほど世間的評価が高い。天下御免フリークも少なくなかろう。

杏さんや早坂氏をかくも魅了する平賀源内とは、いったい何者なのか。

 

出自は讃岐国高松藩の足軽で、父はお蔵番の役についている。父の死後、源内はお蔵番を継いだ。22歳の頃である。


彼の性格・生涯を見るとき、彼にはこの時期がいちばん辛かったのではないか。鬱屈とした思いが、黒い澱のように心の底に溜まっていただろう。


彼は、未来から来た人のように才能も気質も封建社会には合わなかった。ただ、自分がなにものかがわからない一若者だ。

いまある足軽お蔵番という現実が、ひいては藩社会、封建社会そのものが唾棄したいほど嫌だったに違いない。

 

 


そんな彼に飛躍の時が来る。

25歳、長崎への遊学の許可が藩からおりるのである。

一足軽に何故長崎遊学が許可されたかはよくわからない。きっかけはある。

 

源内は12歳の頃、掛け軸に細工をして「御神酒天神」を作った。御神酒を供えると、掛け軸に描かれた天狗の顔が赤くなる仕掛けがあり、村人を驚かせ、源内は「天狗小僧」と呼ばれた。

狭い城下のことだ。

その評判が広まり、藩役人の知るところとなったのだろう。


13歳になると、藩医のもとで本草学を、儒者から儒学を学んだ。

本草学とは、植物学、医薬学、博物学などの総称のこと。人文科学と自然科学を修学することになるが、本草学を学んだことは源内の好奇を満たすには大きかった。

こいつは只者ではない、藩費を使ってでも才能を開花させ藩益に役立てよ、と藩幹部の方針が出たのかもしれない。

 

源内は、長崎で本草学、オランダ語、医学、油絵など西洋の知識に接した。

彼は無性に楽しかったに違いない。自分の豊かな好奇や知嚢の大地に水が滲み入るように未知の知識が吸収されていく。

 

その源内が遊学を終えて高松に帰る。

高松藩は19世紀に入り領内での生産が普及してきた砂糖の国産統制に乗り出したとあることから、源内に期待していたことはその開拓者となることであったろう。

 

「天下御免」では早坂氏が、歴史考証はきちんとやった、と言っている通り、藩主が源内に砂糖栽培を内命するシーンもある。

 

結果として、源内は妹に婿養子をとってもらい、脱藩する。

身悶えするほど欲していた自由人となったのだ。嫌悪していた封建社会からの脱出であった。

 

 

 

源内は江戸へ出た。

才能の見本市である江戸が源内を放っておくはずがない。 

源内は大いに自由を得た。

が、その代わり高松藩による奉公構えという制裁に遭った。

 

田村藍水(医師・本草学者)に師事したことで、大きな人脈を得る。

藍水が幕府医官に任官。藍水は島津重豪や細川重賢など名君と言われる諸大名とも交流があった。幕府筋、大名筋に源内の存在が知れることになったとしても不自然ではない。

 

源内は1757(宝暦7)年に師の藍水と湯島で物産博覧会を開き、日本の本草学発展の基礎を築いた。博覧会は大いに人気を博し、江戸に源内の名は高まり、老中で時の権力者田沼意次の知るところとなる。


この間、藍水門下で同門の若狭小浜藩医・中川淳庵と親交を深め、彼の仲介で蘭学者・杉田玄白の知己を得た。

源内と玄白は、昭和までの日本人科学者ベスト5に名を連ねているほど科学の巨人だ。二人はライバルでもあり親友でもあり、互いを深く理解する同志でもあった。


その玄白が、源内をこう評した。

 

平賀源内という浪人者は、本職は本草家であるが、生まれつき物の理を悟ることが早く、才人で時代の風を読むことに長けた人物である。

 

源内は、玄白の言う通り、本職は本草学者であった。しかし、他にも、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家、CMソング作家、コピーライターの顔を持っていた。

前出の風変わりな別名もそうした顔ごとの名乗りであった。

 

多才は源内のために、果たして良かったのかどうか。


源内は、奉公構えのためにどこにも仕官ができない。

奉公構えとは、主人の不興を買って勝手に出奔した家臣について、他家がこれを召し抱えないように釘を刺す回状を出されてしまうことだ。

老中・田沼に認められたとしても幕臣にはなれなかった。科学者としては、金が要る。

されど、浪人。金に苦労するのが常だった。

 

次に彼が熱中したのは鉱山開発だった。

 

川越藩の依頼で秩父大滝の中津川で鉱山開発を行い、山中で石綿を発見した。しかし、源内が発見しようとしていたのは金の鉱脈であった。源内が設計し長く逗留した建物が源内居として残っている。3年掘ったが遂に見つからず、失意のうちに秩父を去った。


再び長崎遊学で、鉱山採掘、精錬の技術を学ぶと、秩父で砂鉄を採取、秋田で鉱山調査をしたが亜鉛の製錬に失敗。秩父でも製鉄に失敗。

 

生活に窮して細工物を作り売りした頃は貧家銭内と名乗ったりした。

窮地の中で源内は一発逆転を狙った。

それがエレキテルである。

 

明和年間、源内は長崎通詞がかつて持っていたエレキテルの壊れたものを手に入れた。

それを江戸に持ち帰り、復元しようと苦心し、1776(安永5)年11月に完成した。

源内は、エレキテルを大名などに高級見世物として公開したり、電気ショックを病気治療に応用し、謝礼を受けとり、借金に追われていた家計も、新宅を普請するまでに改善した。

しかし、この状況は長く続かず、見物人や治療を受ける人は減っていった。

〈平賀源内と秩父鉱山〉より

 

源内の代名詞となったエレキテルだが、資金も底がつき名声も錆びついた元スーパースターの最後のひと興行のようなもので、物悲しい。

 

比べてみると、田村藍水は医師で幕府に登用されている。中川淳庵は若狭国小浜藩医。杉田玄白は同じく小浜藩の奥医師で「解体新書」の著者である。

みな一貫して安定した組織と地位の中で実力を振るった者たちだ。

 

対して、源内は貧なるといえども、完全なる自由人だった。

 


源内の晩年は、悲痛だ。


エレキテルから3年、ある大名が別荘の修理を大工に依頼した。しかし、源内はその大工よりもはるかに安い値段で修理ができるという。結局大名は、源内と大工とを共同で修理にあたらせることにした。

大工は、源内に「なぜ、あんな安い見積もりで修理ができるのか?」と問うと、源内は、その修理の計画書を大工に見せた。驚く大工を見てほくそ笑む源内。しかし、翌朝起きてみるとその計画書が消えていた。大工が盗んだに違いないと思い込んだ源内は、逆上して大工を殺してしまった。


源内は殺人罪で投獄され、1か月後破傷風により獄死。52歳だった。

 

杉田玄白が書いた源内の墓碑銘にはこうある。

 

ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや。

 

源内は確かに、非常の才が次々沸き起こる非常の人であった。ただ厄介なのは、その才が多彩なことだ。玄白が見抜いたように、彼は本来なら本草学で生きれば良かったのかもしれない。

が、それに留まることができなかった。病的なまでに留まれなかった。そのために自由が必要だった。

 

見当違いかも知れないが、私は吉田松陰の言葉が脳裏に浮かんだ。

 

那波列翁を起してフレーヘードを唱ねば腹悶医し難し。

(自由を勝ち取らねば胸中の苦悩を解消出来そうもない。)

 

源内にとって、自由への欲求は、腹悶というほど非常なものだったのではなかろうか。

源内の腹悶は、己の才能の自由な発露によって霧消することができる。

彼は、沸くような才能を次から次へと発露し霧消させた。しかし、彼は金に無頓着だったろう。それを商品化して蓄財し次の研究開発にあてていない。もしくは商品化に失敗している。

 

彼の一生といったい何だったのだろうか。

 

 

私は、或ることを想起した。

 

西南戦争の只中、薩摩軍に参加した者に豊前中津の増田宋太郎がいる。

敗色濃厚となり、西郷は解軍の令を出し、自ら陸軍大将の軍服や書類を焼き捨てた。このため、薩摩軍諸隊から政府軍に投降する者が相次ぐ。

この時、増田は異郷の者ながら、故郷に帰って死ぬだけの薩摩軍に残ると言う。

 

中津の同志たちは理由を尋ねると、増田は有名な一言を吐く。

「一日先生に接すれば、一日の愛生ず。三日先生に接すれば、三日の愛生ず。 親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ」

 

西郷らは鹿児島の城山に籠り、政府軍に総攻撃を受け、主だった将兵はすべて西郷と運命をともにした。その中に、増田の姿もあった。

 

草と草を結んで事の成功を期待する古俗が豊前あたりに残っていたらしく、増田は生前、薩摩の同志にその話をし、

 

しかしありようは草のかわりに風を結ぶようなものだ

 

と言った。

小説「翔ぶが如く」にそうある。

 

平賀源内の一生は、風を結ぶ人生のように思えてならない。