歌舞伎役者には、花道がある。
ドラマでは、刑事たちや隠密同心がオープニングに勢揃いしてテーマ曲に合わせて歩いてくる。
歴史の中から誰かを選べるなら、私はこの男たちを連れてきて、横一線に並べて肩で風切って、登場させたい。
男は8人いる。
出自は、全員が無名だ。
医者の子
金細工師
猿楽師
旧幕臣
出自不明の僧侶
船大工
呉服商
主家を2度出奔した男
時代は秀吉が亡くなってから家康が天下をとりその後亡くなるまでの間のことだ。
家康は実際に天下の実権を握ったのは1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いの勝利による。家康の死は1616(元和元)年だから、16年間で徳川300年体制の棟上げくらいを済ませてしまったのである。
秀吉の天下が決まった山崎の戦いの1582(天正10)年からその死までが同じ16年間であるのは奇遇なことだ。
くだんの8人の男たちは、家康が命じる天下普請のタスクフォースを、持ち得る最大限の能力をその知嚢と五体から吐き出して、家康の死に間に合わせるように完遂したのである。
茶屋四郎次郎(清延、その子清次)
家康幕下ではまったく生え抜きではない、ちょっと怪しげな人々だ。
家康は天下を手中にしたのが57歳。人生50年のこの時代ではすでに老人だ。家康は、急ぎやらねばならないことが山ほどあった。豊臣家を潰すことと、徳川政権による秩序を作ることだ。豊臣家を潰すストーリーは自分以外に任せる者などいない。
結果として豊臣家が滅亡したのは1615(慶長20)年で、家康の死の前年である。
では、徳川政権による秩序を作り国家300年の大計を立てる大ミッションをどうするのか。家康といえども体はひとつだ。
以前、家康は創造者というより偉大な模倣者と言ったが、彼の手本の一人は武田信玄だったはずである。
武田家滅亡は1582(天正10)年。家康は武田の遺産を強く欲した。まず、赤備えと恐れられた当時の日本一の最強部隊を、自分の軍組織に組み入れた。
次いで、武田信玄の組織思想を、短期間の徳川秩序の構築のために取り入れた。
信玄の組織思想とは、小さな管理中枢機能と大きな現場ということだ。
「多少のことがあっても、支店長はすぐ本社に『どうしましょうか』と駆けこんでくるな。おまえたちの入れるような広さは、本社にはない。現場で判断して責任を持て」
(『戦国武将のマネジメント術 乱世を生き抜く』童門冬二)
というように現場に大きな権限を与えた。
家康はこの信玄方式を採用した。
ここでいう支店長に、8人の男たちを置いたのである。8人は恐るべき異能者たちだった。
家康はそれぞれの異能の特性をみきわめ、スカウトし、それに見合った仕事を与えたのだ。
角倉了以
家康の命で、安南国(ベトナム)との貿易を開始し、朱印船貿易で武器や硫黄、薬を輸入。大堰川、富士川、天竜川、鴨川、高瀬川、庄内川の開削で水運の父と呼ばれる。
後藤庄三郎
家康の命で、一両小判を鋳造。慶長小判として流通。小判、一分判、二分判、二朱判、一朱判および五両判など貨幣を整備。家康の財政、貿易顧問。
大久保長安
武田家遺臣。家康の命で、甲州の内政を再建。八王子千人同心創設。関東代官頭。佐渡金山、石見銀山の開発。全国金銀山の統轄。関東の交通網整備。
金地院崇伝
家康の命で、東南アジア諸国との交易、西欧との外交、外務文書の起草や朱印状の事務取扱。全国の寺社統轄。禁教令、寺社・武家法令の起草。
天海
家康は、天海から天台宗の教義を聞き感銘。朝廷との仲介を担当。比叡山探題執行。江戸の町を設計。大坂の陣のきっかけとなる鐘銘事件に関与。家康死後、その神格化を実現。
三浦按針(ウィリアム・アダムス)
英国人。大分に漂着して、家康に引見。家康の命で、西洋式帆船を建造。航海術、世界情勢諮問に答える。外交顧問。
茶屋四郎次郎
本能寺の変の時、伊賀越を助けた功により、御用商人に。朝廷の仲介、朱印船貿易を担い、巨万の富を得る。
伊奈忠次
小田原征伐や朝鮮出兵での兵粮輸送、街路整備で功があり、関東代官頭の一人に。検地、新田開発、河川改修、知行割、寺社政策、農業振興などに大きな功績。
天下普請のタスクフォースではあるが、彼らは組織集団ではなく、家康と直に結びついて「特命」として国家規模の任務を請負ったのだ。
権限を与える。
仕事をせよ。
幕府に富をもたらしめよ。
儲けた利益のうち相応分はそなたが得よ。
天海や崇伝ら以外の者たちへは、こうした方法で、異能を最大限に発揮させる動機づけをしていったのではないか。
天海と崇伝は、同じ僧侶とはいえ、人としては水と油ほど別種だったのではないか。崇伝は臨済禅。天海は天台宗の人だ。片や法律や政治事務に長けたインテリ官僚。天海は、大僧正の位を持ち、陰陽道や加持祈祷に秀でた宗教家だ。家康存命中こそ共存したが、その死後、相手が没落するまで暗闘を繰り広げた。
彼ら8人の活動時期も微妙に異なる。
家康が16年の短期間で、一地方都市だった江戸を、何人も侵すべからざるほどの首都に発展させ、全国の陸や川、海、そして海外から富を吐き出させるために、必要な時期に必要な人材を登用投入した。
これが天下普請タスクフォースの全容ではなかったか。
タスクフォースとは、緊急性の高い、特定の課題に取り組むために設置される特別チームのこと。組織内の各部署から適任者を抜し、短期集中的に課題解決にあたる。
したがってタスクフォースは、「目的が発生したときに編成され、目的が達成されると解体される」という宿命を持つ。時限的な集団だから、その編成期間中には手抜きをせずに全力を注ぐのだ。
彼ら8人も例外なくその宿命を負っている。
家康は自らの死期をもあらかじめ予測していたかのように、タスクフォースの目的達成を見届けて、死んだ。
8人のその後の運命は、家康の死後、ある意味で象徴的だ。
角倉了以は家康の死より2年前に亡くなった。その子は書家として名を残した。
後藤庄三郎の後藤家は金座として世襲していくが、二代目は家康の落胤説もある。
崇伝は、家康死後、その神号問題で天海と争い敗北。政権中枢から遠ざかるが、後に公家法令を起草する。
天海は、家康死後、三代将軍家光に重用された。8人の誰よりも長く生き108歳の天寿を全うした。
三浦按針は、不遇だった。家康死後、二代秀忠は平戸を除き鎖国を敷いた。平戸で6年ほど生きて欝々として死んだ。
茶屋四郎次郎は、家康の伊賀越を助けた初代清延は関ヶ原の時はすでにいない。栄華を極めたが、1635(寛永12) 年に異国への渡海禁止により、南蛮貿易ができなくなり、次第に没落。
伊奈忠次は、家康の死より4年前に亡くなった。忠次死後、9年後に藩は世嗣が無いとして改易。
大久保長安は、抜群の功績があったが、死後悲惨な仕打ちを受けた。死後に生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、7人の子は切腹。
狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵われ、と故事にある。
すばしこい兎を獲り尽くしてしまうと、飼い主に忠実な猟犬は不用となり、畜肉として食用にされてしまう。空高く飛ぶ鳥も獲り尽くしてしまうと、それを射る弓矢は不要となり倉庫に納められてしまう。
異能者は使い尽くされ、その成果が大きければ大きすぎるほど、その役割を終えると、忌避され、下手をすれば没落するのだ。
いずれにしろ、財政、貿易、外交、交通、司法、流通、防衛、首都建設。300年の土台作りが、家康、生涯最後に打った一策で、成った。
史上最強のタスクフォースといえる。