三つ子の魂百まで
とはよく言ったもので、今でも子どもの頃の、小中学生の頃だと思うが、国語の教科書の情景が鮮やかに残っている。
中原中也のあの美しい顔写真や、こんな若く亡くなってしまったのかという驚きが、記憶にある。
せきをしても、ひとり。
なに?これだけ?
子どもだと、異質なものは喉に小骨が刺さったようにずーっと気にかかる。
大人になればわかることだが、これは自由律俳句というものだそうだ。
「部屋で咳をしたが、部屋には私たった一人だ。誰が心配してくれるでもなく孤独だ。」
この句を詠んだ尾崎放哉はこのころは晩年で、死の数ヶ月前だった。破天荒な人生を送ってきた彼は酒癖が悪く、金の無心をするなど周囲からの評判が良くなく孤立した状態で、孤独の極致を純粋に表現したのがこの句だという。
放哉と同時代の俳人に、種田山頭火がいる。彼も自由律俳句の人。
分け入つても分け入つても青い山
と聞いて、昔のコマーシャルか何かで覚えていた。
次に忘れられない情景は、横光利一の短編小説「蠅」に出てくる。
「お母ァ、馬々。」
「ああ、馬々。」
この表現、すごい臨場感だ。
馬車に乗る中に母子がいて、男の子が母に話している。
「お母ァ、見てみなよ。馬だよ。」
せいぜいそんなところだろう。
それが、
「お母ァ、馬々。」「あぁ、馬々。」である。
「蠅」は、馬車の乗客らが馭者の居眠り運転により、馬車もろとも崖下に墜落し、その刹那その飛び立った1匹の蝿だけ生き残るという話だ。
当然、この母子も死ぬ。
あどけない親子の直情的な会話と、死。
子どもごころに、衝撃的だ。
余談だが、この作品発表の4ヶ月後に関東大震災が起こる。
恐ろしいほど、暗示的である。
魯迅の「故郷」も印象深い。
私のこの頃は、日中友好条約の時分で、今ほど情報もなく中国がどんな様子か時代背景などあまりわからなかった。
この話の中では、二つの言葉が強く記憶に残っている。
猹(「チャー」という動物)
纏足
登場する動物「猹」(チャー)は、地元の人々の発音をもとに魯迅が漢字を造ったものだそうで、主人公が実家に足を踏み入れ時、脳裏に浮かんだ情景にチャーが現れる。
金色の満月の下、見渡す限りの海辺の砂地にスイカが植えられていて、その真ん中に少年が刺叉(さすまた)を手に立っている。少年は一匹の「チャー」を突こうとするが、「チャー」は身をかわして逃げてしまう。
子どもの私は、教科書の欄外のチャーの説明で出てくる「猹」という見たことのない不思議な文字に、俄然興味をそそられた。
創造の動物とはいえ、私は想像力を総動員して、脳裏に猹を結像しようとした。
それは、かたい毛で覆われたウリ坊のような形をしていた。
その瞬間から、授業はうわの空。自分のノートに鉛筆で、出来損ないのウリ坊のような絵を一心不乱に書いていた。
纏足は、なぜか本を見たことがあって、知っていた。
世界の奇習のような特集だった。
中国の纏足、ビルマの首長美人、下唇に円い皿状の板をはめたアフリカの部族など、、。
「故郷」では、豆腐屋小町のヤンおばさんという人のことを、「飛ぶように馳け出して行ったが、あの纏足の足でよくまああんなに早く歩けたものだね」と主人公の母が言っていた。
今回は、脈絡もなく、三つ子の魂を徒然にお話ししている。
最後は、最も記憶に強く焼きついた話。
長谷川四郎の「赤い岩」。
この年は授業が教科書の最後まで終わらず、この作品は自分で読んだだけだった。
赤い岩は前後半に分かれていて、私が教科書で見たのは前半部分、文庫本にして8ページ程度の短い話である。登場人物は、毎日草原の上で羊の番をしているニウガルという孤児と、彼が1度も見たことがなかった外国人の男1人。
話の時代は、現代ではなくおそらく戦時中のモンゴルだと思う。
羊飼いニウガルは、村はずれの橋の下で寝ている外国人を見つける。
最初、彼は男をジュンガリア人かと思う。
次に、男は青い眼でモンゴル語が通じないことがわかる。
オロス人ではないかと、思う。
2人は身振り手振りするうち、ニウガルには、男は腹が減っていて、ここにいることを誰にも言うなと言っていることがわかる。
彼は、大急ぎで家に帰りミソのかたまりとアワのめしをもってくる。
男はうまそうにそれを食べ、彼がそこを立ち去ると男はお別れの手を振っていた。
それだけの話だ。
いまでこそ、モンゴルは身近な国だが、私の子どもの頃は近くて遠い国だった。
羊飼い、草原、ジュンガリア人などと聞くと、私は、その未知の世界を稚拙な脳みその中で必死に結像しようとする。
実は、その時に結像した情景が、いまもまったく同じに残っている。
実はこの話は後半があり、一転して残酷で悲しい話なのだが、それは大人になってからわかったことで、いまの私にはあまり関係がない。
とくにテーマなどのない徒然草なのだが、ここまで書いてきて、気がついたことがあった。
私だけに言えることかもしれないが、子どもの頃というのは、大人と比較して、外からの情報も限られている。知識も知恵もまだあまりない。頭の中の照度はさほど明るくない。
ただ、子どもは感受性が豊かで、その感受性によってある事象をつかむと、心の深い場所に留め置くことのできる装置を持っていると思う。
そして、残念なことに大人になるほど、その装置の性能は鈍っていく気がする。
心の深い場所に留め置くことのできる装置
を一言で言い換えると、「童心」ということではなかろうか。
子供は時に意味のわからない行動にでるが、
それは大人になるにつれて常識の枠ができてしまうため、そう思ってしまうのである。
子供の方が無駄な知識や情報に左右される事なく固定概念に縛られない考えを持っているからこそ自由な発想を持ち、時には大人を驚かせるような作品をつくりあげる事がある。
この純粋な心を利用する事で想像力を鍛える事ができる。
(https://zinart.jp/より)
これからも、どこかに童心が残っているなら、それを精一杯呼び起こして、いろいろなものを感じてみたいと思う。