雷電風雨の革命児・高杉晋作の「点と線」 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

青春スター、という言い方をいまはあまりしなくなった。

昭和の青春スターとは言っても、令和の青春スターとはまず言わない。


私にとっての青春スターは、中村雅俊だ。


1974(昭和49)年「われら青春」で本格デビューし、「俺たちの勲章」「俺たちの旅」とヒット作を飛ばし、その勢いで1977(昭和52)年に初の大河ドラマに出演。

それが「花神」の高杉晋作役である。

 

中村雅俊をはじめ、久坂玄瑞役の志垣太郎、天堂晋助役の田中健、山県狂介役の西田敏行、時山直八役の松平健など皆んな20代半ば。

平均年齢がかなり下がった新しい大河だった。


 

大河「花神」における晋作の原作は司馬遼太郎の「世に棲む日日」である。


現在もこの「世に棲む日日」が、稀代の革命児・高杉晋作像を形作っていると思う。

劇中の晋作は行動的で、直感的で、痛快だ。

 

後世の作家や私たちが晋作をイメージするよすがとなる言葉がある。

幕末、晋作とコンビのように共に行動した伊藤俊輔(のちの博文)は、晋作を次のように評した。

 

動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然、敢て正視する者なし。

 

太平記の楠木正成にしても、義経記の源義経にしても、忠臣蔵の大石内蔵助にしても、彼らの名や生き様を歴史に刻むには、必ず喧伝する逸話や文学作品が存在している。


晋作においては、伊藤俊輔のこの一言が、彼の中に内在する人となりを一気に凝縮させ、後世にひとつの視座を与えた。

この言葉、どうみてもヒーローの定義そのものではないか。

 

中村雅俊が雷電風雨の痛快な晋作を見事に演じたが、原作通り、晋作には知る人ぞ知る印象的ないくつかの場面がある。

 

ひとつは御成橋事件だ。


師である吉田松陰が国事犯として刑死した後、小塚原に葬られていたのを、晋作らが義憤に駆られ(たように演じて)、墓を掘り返し、義士として改葬するめに遺骸を大甕にいれ、丁重に世田谷村へ運んだ。その途中、江戸城下を通過する。

葬列は御成橋まで来た。橋の向こうは上野寛永寺。御成橋は、将軍が寛永寺に参拝するときに限り将軍のみが渡ることができる。やんごとなき橋なので、番士が詰めている。 

 

晋作は、「渡れと言ったら、渡れ」と大甕を担ぐ人夫に叱咤した。

番士は、「何方様とも存じませぬが、それなる白布でつつみたる品々、公方様へのご献上品でござるか」

晋作「死骨である。勤王の志士松陰吉田寅次郎の殉国の霊がまかりとおるのだ」

番士「罪人の死骨など…」

晋作「橋番っ。さがれ、勅命である。」

番士「なにが勅命」

晋作「わけは、家茂にきけ」

晋作一行が橋を渡り過ぎてこの一幕は終わりである。

マンガのような痛快さである。


 

家茂将軍上洛時の一件もそのひとつだ。


文久3年3月11日、天皇の行幸があった。関白、将軍らがこれに供奉する。その様子が、

 

まことに古画のごとし

あたかも神仏を拝するがごとし

 

などとある。

晋作が雑踏に混じってこれを見物していた。

 

以下、「世に棲む日日」。

 

(こんな若者だったのか)

と、晋作は近づいてくる徳川家茂の騎馬姿をながめて意外な思いをした。存外、可愛げではないか。

ひとびとはみな土下座し平伏している。が、晋作だけは顔をあげていた。

「いよう。ー」

と、この男は、花道の役者に大向こうから声をかけるように叫んだ。

「ー征夷大将軍」

といったとき、さすがに連れの山県狂介らも顔色をうしなった。

 


晋作には、休息がない。

文久3年8月、長州藩による馬関海峡を通過する外国船の無差別攻撃に対し、その報復として行なわれたのが、英米仏蘭四カ国連合艦隊による下関砲撃だった。

 

長州は負けた。

 

講和ということとなり、使節の代表に急遽抜擢されたのが晋作だった。

このとき、脱藩の罪で牢にいたというのだから、いかにも晋作らしい。

連合国側は、賠償金として300万ドルの支払いを求めてきたが、高杉は支払うのは長州藩ではなく、長州藩に攘夷を命じた幕府の義務である。幕府に請求せよとして、相手に認めさせた。

問題はこのあとだ。英国の提督は、彦島の租借を、求めてきたのだ。晋作は直感的に租借がなんたるかを理解し、拒絶しようと思った。

 

以下、「世に棲む日日」。

 

「それはならぬ」

とこの魔王は言わず、いわば気が狂ったように象徴的な大演技をはじめたのである。かれは大演説をした。〈中略〉

晋作は、古事記・日本書紀の講釈をはじめたのである。

「そもそも日本国なるは」

と、晋作はやりだした。

「高天ヶ原よりはじまる。はじめクニノトコタチノミコトましまし、つづいてイザナギ・イザナミなる二柱の神あれまして天浮橋にたたせ給い、天沼矛をもって海をさぐられ、その矛のさきからしたたるしずくが島になった。まず出来たのが、淡路の国のおのころ島である。……」


 

 

ドラマでは、伊藤俊輔が黒紋付で晋作の脇に侍り通訳をしていたが、訳すことができず、アーとかウーとか言いながら弱り切っている姿が憮然とした晋作との対比で、とても鮮烈であった。


晋作は、彦島租借の要求に対して、延々と古事記の講釈をして、うやむやにすることに成功したのだ。

 

こうした痛快無比な晋作の逸話は果たして事実なのか。


史実か、虚構か。

 

司馬遼太郎が描かなかった幕末」(一坂太郎著)には、このようにある。

 

○御成橋の件。

虚実入り交じった講談調の晋作伝には、必ずと言っていいほど登場するエピソードだが、当時の史料には見えない。

 

家茂将軍上洛時の件。

この話も、古くからの虚実入り交じった晋作伝には登場するが、確かな史料があるわけではない。

 

○古事記講釈の件。

このエピソードも講談調の晋作伝に見られるが、史料的根拠は一切ない。

 

と、そっけない。史実ではないと言う。

 

そのあたりを司馬遼太郎はどう思っているのだろう。彼はその著書で、後世の者が歴史を見ることはビルの屋上に登って街を見下ろすのに似ている、と言っている。

 

一人の人間をみるとき、私は階段をのぼって行って屋上へ出、その上からあらためてのぞきこんでその人を見る。同じ水面上で、その人を見るより、別のおもしろさがある。

〈中略〉

もしその人間が、路上で財布をひろったとすればどうであろう。残念ながら、屋上からでは(つまり時間的距離がはなれていては)その財布の中身まで見えにくい。また、ひろってよろこんだ表情のデテールはわからない。そういう困難さはある。(「歴史と小説」より)

 

晋作で言えば、知り得る「史実」だけでは、彼の財布の中身や喜んだ表情がはっきりわからない、ということだ。

さらに言う。

 

しかし歴史がいかに巨視的であろうと、かれが都電通りを横断して歩道にいたろうとしたとき、もう一度財布の中身をのぞきこんで、立ちすくんでしまった光景くらいは、みることができる。立ちすくんだことで少額な中身ではないことが想像できる。(同上)

 

この想像(乱暴に言えば、虚構)が「史実」と「歴史小説」の違いなのだろう。

晋作の史実は点に過ぎず、「世に棲む日日」では線になる。

点と点を結ぶ補助線が、御成橋事件であり、将軍上洛時の件であり、古事記の講釈であろう。

 

多くの人が、晋作なり龍馬なり、その歴史上の人物の逸話や言動のすべてが史実であって欲しいと思うだろう。

しかし、エビデンスのみしか史実として扱われないならば、私たちは歴史に対してほとんど無力だ。それほど史実は、人物を点でしか見せてくれず、後世の者には意地悪である。

 

作家がすぐれた補助線を描くのなら、その人物を線としてみることの幸せを得ることができる。

それを喜びとしたい、と私は思う。